己の迂闊さに、目も眩むほどの腹立たしさが
握り締めた拳の中、
一目見た貴方が忘れられない。
年増と言われる年齢になった吉子よりも、おそらくはだいぶ年若の少将から文が届いた。
いわゆる恋文。
薄様に書かれた手蹟は見事だったが、添えられた歌は
かつて小野小町と呼ばれ、今は亡き帝の覚えめでたく、宮中で華と咲き誇った吉子に贈るには随分と未熟であった。
うっかりと握り潰してしまった文を再度広げなおし、吉子は吐息を零した。
「これは、可愛らしい、と評すべきなのかしら」
深草少将。今上帝の覚えめでたい若者という。
技巧に走るでなく、率直とも言える言葉を連ねたその恋文は、随分と愛らしいものに見えた。思わず目元を和らげるくらいには。
だが、もう、うんざりだ。
宮中を退いてから幾年経っただろう。
暫くは引っ切り無しに恋文が届き、部屋は紙で埋まりそうだった。
一々返事を書く
目を通すだけで精一杯。
友人との和歌の遣り取りさえも儘ならない程で。
みるめなきわが身をうらと知らねばやかれなで海士あまの足たゆく来る
と詠んだくらいだ。
ここが
どこからどう伝わったものか、人によっては酷く高慢にとられてしまって。
海松布のない海のように逢う気もない私だとご存じないのね、疲れるだけの無駄足ですよ。
などとも言われているようだが、どちらでも良い。
和歌に込める思いは、きっぱりとひとつきりではないのだから。
最近は騒がしさも落ち着いたと見え、届けられる和歌も目に見えて減った。
そうして穏やかに過ごしていたのに。
もう、誰とも添うつもりはない。
帝との思い出を胸に、静かに過ごして居たい。
返歌はしないことにした。
だというのに。
毎日毎日まいにち……………。
性懲りもなく文は届く。
吉子は遂にキレた。
「私を想ってくださるという気持ち。それが本当であるならば」
御簾の向こう。深草少将は緊張した面持ちで礼儀正しく座っている。
徹頭徹尾無視するはずだった。
「
こうして御簾越しとはいえ、声をきかせるつもりなぞ、無かった。
なのにどうして。
吉子は他人事のように思う。
「私は貴方のお気持ちに応えましょう」
そんな条件を出しているのだろう。
通いきれるはずもない。
男など
けれど、深草少将は上気した頬で、眸をきらきらと輝かせ、答えた。
「必ずや、百夜通ってご覧に入れます!」
希望に満ちた表情。瑞々しい声。
「何故」
「はい」
吉子は小さく訊いた。
「何故、私なのですか」
都で評判の美女なら幾人も居る。
和歌の上手い女も、吉子ほどの才ではないにしろ、居ないではない。
花の盛りを過ぎた、年増。
かつての栄光は見る影もない。
昔その名を馳せた高嶺の花を誰か射落とすだろうかと、仲間内で賭けでもしたのだろうか。
あり得る話だ。
男たちは幾つになっても、競い合う遊びが好きだから。
深草少将は照れたように首に手をやる。
すっきりとした面。切れ長の目元。薄い唇。
美男美女を見慣れた吉子も、一目置くだけの容色ではあった。
きっと御所の女房たちからも、引く手あまたに文を貰っているだろうに。
「お噂は、予かねてより耳にしておりました。
深草少将は言葉を続ける。
「最初は、お
「この前お返しした文が、初めてでしたね」
条件を出すから屋敷まで来い。愛想も何もない簡素な文。
だのに、深草少将は嬉し気に目を細める。
「はい。舞い上がりました。まるで天にも昇る心地で……」
吉子は半眼で吐息した。
「ですが、以前、私は小町様を垣間見て、一瞬で心奪われてしまいました」
きらきらしい眸が、御簾越しに吉子を射抜く。
「お美しさもさることながら、どこか寂しげな眼差しが、忘れられません。傲慢とお思いでしょうが、私が、その寂しさを癒してさしあげられたら、と」
元服はしたけれど、まだ北の方を迎えてすらいない、少年とさえいえるような男。
どうせ、恋に恋して目が眩んでいるのだ。
本物の吉子を見たら、きっとすぐに興醒めする。
「白昼夢をご覧になられたのね」
吉子は冷めた口調で笑った。
「私は寂しさに
それに耐え抜いた吉子だ。耐え抜くだけではなく、やり返しさえした。
見せ付けんばかりに、咲き誇った。
強い女だ。
「そうでしょうか」
ぽつりと少将は零した。
「私には、小町様はとても儚く思えます」
カッと頬が火照った。
それは怒りだった。頭に血が上った。
何も知らぬ若い男が、何を知った風なことを。
「まるで
可憐で慎ましやか。
俯くようにひっそりと咲く、儚くも初々しい少女のような花。カタクリの花。
梅や桃、桜のようなと称えられたことは幾度もある。
匂いやかに、鮮やかに。咲き誇る宮中の花。
誰もが振り返り目を奪われる。
小野小町。
その吉子を指して堅香子の花とは。思わず口をついた。
花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
美しかった花の色はすっかりと褪せてしまった。春の長雨が降っている間に。ちょうど私の容色が衰えてしまったように。空しく物思いに耽っている間に……………。
痛烈な皮肉。
けれど深草少将はうっとりと溜め息を零した。
「美しい、
嫌味かとも思えるが、表情を見れば心底本気でそう思っているようで。
「幽玄な美しさの中に、儚さと悲しさとが感じられます。拙い物言いで畏れ多いことですが」
もじもじと指先を遊ばせる様は、本当に拙いというか、不器用そうというか。子供っぽい。
貴方からしたら、私は相当なおばさんなのでしょうに。
こうして向かい合っているのが本当に、不似合いだ。
「変わらぬのは月ばかり」
吉子はそっとひとりごちる。
「花も人も、空しく衰えて行くばかり」
誰も彼もが去ってゆく。
月日さえも吉子を置いて慌ただしく過ぎて行く。
月を見ると、あれこれと物事が悲しく思われる。
花を見れば、わけもなく心が苦しくなる。何を見ても、空しく思う。
そう。気付けば年を取った。
「花は散るからこそ美しいのだと、言う人もありますね」
深草少将が言葉を選びながら、紡ぐ。
考え考え、思いを伝えようと。
「永久に変わらぬものも、目を離した瞬間に変わってしまうものも、同じくらい美しいと、私は思います」
御簾の向こう。深草少将の眸が揺れる。
「美しさは力だと、思うのです。それだけで目を奪う。心を奪う。そして掴んで離さない。貴方のように」
このような物言いには慣れている。
「お上手ですこと」
軽くかわすなど、なんら特別でない普通のこと。だというのに、どうしてだろう。口が乾いた。
緊張している? 私が? まさか。
吉子はぺろりと唇を湿した。
「深草少将殿」
幾分掠れた声だった。咳払いでごまかす。
「次にお目にかかることが、果たしてありますやら」
意地悪い言い方。
だのに、まるで尻尾を振る仔犬のように。深草少将は笑ってみせるのだ。
「はい。今宵より、百夜後。再びお目に掛かります。必ず」
一体どれだけそうして座っていただろう。
吉子はため息とともに立ち上がると御簾を押し退け、深草少将の座っていた
「
かすかな残り香に目を細める。薫物の趣味は悪くない。
華やかで今風で。けれどくどくはない。どこか鋭さも感じられる。
「丁子が多いのかしら」
梅花は春の香り。その名の通り梅の花の香りだ。
吉子には少し甘ったるく思える麝香が少ないと見えるのも、悪くない。
そう。悪くないのだ。
深草少将の印象は、思いのほか吉子の中に強く残った。
それが腹立たしくもある。
雑な動作で袴を捌き、どっかりと腰を下ろす。
片膝を立て、肘を置き、口元に手を当てると、深々と溜息を吐いた。
「何なのよ」
己が心がわからない。何故試すようなことを言ったのだろう。
もしも条件を満たしたなら。もしも百夜、通い通せたなら。あの子供のものになるのだろうか。
この小野小町が。
あり得ない。
「三日で音を上げるでしょう」
皮肉気に唇の端を吊り上げ、目を細めた。
かつての遊びを思い出し、吉子は心が躍るのを感じる。
そうか、退屈しのぎだ。私は退屈に飽いていたのだ。
徒然に飽いて、刺激を求めた。それだけだ。
なんだ、不思議なことなど何もない。
吉子はどこかホッとして、溜息を吐くように笑った。
「御方様、深草少将様がお出でになりました」
「もう来たの?!」
気付けば月は天高く。いったいどれだけぼんやりとしていたというのだ。
額を抑え、吐息する。不覚である。
どうもさっきから溜息ばかり吐いている。気に入らない。
「そしてこれを置いてお帰りになられました」
女房が差し出したものを見、吉子は怪訝そうに眉を寄せた。
「
実とは言うが種子である。
「通ったという証に、これを御方様にと」
受け取った実を矯ためつ眇すがめつ眺めると、吉子は童女のように可愛らしく小首を傾げてみせた。
「虫下しにでも使えというのかしら」
「風情のないことを」
「冗談よ」
榧の実はよく炒って、数十粒も食べると
生の実は臭く、灰汁も強いが、灰汁抜き後によく炒った種子の芳りは、香ばしく素晴らしい。
「数えて待っていろと、いうことなのかしら」
掌で転がして、玩もてあそんで。吉子はにやりと笑った。
「上等じゃない」
いったいどれほど久し振りだろう。心が躍る。
こんな風に楽しいと思えるのは、どれだけ久し振りのことだろう。
「文箱、硯箱、どこに入れておきましょう。ふふ、いったいどれくらい溜まるのかしら」
それから五日。
激しい雨が降っていた。
流石に吉子も鬼ではない。今宵は拭くものと湯とを用意して迎えるように言付けていた。
「白湯などお出しして、休んで行かれるようにね」
「深草少将様はお帰りになられました。百夜には程遠いのに、お目に掛かるわけにはいかぬとのことです」
「あら。骨のあること」
気骨のある若者は好ましい。ふふん、と吉子は笑う。
「これは意地の張り合いね。楽しくなりそうだわ」
「それは宜しゅうございました」
「どれくらい続くか、賭けない?」
年老いた女房はやれやれと白髪頭を振って答えた。
「意地がお悪うございますよ」
その言葉に、吉子はいたずらっ子のようにぺろりと舌を出す。
「葛粉くらいは、贈っておこうかしら」
風病など得ては大変だ。
「それが宜しゅうございましょう」
「では何か、和歌を添えねばね。紙は何にしましょう」
鼻歌のようにご機嫌で去っていく主を見送り、女房はまた、やれやれと頭を振った。
あっという間に十五日が経った。
「正直、ここまでもつとは思っていなかったわ」
「さようでございましょうね」
箱の片隅に置くには量が多い榧の実を転がし、吉子は頷いた。
「十づつ、糸を通しておきましょう。数えやすいわ」
女房は何も言わず、そっと錐と針、糸を差し出した。
「さすが、気が利くわね」
糸を通した榧の実を
「楽しいわ。そうね、悪くない気分よ」
その夜、怖い夢を見た。
奈落に吸い込まれるようにどこまでも落ちていく夢だ。
底の方では何本もの手が吉子へと伸びていた。
はやく。はやく、ここまで、落ちてこい。
どこまでも白い顔。目の辺りはくりぬかれたように空洞。白い顔が叫ぶ。
我らを弄んだ罪を知れ。はやく。ここまで。落ちて。我らと、共に。
冗談ではない。
好いては居ない男になど、誰がこの身を任せようか。
無下にした恋文もある。それは確かだ。
それでも吉子は己が心に正直に生きた。
顧みなかったことを恨まれる筋合いはない。
屋敷の周りを練り歩き、付きまとう男がいた。歌人仲間の武官に追い払ってもらったこともある。
適わぬ恋に苦しんで、せめて一夜と叫ぶ男がいた。恋われたことは数多。
それでも、誰も彼も皆。まるで玉杯のように、ただ手に入れたことを見せびらかしたいだけ。
小野小町を射落とした。その称賛がほしいだけ。
誰も吉子を見ていない。
「そんなあなたがたに、私が、屈するとでも思うの!」
冗談ではない。滾るのは怒り。
そして腹の底に溜まる、石よりも重い悲しみ。
所詮女は、男の庇護なしに生きられない。
女は待つもの。守られるべきもの。そんな世の中が腹立たしかった。
そして、その枠組みの中でしか生きられぬ己が、口惜しかった。
若い頃は抗って、抗って。顔を上げて生きていた。
強がりと言うのもよかろう。
仮面を被って、外見を取り繕って。それでも蓑虫は蓑を含めて蓑虫。
外見は中身の一番外側。砕けてしまいそうな心を煌びやかな衣装で隠して。
吉子は顔を上げて生きた。
右手が引き上げられ、落下が止まる。
振り仰げば、榧の環。数珠のように連なって、吉子の右手を支えていた。
泣きそうに顔を歪め、吉子は叫んだ。
「あなたも、そうなの?」
そこで、目が覚めた。
陽のあるうちは保っている心が、陽が落ちるにつれ、引きずられるように深みにはまる。
もう、若くはない身。
私はこの世に何かを残せただろうか。
当代きっての歌人として名を馳せた。帝の寵姫としてときめいた。
決して女御らにも引けを取らなかっただろう。
それでも、今は零落の身。
子は成せなかった。この世にただひとりきり。
世間から忘れ去られてゆくのを、待つばかり。
「寂しい」
ぽつりと口をついたのはそんな言葉で。
慌てて口元を押さえても、零れた言葉は戻らない。
そして、そんなことをしなくても。
吉子の声を聴くものなど誰も居ない。
寂しい。
鼻の奥が痛い。涙があとからあとからあふれ出て、枕を濡らす。
「いい年をして、みっともない」
叱咤する己もいるのだけれど。人間というものは老いるごとに弱くなっていくのだろうか。
自分というものが崩れていくのを感じる。
若い頃からせっせと塗り固めた殻が、ぽろぼろと剥がれ落ちていく。
「塗りすぎた
自分の台詞に少し笑った。
深草少将は今宵もただ、榧の実を置いて帰っていく。
「話くらいして行けばいいのに」
「御方様が仰ったのですよ。百夜
女房はやれやれと頭を振る。吉子はひょいと肩を竦めて見せた。
「律儀でよいことね」
二十日経ち、三十日が経った。
深草少将が、証として置いていった榧の実を指先で玩んで。
いつの間にか、彼の来るのを待っている自分に気付いていた。
愚かなことと思いながらも、もしかしたらという気持ちを抑えることができなくて。
まるで少女の頃に戻ったようだ。
「別に恋しい訳ではないのよ」
誰に言う訳でもなく、呟く。
それでも唇は綻びる。
頬が緩む。待ち遠しいのだ。
雨の日も、風の日も、深草少将は吉子のもとに榧の実のみを置いて帰る。
最初は煩わしさすら感じていた訪問が、今では楽しみでさえある。
人の心はわからない。
「私の心もわからない。自分でわからないのだから、世話無いわね」
新しい榧の実に糸を通し、吉子は苦笑する。
瞬く間に五十日が過ぎた。
ひとつひとつ榧の実を数え、残りの日々を数える。
恋しい人が待ち遠しい。
「あと、十日」
「いよいよ、明日」
今日は遂に百夜目である。
だが、外は大嵐。轟々と風が鳴り、雨が激しく叩き付ける。
今夜こそは来るまい。
こんな嵐の夜に出歩く酔狂なものは居ない。酔狂どころかただのバカだ。
吉子はつまらなそうに脇息に凭れた。
いつも深草少将が訪れていた刻限からはだいぶ遅い。
「所詮、そんなものよ」
運もなかった。ついてなかった。
晴れの日であればきっと、彼の少将は間違いなく吉子の元を訪れただろうから。
もしかしたら、と。思ってしまったのが悔しい。
もしかしたら、彼だけは違うのではないか。
一人寂しく涙にぬれる夜も、傍にいてくれるのではないか。
約束を違えず、決して、吉子を一人にしたりしないのでは。
そんなことをつらつらと思い、思わず鼻の奥がつんと痛くなった。
泣くものか。決して、泣くものか。
予想していた結末だ。
男は来ない。
吉子はひとり残される。
もう、たくさん。
悲しい想いはもういらない。
丁度いい。出家でもしてしまおうか。
俗世に見切りをつけ、念仏を唱えて日々生きる。
それもいい。
ぐずぐずと子供のように鼻を鳴らして、いつの間にやら寝入っていた。
どんどんと門が叩かれた。一度だけでなく、二度、三度。
気のせいかと思ったが、家人が慌てて走ってくる。
「少将様が、しょ、少将様が………お亡くなりになりました……………!」
不意に無音になった気がした。
風の音も、雨の音も聞こえない。
何を言っているかわからない。
死んだ? 誰が?
どうして?
吉子はその場に崩れ落ちた。
どくどくとこめかみが脈打つのがわかる。
自分の鼓動ばかりが頭の中に響いていく。
この嵐で川が氾濫。橋が押し流されたそうだ。
丁度その時、深草少将の牛車が橋を渡っていた。
運が悪かった。ついていなかった。そんな言葉で終わりにできるわけもなく。
三日三晩泣き暮らした。
何をする気も起きなくて、ただ日々が巡ってゆくのをぼんやりと見送った。
生ける屍。
庭を眺める気にもならない。和歌を詠む気にもならない。
ただ、ぼんやりと。
あの夜から、五十日ばかりが過ぎた頃だろうか。
伯父、小野
「珍しいこと。お久しゅうございます、伯父上」
篁はニッと唇を歪めて笑って見せる。若い頃の姿そのまま。
「久しいな、吉子。時に、お前は私が
夢とはいえ唐突な。吉子は小首を傾げる。
「伯父上が、何やらこの世ならざるものらと関わりがあるとかないとか、そんな話を幼い時分、耳にしたような覚えもありますが……」
はて。冥官とは何ぞや。
「冥府において、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていた時期があってな。今でもその
「はあ」
よくわからない。だが夢とはそもそもそういうものか。
「この度、ちょっと泣きつかれてな。とある御仁から頼みごとをされた」
吉子に、篁は手を差し出す。その掌に、榧の実があった。
どくん、と胸がひとつ鼓動を打つ。
「それ、は………」
篁は唇を歪める。
「とんでもない男に魅入られたものだな、吉子」
震える吉子の手を取り、篁は榧の実を乗せた。
「夢でいいから、一目逢いたいそうだ」
薄ぼんやりと、白っぽい影が現れた。困ったように眉を寄せ、苦笑を湛えた顔。優し気な双眸。
深草少将。
初めて、その顔を真正面から見た。
「申し訳ありません、小町様。貴方を泣かせるつもりはなかったのです」
頭を垂れる少将に、吉子はぎゅうっと榧の実を握り締めた。
「いいえ、いいえ! 私が、私があんな無茶を、あのような条件など出さなければ、貴方は」
篁に背中を押され、深草少将は一歩前に踏み出した。
「約束を
榧の実を握り締める手が痛い。
「……御身に、触れても?」
おずおずと尋ねる深草少将の胸に、吉子は飛び込んだ。
「やっと百夜目でしたのに。辿り着けず、貴方を泣かせてしまうなんて。己が不甲斐なさ過ぎて、口惜しくて。とても、
柔らかく抱き締める腕に、ぬくもりは無かった。
「ごめんなさい、ごめんなさい! こんなことを望んでいたわけではなかった! 貴方が死んでしまうだなんて、そんなこと、望んでなんていなかった!」
ぼろぼろと少女のように泣き崩れる吉子を宥め、深草少将は優しく囁く。
「泣かないで、愛しい方」
囁かれるほどに涙が溢れる。零れ落ちて止まらない。
「ああ、ああ、私は何ということを……!」
「貴方のせいではありません。私が不甲斐なかっただけ。貴方は何も悪くない」
吉子の額に頬を押し当て、深草少将は愛し気に吐息を零した。
「せめて、泣かないでとお伝えしたくて。それだけは、伝えなくてはと思って」
深草少将は篁を振り返る。
「篁様にお願いしたのです。どうか機会をくださいませんか、と」
篁はふん、と鼻を鳴らした。
「あまりの健気さに、閻魔大王から許しを得た。あの方はそういうところがどうにも甘いのだ」
がりがりと頭を掻き、篁は吉子に視線を移した。
「どうする」
「どう、とは……」
篁はまた、がりがりと頭を掻いた。
「これは夢だ」
「はい」
吉子は頷き、深草少将の袖をそっと握った。
感触はない。死人。霊魂。そういう類いのもの。
「だが」
と篁は言葉を続けた、
「夢の中だけでいいなら、共に居させてやることができる」
吉子の目が大きく見開かれた。零れ落ちそうだ。
深草少将を見上げ、篁を見、また少将を見た。
「どう、いう、ことなのでしょう」
深草少将は指の先、そっと吉子の涙を拭う。
「貴方が私を要らぬと仰るまで。貴方の涙が止まるまで。お傍に居ることを、お許しくださいますか」
少将の深く澄んだ双眸は青くすら見える。
「夢の中でだけ、ですが」
「夢の中でだけでも、いいわ」
吉子はぐしゃぐしゃに泣きながら笑った。
「束の間でも、いいわ。一緒に居てちょうだい」
「小町様」
「私の名、吉子というの」
吉子は涙と鼻水とで汚れた顔で精一杯、笑った。
「私も、これだけはお伝えしなくては」
ぐいと袖口で乱暴に涙を拭い、顔を上げる。
「深草少将殿、吉子は貴方をお慕い申しております」
しがみつくように抱き締め合って。お互い泣き笑い。
「吉子様」
「あなたの名を、教えて?」
深草少将は微笑んで、言う。
「私の名は……………」
世界が白む。
夜が明ける。
朝。自分の帳台で目を覚ました。
「………夢、か」
夢でも良かった。もう一度、逢えた。
「ああ、でも、夢と知りせば覚めざらましを」
戯れ事を口にして、それでも笑った。頬が濡れている。
「いやだわ」
頬を拭った袖口から何かが転がり出た。
虫かと思って飛びずさって、よく見ればそれは榧の実だった。
手に摘まんで陽に翳す。
吉子の目が限界まで見開かれる。
「夢だけど、夢じゃなかった」
くつくつと笑いが込み上げて、同時に涙が溢れて。
「ああ、なんて」
しあわせな朝だろう。
それから千年以上もの年月が経った。
晩年小野小町が過ごしたといわれる随心院には、深草少将含め数多くの貴公子から寄せられた恋文を埋めた文塚や、小野小町が化粧に使ったとされる井戸などが残っている。
小野小町の晩年については諸説ある。
ただ、吉子は天寿を全うするまで、独り身を貫いたという。