人は、自分がもうすぐ死ぬとわかった時、何を思うのだろう。
こんな筈じゃなかったとの後悔か、良い人生だったとの満足感か、誰かへの恨みか、もしくは感謝か。
香澄は、自分の人生に思いを馳せる。
どうしてこんなことになってしまったのか、この私がなんで?
子供の頃は、それはそれは幸せだった。裕福な家庭に生まれ、やさしい家族に恵まれた。末っ子の私は少々我儘だったかもしれないが、兄も姉もとても優しかった。
姉の香織は、気が強くなんでもズバズバと物を言う性格で、自分が正しいと思えば教師だろうが権力者だろうがお構いなく文句を言う。私に対してもキツい事を言うものだからしばしば姉妹喧嘩が始まるが、私の事を本心から想っていることは肌で感じていた。
喧嘩する姉妹を、いつも温かい眼差しで見つめているのが兄の康介だ。
彼は穏やかな性格で争いごとは嫌いだが、非常に頭が良いことから誰かに喧嘩を吹っ掛けられてもヒラリと躱す術を持っていた。だから姉の香織も兄には敵わないと一目置いていて、兄の一言で私たちはいつも仲直りをする。
元々、恨み合っているわけではなく、ただじゃれ合っているだけなのだから、それは当然の話なのだけど。
そんな穏やかな幼少期をすくすくと過ごし私は思春期に入る。自分で言うのもなんだが、美しい容姿に育ち非常にモテた。整った顔立ちに産んでくれた母に感謝しつつ、美容にお金をかけ毎日のスキンケアには手を抜かず努力もした成果だと思っている。
そして私は運命の木暮秀平に出会うことになる。
彼は窮地に陥った私を救ってくれた、端整な顔立ちで礼儀正しい好青年。
その頃彼は起業家だったが、向上心をもっていて意欲的だった。そんなところも私を夢中にさせた、自分の全てを捧げたいと思うほどに。
私は大学を卒業後すぐに木暮秀平の元へ嫁いだ。
家族は反対したけれど、私の意志は固かった。
大好きな家族と疎遠になっても、愛する人と一緒になりたかったから。
彼の好みの洋服に身を包み、好みの料理を作り、彼の趣味も理解しようと努力して、身だしなみや寝具もしっかりと整えた。
彼も私を愛し、とても優しくしてくれていた。幸せだった。
あの事に気付くまでは……
彼の不貞疑惑。
この私が惚れた人。容姿端麗で旭日昇天の勢いの実業家だもの、言い寄ってくる女も一人や二人ではなかったが。
まさかその相手が彼の秘書とは……いや、あの女に誑かされたのかもしれない。
あの女――小西沙代里、美人というよりも可憐な可愛らしさで秘書としては優秀なのだが、その本心は性悪だ。私も執拗に意地悪をされていた、それも秀平さんや周りの他の誰にも気付かれないようにするのだから陰険だ。
私は嫉妬し、彼の心を繋ぎとめるために様々な手段を試みた。それこそ自分を犠牲にしてまでも。それほど、あの時の私にとっては彼が全てだったのだ。
あの女の出現で、私の順風満帆な人生は翳りをみせる。
いや、私だけじゃない。私の大切な家族の人生までも狂いだしたのだ。
「どうして……こんなことに」
息絶え絶えなために、その小さな声は、かろうじてそこにいる人々に聞こえるくらいのものだった。
薄暗い倉庫の片隅、床は埃にまみれ息をする度に咳き込むほどだ。その床には真っ赤な血溜まりが出来つつある。少しずつ少しずつ広がるソレは、私の身体から流れているものだ。
人間ってどれだけ失血したら死ぬんだっけ? 1リットルか2リットルか、今止血をすれば助かるのかもしれないが、頭はハッキリしているのに体が動かない。指先一つ動かせる気がしない。あぁ、やっぱり私の命はもうすぐ消えてしまうの?
体は動かないけれど視線を動かしてみる。そこにいる暴漢たちは、もう私が虫の息であることを確信して、ニヤニヤしている者やタバコをふかしたりスマホをいじっている。
いずれも、一度も会ったことも見たこともない輩で、きっと誰かに頼まれた半グレ集団だろう。借金取りか、それとも……
その中でも一番若そうな男がこちらを窺っている。
「この女、やっちゃってもいいっすかね?」
「おい、やめとけ。依頼人に連絡したからもうすぐ来るぞ」
「いや、ちょっとだけ。オレ、すぐ終わるんで」
嫌っ、絶対に!
激しく拒絶したいのに、体はいうことを聞かず声もかすれ、かろうじて首を振ることが出来るだけ。
「おまえ、こんな死にぞこないの女抱けるのか? 変わってんなぁ」
「いや、こういうのがそそるんですよ」
「まじで?」
「むふふ、この女死にそうだってのに良い匂いさせてやがる」
ニヤニヤしながら仲間と会話を続けながら、若い男は鼻先を近づけてくる。
やだ、やめて! 誰か助けて!
「ちょっと何をやっているの?」
ぎゅっと目を瞑っていた私は、その言葉に助けられたと思った。とりあえず男が私の傍から離れたのだから。
だけど、その声の主を見て愕然とした。
「沙代里さん?」
なぜこの女がこの場所に来るのか?
もう随分と体から血が流れ出ているために頭は正常な判断が出来ないけれど、それでもわかった気がした。
「私を殺そうとしたのは、あなた?」
「違うわよ、本当の首謀者は……まぁそれはいいわ、それよりそこのお兄さん!」
「あ、俺?」
私を犯そうとしていた男に話しかける。
「少しだけこの女と話をさせて、その後なら何をしてもいいわよ」
「あざーっす」
最悪だ、私の人生。死ぬ間際、いや死んでからも屈辱を味わうなんて!
私が何をしたっていうのよ?
「なかなかしぶといわね」
沙代里は私を見下ろしている。憐れむような、蔑むような目をして。
反応するのも悔しくて無視をしていた。
「まぁいいわ、もう時間の問題でしょ。いいこと教えてあげるわ、あなたがいなくなったら私が秀平さんと結婚するから」
勝ち誇ったような声音だった。
私はその言葉を聞いてカッとなり、出血によって下がり始めていた体温が一気に上昇するのを感じた。
「なんですって?」
「私たちは愛し合っているの、愛し合っている二人が結婚するのは当然でしょ。秀平さんがあなたと一緒にいたのは愛じゃなくてお金のためよ、その資金が底をついたのだから捨てられるのは必然なの!」
「そんな……だって秀平さんは私を助けてくれた……」
「あぁ、それね。あの人も罪深いわね、可哀想に……」
意味ありげにクツクツと笑っている。
「どういう意味よ」
「あなたを救ったのは秀平さんじゃなくて、松平透よ」
「まさか」
嘘よ、そんなはずない。
松平透――私はあの男が嫌いだ、無口でいつも暗い目をしているから。
彼は秀平さんと仕事の付き合いがあるのか、時々事務所にやって来ていた。
いつだったか、秀平さんは彼のことを「使えないやつ」と言っていたのを覚えている。
私とすれ違う時に、いつも何か言いたげな目を私に向けるのだが、声をかけられた事は一度もない。私が快く思っていないことに気付いているのかもしれないと、その時は思ったのだけど。
そんな彼が、私を救ってくれた張本人だと言うの?
「嘘じゃないわよ、いくら私があなたのことを嫌いでも、今際の際では真実を伝えるわ」
その方がダメージも強いものね、と高笑いなんかして。
よほど私のことが嫌いらしい。私だって憎い、この女が死ぬほど……いや死んだ後だって恨み続けたいほどに。
それに木暮秀平、私が愛した男。この女の話が本当だとしたら――私は初めて愛した男に騙され、裏切られていたってこと? そんなの絶対許せない。
「そろそろみたいね、人生を悔やみつつ死ぬといいわ」
沙代里はコツコツとヒールの音を立てて出口へ向かって行く。
それと入れかわりに近づいてくる汚れた靴が見えた。
もう上を向く力も残っていないらしい、私はただ前を見ていた。
「それじゃ、遠慮なくいただくとしようか」
さっきの男の、だみ声がすぐ近くで聞こえた。
あぁ……もう抵抗する気力もない。いっそ、今すぐ死んでしまいたい。
そう思い、私が目を閉じた瞬間だった。
「バタン!」
「きゃっ」
入口付近から大きな音がした。
To be continued