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#16 独白:罪なき罰が終わるまで。


 ――あの日、わたしのすべては、唐突に壊れました。


「え、おとう、さ……」

 遊びに行って帰宅したときにまず目に入ったのは、かつて父親だったものでした。

「返事してよ!」

 静まりかえったその部屋。その腐肉にたかったハエの羽音ばかりが響きました。

「ねえってば! おき、て――」

 揺さぶり起こそうとした手に、まるで泥でも触ったかのような不快な感触。

 壊れた父親の体。恐る恐る自分の手をみると、黒い液体と鼻をつく悪臭がべったりとこびりついていて。

 思わず悲鳴を上げ後ずさり尻餅をつくと、今度はついた尻に不快な感触を覚え。

 恐る恐る見下ろすと、そこにはかつて母親だったものが、わたしの重さで潰れていました。


 特に何を特筆するものがあったわけでもない、ただの中流家庭でした。

 人並みというものがどれほどのものか存じ得ませんが、たぶん人並みに普通に育ってきたと思います。虐待とかそういうこともなくて、父さんも母さんも優しくて、特に喜ばしいこともなければ不満点もない、ごく平々凡々とした、退屈で平穏な日常を送っていました。

 もちろん何か悪いことをしたようないわれもありませんでした。

 こんなことになる理由なんて、何一つなかったのでした。


 それはあまりにも唐突で急激な、すべてを失った八歳の夏の出来事でした。


 強盗殺人とのことでした。治安の悪いエリアなのでよく聞く出来事でした。


 生きるための基盤を整えたり、考えることはたくさんあるはずでした。

 ただ立ち尽くすだけじゃ何も動き出さないのはわかりきっていました。

 けれど、体がそうさせてくれませんでした。

 涙がこぼれました。息が詰まりました。口は勝手に、本音を溢しました。


「死にたい」


 生きる希望なんて持てませんでした。

 当然です。突然、何もしていないのに親が死んだのです。それも、ひどくグロテスクでショッキングな最期を目に焼き付けさせられたのです。

 自分で言っちゃいけないのでしょうが、これを悲劇と言わずしてほかに例えようがありませんでした。


 数日後、町外れの森に来訪しました。その手には、商店から盗んだ縄が握られていました。

 木の枝に縄をくくりつけました。そして、もう片方を器用に輪の形にして結びました。

 そして、木箱に乗って、少し高めの位置の輪の中に首を入れて。

 箱を蹴りました。

 抵抗はしませんでした、暴れたつもりもありませんでした。

 絞まっていく首。意識が途切れかけた瞬間、ブチっと音がしました。

 次の瞬間「ゲホッ、ゴホッ――」わたしは地面に落ちていました。

 一度目の自殺失敗を悟りました。


 二度目。馬車の前に立ちました。

 けれど、自分の目と鼻の先でその馬は止まって。

 結局轢き殺されることはありませんでした。


 三度目。城壁まで行って血が出るまで頭を打ち付けました。

 クラクラしてもなかなか死にませんでした。


 四度目。自分の手で自分を絞めました。

 死にませんでした。


 五度目。城の堀で溺れました。

 助け出されました。


 六度目。忘れましたが死にませんでした。


 七度目。死ねませんでした。


 八度目。死ねませんでした。


 九度目。死ねませんでした。


 十度目。以下略。


 何度死のうとしたか、もはや覚えていません。

 八歳の夏は、いつの間にか終わりを告げ始めていました。


「どうして、死なせてくれないんですか」

 神様というのがいるとしたら、きっとひどく悪趣味なんだと思いました。

 将来への希望というものは欠片も残されていませんでした。自分を心配する人というものは誰もいやしないし、仲間や友達の一人もいやしませんでした。

 救いなどありませんでした。終わりのない自己断罪だけがありました。

 もしも、親が殺された現場にいれば、何かが変わったのでしょうか。

 変わりはしないでしょう。被害者が一人増えただけでしょう。

 でも、遺されるくらいなら、その方がまだよかった。

 生きることが罪で、生きることが罰で。

「どうして、生きなくてはいけないんですか」

 虚空に問いかけました。


「それはきっと、神様の思し召しだ」

 声がしました。

 ここが路地裏だったことを思い出しました。

 狭い路地裏の隅にいたわたしの横に、彼は座ってました。

「……誰、ですか」

「通りすがりの神父さ。怪しい者じゃないよ」

「シンプ……」

 不思議な響き。不思議な格好。黒ずくめに、白い襟、売ったら高そうな金属の、十字型のペンダント。

 けれど、不思議と敵意のようなものは感じませんでした。

「君は生きていることの意味を見いだせないのかい?」

 そんな問いかけに、わたしはこくりと頷きました。

「……これは持論でしかないけどね」

 前置きして、シンプは話し始めました。

「君や、いま生きている人は、理由があって神様に生かしてもらっているんだ」

 その理由が何かはわからない。けど、何らかのなすべきことがあって、そのために神様によって生かしてもらっているのだ。

 彼の言葉に、しかしわたしは。

「はは、じゃあ、なんで……なんで、お父さんやお母さんは死んだんですか。どうして、あんなに惨たらしい死に方をしなくちゃいけなかったんですか」

 静かな怒りが滲んでいたと思います。荒々しく言い放った言葉に、彼は調子を崩さずに告げました。

「きっと、それも神様の思し召しだ。……成すべき事を成し遂げた、その証」

「じゃあなんで! ――わたしはこんなにも苦しいのですか。苦しまなければならないのでしょうか……」

 もはや半狂乱でした。

 ずっと水中にいるような、そんな気持ちでした。ボコボコと溺れ続けているような息苦しさが、延々と続いていました。

 もがき疲れていました。

 弱々しく伸ばした手を下ろそうとしたとき。

 彼は、その手をつかむように、告げたのでした。


「きっと、その苦しみこそが――それを乗り越えることが、成すべきことの一つなんだよ」


「……神様って、ひどく悪趣味なんですね。こんな無意味な苦痛をわたしに与えるなんて」

「神は、意味のない試練を与えない。森羅万象、すべてに意味がある。そして」


 きっと、成せない試練を課すような悪趣味な存在でもない。そう、彼は言いました。


「行く当てがないなら、僕と一緒に来なさい。一緒に、食事をしよう」


 わたしは、彼の手を握り返しました。


    *


 何年かして、わたしが奉景先生の本に出会った頃に、神父さんは亡くなりました。病死でした。

 きっと、彼は試練を終えたのだ。そう思うと、自然と心穏やかにあの人を見送れました。


 わたしはわたしが大嫌いです。

 でも。


「せんせー、おはようございますっ!」

「おう、ラン。……今日も、よろしく」

「はいっ」


 わたしはいま、なんとなく幸せです。

 あの日はごめんなさい。一緒にいられなくて、一緒に行けなくて、ごめんなさい。

 でも、優しい友達や仲間、師匠にも恵まれて。

 死にたいなんて、いつの間にか思わなくなっていました。


 みてますか、お父さん。お母さん。


 わたしはいま、しあわせです。


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