「ありがとう。えーっと……」
俺は、目の前の、傷を手当てしてくれた少女――おそらく高校生程度だろう。はつらつとした活発そうな顔にどこかあどけなさを秘めたような少女は、その真っ赤に燃えるような一つ結びの茶髪を翻して笑った。
「ヂュホン。
お姉さん、かぁ。呼ばれ慣れないから照れる。こう、「お兄さん」とか「先輩」とか呼ばれるときなんだか気恥ずかしくなるやつ。ならない?
ともかく。
「ああ。よろしく、どぅ……でゅ……?」
「地味に発音しにくいもんね。ヂュって」
横から口をはさんできたのは、さっきのくすんだグレー髪の暗殺者。
「自己紹介がまだだった。僕はバイイン。白い
「おう、よろしくな。白銀っ」
そう笑いかけると、彼はジト目で俺を見つめた。
「……なんだかひどく男勝りなしゃべり方なのが気になるけど」
ぎくり。
「気にすることでもないか」
内心ほっとしつつ、俺は一番聞きたかったことを聞く。
「えっと、ここって……その、やっぱり――」
「孤児院よ。お察しの通り、ね」
朱紅の言葉通り、今いる部屋――保健室的な場所の外から、遊んでいる子供たちの声がした。
孤児院。親のいない子供たち――たとえば、親が死んだとか、何らかの事情で捨てられたとか、そういう訳ありの子を預かって育てる施設。痛いくらい、よく知っている。
「ちなみに、教会は?」
「何年か前に神父が亡くなったので開店休業中」
こんな辺鄙なところまでお祈りに来る物好きなんていないしね、と白銀は笑った。
「でも、孤児院だけは維持しなきゃって思って。せめてここの子がみんな巣立つまでは、ね」
なにより、私たちもここで育ってきたし。そう言って朱紅も微笑んだ。
「小さなところだけど、ゆっくりしてってね」
保健室のベッドで寝ている、助けられたもう一人の女性をそのままにして、俺はドアを開けた。
「あ、バイインにぃが連れてきたおねーちゃん!」
さっきのちっちゃい女の子だ。頬をピンク色に染めて、ニヤニヤしていた。
「フェン。なに変なこと考えてんのさ」
「なんでもないよ、リュスア!」
もう一人、小柄な少年。笑いあう二人の幼い子供たち。
向こうの世界では、リュスアと呼ばれた少年のほうは、小学二年生くらいだろうか。フェンと呼ばれた女の子のほうは小学校に入れるかも怪しい。
こんな幼い子どもたちだ。確かに、この孤児院という場所がなければ生きてはいけないだろう。
「とりあえず、お姉さん!」
フェンのほうが、俺の手を引いた。
「なぁに?」
「あそぼ!」
彼女は天真爛漫で疑うことを知らないようだ。満面の笑みで、困惑気味の俺を見つめてくる。
「おい、こいつはまだ素性が知れないんだ。あんまり触らないほうがいい」
対し、リュスアの方は疑り深くて責任感が強そうだ。至極当然で賢明な判断で、懸命にフェンを引き止めていた。
えー、いいでしょー、となおも引き下がらないフェン。このままじゃ埒が明かない。
自分は怪しいものじゃないよ、と口を開こうとした、そのとき。
「ふぁ……なに? なんのさわ、ぎ……」
廊下の奥から、声がした。
口をぽかんと開けた、藍色っぽい黒髪を伸ばしっぱのストレートヘアにした女の子。だいたいギリギリ中学生にならない頃だろうか。
片手には文庫本……をちょうど取り落としたところ。困惑と衝撃がこちらまで伝わってくるようで。
彼女は呟いた。
「奉景、せんせー……?」
「ランねぇ? どうしたの?」
「……ラン姉?」
フェンとリュスアが口々に尋ねる。
「…………」
押し黙ったまま立ち尽くす、そのランという少女。
「……ラン?」
白銀もこちらを覗き見て、朱紅はきょろきょろ周りを見回し。
最後に、俺は。
「や、やあ。ランちゃん……?」
口調を柔らかくして、なるべく柔和な――おそらくぎこちないであろう笑みを浮かべて、告げた。
――そうしなければ、彼女の「幻想」をぶち壊しにしてしまいそうで。
果たして、少女は――目をうるわせ、鼻をひくつかせて。
「……ほんとうに、奉景せんせー、ですか?」
「うん。そうだよ。……いかにも、私が奉景です」
泣きそうな顔で、微笑んだ。
「本物、だぁ……」
彼女が取り落とした本。その表紙に書いてあった著者名は、まさしく今の自分の名前そのものであった。
*
「へー。昔からお……私のファンだったんだ」
「はいっ! ずっと昔から好きでした!」
満面の笑みで、ランはそう告げた。相当俺のことが好きらしい。……え、好きって
ちらっと周りを見てみると、フェンが廊下の隅からニヤニヤしながらこちらの様子をうかがっていた。
「そ、そういうのじゃないからっ! やめっ、そんな目で見ないでフェン!」
「いやー、こんなにうれしそうなランねぇ、はじめて見たなぁって」
「……(赤面)」
なんだよこの生き物、かわいすぎかよ。愛でたい。
目の前で本を掲げて目をキラキラさせてる少女をなでくり回したい衝動を抑えながら、俺は彼女の話を聞く。
「……せんせーの作品はわたしを救ってくれたんです」
うっとりした目で、彼女は語りだした。
「かねてよりせんせーの本は読んでいたんですが、何年か前に家族がみんな殺されて天涯孤独の身になった後に出た、短編集の『
この子、やたらと過去重くね?
あと今日凶狂叫ってーと……『生前の奉景が最後に出した本よ。あまりの内容の暗さ、というか狂気じみた描写から、呪われた迷作との声が名高い……』知ってるよ、シス子。図書館で読んだもん。数ページ見てそっ閉じしたけど。
その作品を一言で表すなら、諦観と絶望を行ったり来たりするような、うつを具現化したような一冊である。奉景作品史上売り上げワースト一位も納得。
そんな本でも人を救うことがあるってんだから、やっぱり世界は
『やっとつながった……。調子はどう……ってかその子誰?』
安堵した様子のシス子の声にこっちも少し安心しつつ、ランに向かって。
「……そっか」
とだけ返した。どう返すのが正解なのかわからん。
けど、これだけは言える気がした。
「よく、生きてきたね。……おめでとう。ありがとう」
何に対して感謝したのか、なにがおめでとうなのか。言った俺自身さえも分からない。
けれど、ここまで過酷な運命を乗り越えて生きてきた彼女に対して、何かしらの祝福をしたい、だなんて身勝手で烏滸がましい考えを抱いたのは紛れもない事実で。
彼女はまた、目に涙を浮かべた。
……いまが、ちょうどいいかな。
嬉し涙を流し始めたらしいランの少し後ろ――白銀に目配せすると、彼はこくりとうなづいて、一歩前に出た。
ただならぬ気配を察したのか、子供たちは一歩引く。ランも、涙を拭きながら朱紅に手を引かれ少し後ずさった。
白銀と俺の間に何もなくなった。否、緊迫した空気が漂う。
その中ではじめに口を開いたのは白銀のほうだった。
「奉景さん。……学のない僕でもわかる、有名な方だ。それが、なぜ、身分を隠してまでこんなところへいらっしゃったのですか」
あーあ、警戒されちまった。上下関係ができちまった。こうはなりたくなかったんだけどなぁ。
「そう緊張しないでくれよ。タメ口でもいいぜ? 実際ほぼタメだろうし」
「そんな、畏れ多い」
にこやかに笑いかけた俺に、緊張というか緊迫した様子の白銀。……当然か。
こっちは本来なら敬われるべき立場。廃妃。――元、皇妃。
公の立場からは退いているらしいとはいえ、こんなところにいていい人間じゃあない。
かたや向こうは平民。というか貧民。被差別階級であってもおかしくはないアングラな世界の人間だ。
……あんまり長居はできねえな。
「こほん。単刀直入に言おう」
なので、さっさと要件を話すことにした。
「この孤児院に、寄付をさせてほしいんだ」