頭に来ていた。
何なの、もう!
今回ばかりは本当に許せない。
もう、こんな人と一緒に暮らしていけない。
顔も見たくないし、同じ空気を吸うのも嫌なの!
私は身の回りの物をカバンに詰める。
出ていく覚悟を決めて、生活に必要な物や貴重品、衣服などをどんどん詰めていくと案外多くなって重いじゃないの。
「ったく、もう」
スーツケースに詰め替えていく。
涙は出なかった、それよりも怒りの感情の方が断然強い。
「おい、どこへ行く?」
私が玄関を出ようとすると、秀平さんが声をかける。
「しばらく家を出ます」
「待て!」
「何を言われても、決意は揺るぎません」
「あのUSBメモリーを出せ!」
「はっ?」
「あれを世に出すことは許さん、SNSはもちろん警察にもだ」
「なんですって? そんな権限が秀平さんにあるの? 被害者は私よ」
「もし、そんなことしたら……離婚だぞ」
全く、この男はどこまで……私を怒らせれば気が済むのだろう。
「あ、そ。こんなもの、くれてやるわ」
私はUSBメモリーを秀平さんに投げつけ、そのまま家を出た。
ゴロゴロという音を聞きながら、スーツケースを引きながら歩く。
いつも、この音を聞く時は旅行へ向かう時だから気分が良かったのだけど、今はこの音が恨めしい。
怒りにまかせて飛び出して来てしまったが、これからどうしようか。
今夜は仕方ないからホテルに泊まるしかないだろう。
私はひとり、都心を目指して大通りを歩く。
「あれ?」
ふいにポツリと、冷たさを感じた。
「え?」
雨が降ってきた。
「わっ」
ザーっと本格的になった。
雨の降りだしって、こんなにも急なの?
「やだ、冷たい」
あっという間にずぶ濡れじゃない。
どこか、屋根のある場所へ行かなきゃ。
「きゃっ」
慌てたせいで転んでしまい、膝を打ってしまった。
「痛いじゃない、もう、やだ」
雨粒なのか涙なのかよくわからない。前髪からも雫が落ちているし見通しも悪い視界の中で、ぼんやり浮かぶ車の影。
あれは、もしかしたら…………いや違うわよね、透の車なわけないわよね。
私の願望が、幻想を見せただけかしら。
降りしきる雨の中、ずぶ濡れになった私は座り込んだまま。
どのくらい経っただろう。
寒い、冷たいという感覚も薄れてきていた。
山の中じゃないから、このまま死ぬことはないだろうけど……もう、どうでもいいや。
突然、打ち付ける雨が止んだ。
上を見上げると、大きな黒い傘があった。
「大丈夫ですか?」
誰かが私に傘をさしてくれている。
こんな酷い状態の私に差し伸べられた手。
「まずは安全な場所に移動した方がいいですよ、さぁ」
「あ、ありがとうございます」
掴んだ手は大きくて、男性だった。
「お家は近いのですか?」
「いえ、家には帰れないので」
「……どこか行くあてが?」
「いえ、お構いなく」
知らない人に迷惑はかけられない。
「でも、こんなに濡れていたらビジネスホテルでも入れてくれないよ?」
これから実家へ行くのも遠いし難しい。
秀平さんの待つ家へは、死んでも戻りたくない。
「そうだ、僕の別荘へ来ない?」
「えっ?」
「さすがに男の部屋には入れないでしょ? 別荘は今、誰もいないから。僕は連れて行くだけですぐに帰るよ」
「そんな、初対面の方に迷惑かけられませんから」
「やっぱり覚えてないか、実は初対面じゃないんだけどなぁ」
「え?」
そこで初めて、微笑みかけてくれる顔をじっくりと見た。
「あ、あの時の!」
「良かった、思い出してくれたんだね」
私が男たちに襲われていた時に助けてくれた人。
あの時は名前も教えてくれず、それなのにまた会えるなんて言っていたっけ。
本当に、もう一度会えるなんて……これって?
「それじゃ、行こうか」
「あ、はい」
「そこの角に車が停めてあるんだ、少し歩けるかい?」
「ええ、でもずぶ濡れですよ?」
「大丈夫、僕はキャンプとかアウトドアが趣味でね、防水のシートがあるからさ。気にしないで座ってくれ」
そしてタオルまで貸してくれた。
「ありがとうございます」
車はすぐに発進し、しばらく走ったあと高速道路へ入った。
遠くまで行くのだろうか?
私の不安は杞憂におわり、すぐに一般道へ降り海沿いの道を走っている。
「もうすぐ着くから」
「わざわざ高速を使ったのですか?」
この距離なら下道でも大丈夫なはずだ。
「この時間は渋滞するかもしれないから、少しでも早く着替えたいでしょ?」
「お気遣い、ありがとうございます。後で清算してくださいね」
「そんなこと、気にしなくていいのに」
困ったときはお互い様だよ、と言う。
こんなふうに紳士的に対応されて、私は感動していた。
秀平さんとは大違いだわ。
「さぁ、どうぞ。別荘だからテレビとかはないけど、電気や水道なんかのライフラインは大丈夫だから。あぁ、まずはお風呂かな。ここのスイッチでお湯がたまるから。タオルやバスローブも使っていいし、洗濯機も乾燥機も使ってね。冷蔵庫の中のも最近入れ替えたから賞味期限も大丈夫だと思うし」
「何から何まですみません」
「明日の朝、迎えにきますので、今夜はゆっくり休んで」
「はい。そういえば、まだ名前を聞いてなかったわ」
「僕ですか? 朝長裕也と言います」
「朝長さん」
「裕也でいいよ」
「裕也さん、二回も助けていただいてありがとう。私は木暮香澄です」
「香澄さん、可愛い名前だ」
そう言って目を細める。
裕也さんの穏やかな笑顔につられて私も笑顔になる。
なんだか、久しぶりに笑った気がする。
裕也さんが去った後、私は入浴をして洗濯をして、ようやく人心地つく。
あまり食欲はなかったので、ミネラルウォーターだけ頂いてベッドへ入る。
明日からどうしようか考える。
起業の件も進めなければならないが、まずは住居を確保しなければ。
ウィークリーマンションでも借りようか、初音と一緒に住むのもいいかも。初音の家の人が許せばの話だけれど。
あとは、何を決めなきゃいけなかったっけ……あぁ、頭がまわらない。
身体もポカポカしてきたし、こんなに急に眠気がくるなんて、おかしいなぁ。
でも、眠気には勝てそうもない……
To be continued