ざっざと土を踏み鳴らす足音。暗い建物の影。
路地裏。その中心に出ると、俺はその暗闇の世界に嘆息した。
「これが、この国の本来の姿か」
いわゆる、スラムだった。
テントのような、あばら家のような、そんな建物とも言えない何かが所狭しと並び、薄汚い人々が虚ろな目で何かを呻く。
……確かに、お世辞にもいい場所とは言えねーけど、俺にはこのくらいの雰囲気のほうが似合っているように感じる。
「よぉ、嬢ちゃん。見かけねぇ顔だな」
やせこけた男が、酒瓶片手に話しかけてきた。
ぼろきれを纏った浅黒い肌は少しだけ紅潮しており、不衛生であることがうかがえる。
「ああ。新参でな。あいにくと金は持ち合わせていねぇんだ」
「その割に高そうな服着てんじゃあねぇか。いまここで脱いでくれてもいいんだぜ?」
「遠慮するよ」
そう言って笑うと、下卑た面をしていたその男は「チッ」と舌打ちをした。
「それより、孤児院とかねぇか?」
「……お前さんも悪だねぇ」
「ンなドン引きするなって。『そういうこと』じゃねーから」
おおかた男は俺が孤児院の子供をさらって売り飛ばすとか考えたんだろう。
流石に俺はそんなことするような悪人じゃあない。むしろ、いまからするのは慈善事業だ。
「あっちだよ」
男の案内に、俺は「ありがと!」と言ってその場を後にする。
で。
「うっへぇ~可愛い嬢ちゃんだねェ~」
こうなった。
大柄で筋肉質な男が俺に言い寄る。
すり寄って、下卑た面を俺に拝ませる。気持ち悪い。
俺はため息をついた。――はめられた。
よく考えてみれば当然か。改めて考えてみれば俺のいまの姿は、上流階級の女だ。
いま着ている服は、普段着だということを差し引いても貧乏人には大層価値があるだろうし、身体は身体でいくらでも使いようがある。出来れば考えたくはないものだが。
「おじさんねぇ、チミのようなカワイイ女の子を殴るのが趣味なんだよォ~」
「へぇ、趣味悪いっすね」
「言うねぇ~。いま実演してやってもいいんだよォ~?」
やけに語調がねっとりしてキモいオッサンだ。にやけまくった顔も気持ち悪い。
渋い顔をした俺。薄暗くて狭い路地。オッサンの背後――なにかが、いた。
「……オッサン」
「おじさんだよォ?」
「てめぇ、後ろになに隠してる?」
――脳内、シス子がささやいた。
『女性よ。あなたと同じくらいの年頃の』
同時に、オッサンはしたり顔で告げた。
「オモチャだよォ~。――言ったじゃないかァ。カワイイ女の子を殴るのが――」
非常に、悪趣味だ。
苦い顔で俺は道端に唾を吐いた。そして――駆け出す。
短い路地。俺は男に向かって、否、その先を目指して。
「フッ」
短く息を吐き、小柄な体をかがめ、男の脇を素早くすり抜けようとした。
そう、
次の瞬間、俺は突き飛ばされていた。
「おっと、失礼ッ」
胸骨の下、
「手がァ、滑ったァ!」
二度目、三度目。
もう一度鳩尾に、そして地面にたたきつけるかのように腹の真ん中に。
吐き出した胃液のオレンジが宙を舞った。
びちゃびちゃとグロテスクな臭気の雨が降る中、背中から地面にたたき落された俺は、少しの時間だけ呻き声をあげて。
上体を起こすと、そこには既にオッサンがいた。そのキモい顔面を最大限の笑みで歪めていた。
――ああ、それは俺も同じか。キモいくらい口角が上がってるや。
息を吸った俺。向こうに、金髪の女性がいるのを確認して。
男が手を振り上げるのとほぼ同時に、俺は叫んだ。
「逃げろッ!」
「英雄ぶってるつもりかァ!」
顔面を殴られた。
「俺はなァ! 英雄様とか! お貴族様とかァ⁉ 大ッッッ嫌いなんだ、よォ!」
右頬。左頬。顎。鼻。
『ちょ――なんで、無抵抗で殴られ――』
混乱するシス子。鼻血。
「何故ならァ? 俺たちを救ってくれないからッ、なァッ!」
また右頬、左頬。腹に窮屈な感じ。馬乗りにされてんのか。
「王様も! 評議会もッ! 俺らを見ない! 俺たちを――闇から救ってはくれなかった!」
何度も殴られて――息を荒げる男。
「わざわざこれ見よがしに、俺たちの無様なさまを見に来やがって。あ? 高みの見物かァ?
自嘲気味に笑う男。
『もういいから……逃げ』
あの女の人、逃げたかなぁ。
上体を起こそうとする。
もう一度殴られた。
そして男は、フッと真顔になって。
「よし、殺すか」
気だるそうに言って。
そのまま、俺の首に手をかけた。
「これは俺たちを嘲笑ったコイツへの裁きだしなァ。仕方ねぇよ、なァァァァ!」
そのまま首を絞められる。
あ、これダメな奴だ。一瞬で悟った。
意識が急激に遠のく感じがする。このオッサン妙に手練れている。過去に何人も同じように殺してきたんだろう。
……あの女の人、逃がしてよかった。このままじゃ口封じで殺されていただろうから。
さっきからうるさく俺に呼びかけるシス子の声も、どんどん遠くなっていって。
二度目の人生なんていらなかったし。人助けて死ねるんなら、本望だ。
意識が完全にシャットダウンする寸前。
足音が聞こえた。
首元にかけられていた手が緩んだ。
ゲホゲホと咳をして、圧迫感のなくなった上体を起こした。
目の前にはさっきの女性と、ナイフのようなものを持った青年が立っていて。
悪趣味なオッサンは死んでいた。