第四十五話『黒崎先生の秘密』
あの男の人が幾羽もの烏に姿を変えて闇のように襲ってきた時も、その烏を捕まえようと漂い始めた白い煙が見えても
「何も出来なかった」
あの部屋から飛び出したかったのに、あの男の人から一分一秒でも早く離れたかったのに、指の一本も動かなかった。煙草の煙で烏を捕まえようとしたのはエスポアさん。咄嗟に私を抱いてアイテムで脱出してくれたのはスピリタスさん。私は本当に、ほんと~うに、何も出来なかった。
散らかったままのダンジョンバー。両膝を抱え込んで隅の席に座っているアイは、ボンヤリと荒れた店内を見ていました。
「魔法が使えない私なんて…」
力無く声を落としたアイの頬に、ヒンヤリとしたペットボトルが触れました。
「大丈夫ですか?」
黒崎先生が声をかけて、隣に座ります。アイはほんの少し頷いて、そのまま俯いてペットボトルを受け取りました。けれど、キャップを開けることなく、両手で持っただけ。それを見て、黒崎先生は自分のペットボトルのキャップを開けて、半ば強引にアイのペットボトルと交換しました。
「確り水分補給してください。それとも、香坂さんと並んで点滴を打ってもらいましょうか?」
「… いただきます」
何かを飲む気分じゃないんだけれどな…。と思っていたのは気持ちだけだったみたい。ほんの少しだけのつもりだったに、口の中に水分が入った瞬間、一気に飲み干しちゃった。体は水分を必要としていたんだねぇ。
「今度は、ゆっくりどうぞ」
スポーツ飲料を一気に飲み干したアイに、黒崎先生は自分のペットボトルを渡しました。強引に、空になったペットボトルと交換です。
「先生は?」
「先に頂きました」
答えながら、目の前のテーブルに置いておいたバナナを手に取りました。皮を剥いて、強引にアイの口に突っ込みます。
「ムグッ! ムムム!!」
ちょっ、強引すぎ!
「疲労回復と貧血予防に最適です。帰宅後、おばあ様に心配を掛けたくないのでしたら、しっかり食べてください」
二本目のバナナは自分用に。バナナを食べ始めた黒崎先生の言葉と視線を受けて、アイは黙って食べ始めました。
お婆ちゃんを出してくるなんて、ズルい。そんな事言われたら、食べるしかなくなっちゃう。でも、このバナナ美味しいなぁ。きっと、お高いバナナだよね? 上品な甘さで、この甘さだったら食べられる。
「香坂さん、解毒薬が効いたようです。社長が用意してくれていた点滴も功を奏したようで、後遺症等の心配もいらないようですよ。まぁ、経過観測は必要なので、二日ほど入院することにはなるそうですが」
ハァ~… 良かった。本当に良かった~。カルミア社長がダンジョンに入れなくて、正解だったなぁ。救急車を呼んでスタンバイしていてくれたから、ダンジョンから脱出してすぐ、点滴を受けながら病院に運んでもらえたし。私も、ついでに診察してもらえたし。
ホッとしたアイは、バナナを咥えたまま目の前の膝に額を落としました。
エスポアさんが居てくれて、本当に良かった。結局、香坂さんを脱出させてくれたのはエスポアさんだったし。でも、あのタイミングで攻撃を仕掛けながらアイテムを使って脱出するなんて、流石としか言いようがないよね。パギャルの私の魔法なんかより… いや、待って。最初からアイテムで脱出すれば良かったんじゃない? 私、魔法使わなくても良かったんじゃない? いや、でも、空間の狭間だったとしたら? アイテムでの脱出って有効なのかな?
「あの場で、体が動かなかったのは当たり前だと思いますよ。アイさん、あの男性にトラウマがありますよね?」
トラウマ? あの雰囲気と言うか本能の「逃げろ」ていう信号は、トラウマなのかな?
「アイさんがネイルチップのように生爪を剥がして、魔法を発動させないで、本当に良かったです」
「いや、さすがの私もそこまで… その手があったかぁ」
黒崎先生の言葉に最初は否定しつつも、ハッ! と頭をあげて呟きました。
「やめてくださいね」
ゲンナリとした黒崎先生の声は、アイには聞こえなかったようです。アイは自分の爪を見つめます。
この赤なら、そこそこの炎が出ると思うんだよね。生爪剥がさない様に~って思っていたけれど、最終手段としてはアリか。剥がすの、痛いだろうけれど。あ、でも、今回体内の魔力を意識して動かして体内バリヤーが張れたから、その横領で痛みを和らげることとか出来ないかな?
「あの部屋で魔法は発動しないけどアイテムならイケるから、ワンチャン…」
「ねぇよ」
キッパリと短い言葉が、アイの独り言を切りました。
「え?」
それは聞き覚えのある声だけれど、とても機嫌が悪く、聞き覚えのない言葉使いです。アイは思わずその声がした方に顔を向けました。そこには、乱れた黒髪に黒ぶち眼鏡。白いシャツに黒いスラックス。と、いつもと変わらない黒崎先生が座っています。いつもと違うところと言ったら…
あ、黒崎先生に戻ってる。先生、怒ってる? 目が笑っていない… よね。て言うか、今の言葉って、先生が言ったの?
「ワンチャンはねぇよ。そんな危ない賭けで、自分の体を傷つけんじゃねぇよ」
黒崎先生は左手でグッとアイの手首を掴んで、右手でアイの頬を鷲掴みにして自分の方へと視線を固定させました。
… え?
「そんな事をしてみろ。両手両足を折って俺の部屋に閉じ込めて、ダンジョン探索が出来ない様にしてやるからな。まぁ、そうなっても安心しろ。面倒は見てやる」
ええ?
ニッと右の口角をあげた笑みは狂暴そのもで、いつもの黒崎先生からは想像も出来なくて、アイの思考は完全停止しました。
「それとも、そんな考えを起こさないように、この場で食ってやろうか?」
えええー?!
カパッ! と口を開けた黒崎先生の顔が、固定されたままのアイの顔に近づいて行きます。アイは逃げる事も声を出すことも忘れて、ただただ頭の中を驚愕の感嘆詞でいっぱいにしていました。
「はい、ストップ」
あと少し、ほんの数センチの所まで迫った時でした。黒崎先生の口がアイの唇や鼻先に齧りつく手前で、その後頭部を叩いて止めてくれた人が居ました。カルミア社長です。
「何やっているのよ。女の子を怖がらせちゃ駄目よ。って、いつも言っているでしょう。
大丈夫? アイちゃん。怖かったわよね〜」
カルミア社長は黒崎先生からアイを引き剥がすと、固まっているアイを抱きしめて頭を撫でました。
怖いと言うか、ビックリしたというか… いや、待って。ちょと待って。誰、この人? 黒崎先生? いやいや、黒崎先生はこんなんじゃないし。声はそうだけれど、あんな言葉遣いじゃないし、顔だって…
アイは固まっていた視界をオズオズと上げて、目の前の男を再度見ました。イライラとした様子で髪を崩して、乱暴に黒縁眼鏡を外す姿は、知らない男の人です。
「今まで優しかっただろう? それに、さんざん忠告してやったのに、聞かないコイツが悪い」
優しい眼差しはどこへ行ったのか? 鋭い眼光がアイを見つめて、長い指が額を弾きました。
「いったぁ~」
デ、デコピンなんて、何年ぶり? と、目に涙をにじませて額を押さえるアイと、慌てて額を撫でるカルミア社長。
「暴力教師は懲戒免職よ」
「黒崎先生は品行方正。優しくて人気のある先生だから、暴力を振るったって言っても、誰も信じねーよ」
そうだ。黒崎先生は優しい先生で、生徒に暴力を振るうなんて微塵もなくって、注意する時もその子を否定するようなことは言わなくって… あ、この人、黒崎先生のそっくりさん?
「まったく、正反対の性格なんだから」
「同じ性格だったら、意味ないだろう」
黒崎先生がイピリアさんだと思ったけれど、先生がダンジョンに興味を持ったのは最近ていう話を信じれば、イピリアさんは先生のそっくりさんで納得。でも、こんなにそっくりなら他人じゃないよね?
「あ、双子!」
自問自答の末、納得のいく答えを出したアイ。ポン! と叩いた手とその言葉に、頭の上で言い合っていた二人は、ゴックンと言葉を飲み込んでアイを見ました。
アイ、黒崎先生の豹変ぶりに疲れも忘れて困惑です。Next→