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#24 DON’T LOSE


 その日、吉谷里は皇帝の横でほくそ笑んでいた。

「そうか、そんなにも彼奴の作品が楽しみか」

 皇帝はそんな彼の様子を見て言う。吉谷里は何も応えることなく、しかし慌てるように表情を引き締めた。

 吉谷里は知っていた。

 ――彼女がやってくることはないのだということを。


 紙の流通を止めるために、文書を作った。そうすれば、廃妃たちの最大のアイデンティティである創作は立ち行かなくなるだろう。

 さらに、斑鳩の協力であの廃妃たちの取引相手の乗っ取りを仕掛けてある。もう彼女らの書物が流通することはない。

 そして、とどめに昨日紙の流通を再開するよう頼んできた奉景のことだ。期限を一晩と定めたのは、他ならぬ吉谷里だった。


(木版や石碑を一晩で作れるはずはない。詩を書けるのは紙のみだが、一晩で手に入れることは不可能だ)

 宮廷への紙の流通を禁じているのだ。それ以前に紙は作られてすらいないのだ。制作工程は知らないが、紙は一晩で作れるわけがない。


 吉谷里は勝利を確信していた。


 そう、彼女が現れるまでは。


「失礼します、皇帝サマ」

「奉景、貴様何をしに来た」

 吉谷里は玉座の前に立つ彼女を睨み付けて尋ねる。

「もちろん、できたモノを提出しに、だが?」

「嘘をつくな。作れないことは――」


「吉谷里」

 皇帝が、吉谷里を睨み付けていた。

「……はっ」

 黙れ、と仰せだ。吉谷里は理解していた。

 訪れる沈黙。目の前の廃妃を警戒する吉谷里。緊張感の漂う中、皇帝は奉景に告げた。

「さあ、出せ」


「見せてみよ。お前の最高傑作とやらを」


 威圧感の中、しかし彼女はどこか余裕ありげに、けれどいつものようにふざけることもなくそれを取り出す。

「ええ。ご覧ください」


 吉谷里は驚愕した。

(何故だ。――何故、紙がある)

 皇帝に手渡されたのは紙だった。生産を禁じているはずの、紙だった。

「確認ですけど――生産を禁じられたのは『上質白紙』だけですよね?」

 息を呑む吉谷里。白紙以外にも紙があるとでも言うのか。

「知っておりましたか? ――紙にも、種類というものがあるのですよ」

 奉景の言葉とちょうど重なるかのように、皇帝は息を呑む。

「ほう、このざらざらとした感触、独特の模様……これは、何だ?」


「庶民向けの、藁紙です」


 ここで初めて、吉谷里は自身の作戦の穴に気づいた。

 そう、市井の庶民に向けた粗悪な紙の生産は、未だに続いていたのだ。しかし。

「その紙も宮廷へ卸すことは禁じられているはずだ。何故持ってこられた」

 皇帝のその疑問は尤もだった。けれど、その応えすら単純明快。

「弟子に頼んで、持ってこさせました」

 彼女には弟子がいた。庶民の弟子が。

 市場が介在しない物資の受け渡し。後宮に出入りする人々の荷物までもをひとつひとつ見る門番はいない。商人や働く人々の出入りが激しく、きりがないからだ。故に、こういうこともできてしまう。


(しかしだ。品質の悪い藁紙なんぞでそんなに良い物ができるものか。まだだ、まだ――)

 まだ、自分の負けが決まったわけではない。吉谷里はそう思っていた。思いたかったのかもしれない。

 けれど。


「――……、良い」


 息を吐いたのち、皇帝は呟いた。

 目を見開き息すら出来なくなる吉谷里。その静かな驚愕に、不敵に笑む奉景。

(何故だ。何故、何故……な、ぜ」

 いつの間に口に出ていた呟き。それに答えるかのように、皇帝はその二枚に渡る詩の書かれた藁紙を、吉谷里にも見えるようにかざした。

 瞬間、彼は息を呑んだ。


    *


 私は負けない


 たとえ嵐に呑まれようとも

 たとえ雨に濡れようとも


 私は負けない


 たとえ大河に溺れようとも

 たとえ暗闇に閉ざされようとも


 私は負けない


 たとえ悪意に殺されようとも

 たとえ人々に忘れられようとも


 私は負けない




 河原に繁る芒のように

 道端に生える雑草のように


 吹かれようと踏まれようと

 決して負けることのない


 そんな意思を抱いていたい


 私は負けない


 負けない私でありたい


    *


「大きな荒々しい字に、核となる思想コンセプト――負けないということを強く反映したことがうかがえる。藁紙に描かれた丁寧でありつつも荒々しい書は、その粗悪であるはずの紙質をも『味』として昇華している。『書』としての完成度は高いと云えよう。

 さりとて『詩』としても美しい。序盤、一枚目で何度も『負けない』と言うことで主人公の強かたる様を見せるが、二枚目でそれが理想であることが明かされる、という構成。技法としてはありふれているが、結果として『私』に対しての親近感と、それでも理想を追い続ける結末により尊敬できる主人公像というものを体現している。

 良いとは思わぬか、吉谷里」


 皇帝に名を呼ばれた男は、ただ唖然としていた。

 ただただ、その迫力に圧倒されていた。

 字の気迫に圧されて。

 何も言えずに、固まっていた。


 同時に彼は悟る。

 ――私は、負けたのだ。


 唖然とする吉谷里を置いて、皇帝はどこか興奮気味に笑みを浮かべ。

「約束通り、紙の生産、そして宮廷への流通を直ちに再開させよう」

 吉谷里を一瞥する。一つのアイコンタクトで彼の思考は再起動し、冷や汗を流しながら背筋を正した。

(――ああ、ついに宣言されるのか)


「我が国最高の文才を誇る廃妃・奉景の復活、しかと見たり。これは我が国の創作に対する機運を殊更に上げることであろう。――機は熟した」

 そう。機は、熟してしまった。過去に三度熟して――結果として枯らしてしまった機が、もう一度。

 大きく息を吸う皇帝。吉谷里は緊張と絶望が渾然一体とした表情を浮かべ。

 奉景の意味深な笑みとともに――それは、宣言された。


「これより、『皇妃選抜』の開催を宣言する」


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