「えっと、サインをする前に説明してもらえるかしら?」
ウエイターは、すんなりサインを貰えると思っていたためか、酷く驚いていた。
「説明……と言われましても」
困った様子で沙代里の方を見る。
「私が説明いたします――」
沙代里が秘書としての仕事をするようだ。
感情を抑え、ポーカーフェイスで淡々と今日これまでの経過を説明する。
「――本日は午前中に一度負け越しましたが、その後は順調に勝っております。これは、香澄さんのお金を賭ける契約書ですが、秀平さんは必ず勝ちますので安心してください。負けなければリスクはありませんので……」
そうね、秀平さんが負けるはずないもの大丈夫よね、逆に勝てば儲かるわけだし――だなんて、私が喜んでサインするとでも思っているのだろうか。
普通に考えたら、賭け事に100%なんてあるわけがないのに!
「嫌よ」
「え?」
私が拒否したら、沙代里をはじめウエイターも秀平さんも他の客も一様に驚いている。
何故か――それは、みんな私が生まれ変わったなんて知らず、生前の私だと思っているから。
私が、秀平さんのためならホイホイとサインするような女だと知っているからだった。
私は記憶をさかのぼる――
あの時の私は、何の疑念も抱かず――もちろん拒否もせず――この書類にサインをした。
「任せておいてくれ、香澄の資産をしっかり増やしてやるからな」
秀平さんは上機嫌で私に笑いかけ、そして気前よくお金を賭けてカードゲームへ興じた。
最初の数ゲームは順調に勝ち続け、しかしその後は負け続ける。
そして、私のお金を使い始める秀平さん。
「大丈夫だよ、これは戦略だ。負け続けていけば相手は大金を賭けたくなる、そこで勝つ作戦だから」
そんな言葉を疑いもせず、私は楽しそうにゲームをする秀平さんを見つめていた。
負けた時は悔しそうに、そして勝てば子供のように無邪気に喜ぶ。
そんな秀平さんを見ているだけで当時の私は嬉しくて、自分のお金が減っていることさえ忘れていた。
そしてついに、大逆転! と思いきや、ラストゲームでも秀平さんはしっかり負けていた。つまり、私の資産はほとんど使われて、消えてなくなっていた。
秀平さんはその事で私に悪いと思ったためか、それからの数日間はとても優しくしてくれた。罪悪感からくるものかもしれないと思ってはいても、実際に私を甘やかしてくれれば私は嬉しくなって、幸せをかみしめる日々。
振り返れば、一度も秀平さんを咎めることもなく、その期間はひたすら幸せに浸っていた。
愚かだった。当時は秀平さんのことが頭の中の大部分を占める、恋愛脳だったのだ。
「香澄のおかげだ」
「君がいなければ」
「香澄が必要なんだ」
そんな風に言われれば、悪い気はしない。いや、それどころか私が彼を守ってあげなければ……と母性本能がくすぐられ、何を差し出してもかまわないとさえ思っていた。
私は秀平さんが初恋だったからそれまでは考えた事がなかったけれど、立派な男よりも駄目な男に魅力を感じる、そんな性分なのかもしれない。
愚かな女、こんなに容易くお金を引き出せる女、絶好のカモ、秀平さんにはそんな風に思われていたのだろう。
実際に、その後も何かにつけてお金を無心され続け、借金までし続けた人生だったのだから、これは秀平さんの策略だったのだろう。
さて――生まれ変わった新しい人生では、どのように対処しようか。
「嫌って、言ったのよ」
「えっと、それは……サイン出来ないということですか?」
沙代里は、動揺しているのにそれを態度に表さず、淡々と聞いてくる。
きっと秀平さんに、必ずサインさせるよう言い使っているのだろう。
「そう言っているでしょ、何か問題でも?」
「いえ、あの……」
沙代里を困らせるのは気分が良い。
「何をごちゃごちゃ言っている」
その声に一瞬体がビクリとした。
秀平さんの声は低くて大きいため威圧感がある。
私だけではなく、沙代里もその場にいたウエイターも他の参加者も委縮してしまう程に。
「サインなんて、しないわよ」
出来るだけ平然と、とぼけてみせる。
秀平さんに対しては真っ当に対峙するよりも、何もわかっていない振りをして躱す方が有効だと思う。それでも駄目なら奥の手もある。
「なに? どうしてだ……香澄」
「だって、秀平さんはゲームに勝つんでしょ? 負けるわけないものね」
「あぁ、そうだよ」
「だったら、私のお金なんて必要ないでしょ?」
「いや、違うんだ香澄、賭けるお金が多いほど儲かるんだよ。だからサインを――」
「儲かる? どうして?」
秀平さんは顔をしかめた。きっと、なんて馬鹿な女なんだと思ったのだろう。
「そういうシステムなんだよ」
面倒くさいとでも言いたげに、説明を端折って苦笑する。
「ふぅん、よくわからないけど、まぁいいわ」
「なら、早くサインしてくれ」
秀平さんは用紙を私の目の前に置く。
「ねぇ秀平さん、このゲームって面白いの?」
「あ? あぁ」
「そうよね、とても楽しそうだもの」
「だから、サイン――」
「私もやりたいわ」
「はぁ、何言って――」
「私のお金なんだもの、私にやらせてよ」
「話、聞いてるのか?」
「私に、ゲームをさせて!」
「おい、本気か?」
「もちろん本気よ!」
そうか、と言った秀平さんは少し思案していた。
「いいだろう、香澄。カードゲームを楽しむといい」
優しい言い方だったが、きっと私が負けることを望んでいるんだろうなぁ。秀平さんはそういう男だ。
望むところだ。私はわからない振りをして、しっかりと作戦を立てた。
クラブ内では、秀平さんの一言でその場にいた人たちも、私を相手にゲームの準備を始めていた。
奥からは、このクラブのオーナーである相沢卓も出てきた。
相沢卓はその時、クラブの一番奥の部屋で事務仕事をしていた。
何やら店内が騒めいており、何が起こっているのか気になっていた。
トラブルでなければ良いのだが……仕事を中断し、念のため店へ出てみることにした。
店内では、馴染みの客である木暮秀平と秘書。それに妻である香澄がいた。
ちょうどその時、クラブに入ってきた客がいた。
その男は松平透だった。
相沢は松平透の事も良く知っていた。木暮秀平とは色んな意味でライバルであることも。
「やぁ、松平くん。久しぶりじゃないか」
「どうも」
相変わらず愛想がない松平に対し、少しからかってやろうと思った。
「松平くんは、犬のように鼻がきくなぁ」
「なんだって?」
「好きな女が夫と一緒に来店したから、松平くんもついて来たんじゃないのか? すごい嗅覚じゃないか」
そう言って、相沢はカードゲーム台のある方角へ視線を向ける。
松平は眉を寄せただけで何も言わず、その視線の先にはやはり香澄がいたため、相沢は確信を得た。やはり、この男は香澄が好きなのだと。
「木暮秀平とは永遠のライバルだな」
なにげない相沢の呟きに、今度は反応を返す松平。
「どういう意味だ?」
「好きな女は一緒で、仕事では対立しているってことだよ。投資先が真っ二つじゃないか」
「どこから、その情報を?」
松平は元々暗い顔が、さらに陰気臭くなる。
「それは、こういう店をやっていれば色々とねぇ……ぶっちゃけ、どうなんだ? 儲かりそうか?」
「さぁ、どうだろうな」
相沢も投資家なのだが、木暮秀平と松平の投資しているプロジェクトが対立しているため、どちらにするか決めかねていた。きっとどちらかが大儲けすると思うのだが……
そんな相沢と松平の会話は、秀平と香澄には一切聞こえていなかった。
松平が香澄を追ってこの場に来たことすら全く知らなかった。
To be continued