第四十四話『珈琲タイムと異国の本』
「ただいま〜、大ちゃん!」
景色が変わった瞬間、アイは両手を広げて満面の笑みで叫びました。
脱出成功~! 解毒薬も出来たし、サンプルも取れたし、気分も悪くな~い!
「… ええ〜。マジか」
けれど、それを受け止めてくれる人は誰も居なく、目を開けたアイは広げた両腕をダラリと下げました。
「ダンジョンバー、じゃないね」
あたりを探るエスポアの声が、アイの背中に重くのしかかりました。
ちょっと待って。なんでここ? 私、ちゃんと脱出呪文を唱えたよね?! ここ、ダンジョンじゃん。しかも、この部屋…
「空間の狭間よりはマシなんじゃない」
「まぁ… うん」
そうだ。エスポアさんの言う通りだ。空間の狭間に入りこんで、体が消滅するよりマシだ。
「でも、なんでここ? 黒い手は出て来てなかったし、気配も感じなかったし…」
火の入っていない暖炉、小さな二人掛けのテーブルセット、シングルサイズのベッド、そして壁の一面を覆うのはビッシリと本が詰まった本棚。そっと後ろを見ると、上へと伸びている階段。でも、アイは知っています。その階段の出入り口は閉じられている事を。
「単純に考えてみようか。お嬢ちゃんの魔法であの中庭を脱出したけれど、魔法で繋がった空間がこの部屋だった。で、いいんじゃない?」
そう考えたら、あの手に引き込まれたわけじゃない。あ、でも、前回もこの部屋に入ったのは自分でだ。
「この考えだと、ダンジョンバーに戻るまで何回か脱出の魔法を使う事になるけれど、大丈夫かな?」
「脱出魔法に使う魔力はたいしたことないよ。大丈夫。でも、魔法陣を描く口紅が持つかな~? て感じ。まぁ、あと一回はイケるよ」
それにエスポアさんの考えだったら、また中庭に出る可能性もあるんだよね。… まぁ「賭け」か。
「ここは安全そうだから、彼女に投与した解毒薬が安定するまで休憩にしよう。オジサン、だいぶ疲れちゃったからさ」
エスポアは香坂をベッドに寝かせると、その下に胡坐をかいてリュックを漁りだしました。
「珈琲タイムね」
携帯卓上コンロを組み立てて、鍋の中に入れた500mlの水を温め始めました。スピリタスは注意深く辺りを見ています。
スピリタスさんとエスポアさんがいるから、何かあっても大丈夫だよね。今回も不法侵入だけれど、ちょっとだけ。
香坂の容体が安定したからか、今回はスピリタスとエスポアの二人も居るからか、アイはいつも通り自分の好奇心に正直になりました。
「ここの本、見たかったんだよね」
「本が好きなのか?」
ブラウニーを肩に本棚の前に立って、視界いっぱいに広がる背表紙を満足げに眺めます。どれにしようかな? と、左右に動かす人差し指は少しずつ少しずつ上がって、アイの頭二つ分上、黄色い背表紙で止まりました。少しボンヤリとした感じに、アイは「満月みたい」と連想しました。その本がスッと本棚から抜かれて、アイの手に置かれます。
「あざまる」
取ってくれたスピリタスにちょっと驚きつつもペコっと頭を下げて、「見て、いいかな?」と戸惑います。けれど、隣でスピリタスが違う本を読みだしたのを見て「少しだけだから、いいよね? スピリタスさんも読んでるし」と、ドキドキしながら表紙を捲りました。
「何だろう? 絵と文字… 絵本にしたら絵は小さいし、文字が多いいよね。参考書? 日記とか?」
そこに書かれている字は印刷されたモノではなく、ペンで書かれていました。不規則に書き込まれている絵と文字は、黒一色でアイに読めないものでも、興味を削ぐものではなかったようです。読めないけれど、舐めるように隅々まで見て、ページを捲ります。淡いクリーム色の紙はいつも読んでいる本に比べたらとっても薄く柔らかく、年季も入っている様だから切れてしまうんじゃないかと心配になりながら。
「読めるのか?」
アイの肩から本を覗き込むブラウニーに聞かれて、アイは頭を左右に振りました。
「ぜんぜん。でも、ちょっとした単語は分かるよ」
「単語?」
「たとえば… これは『愛』。これは『夢』と『希望』」
アイは知っている文字を指で押さえながら、訳していきます。
「『大切』『宝物』『太陽』『星』『月』… これ、トルコ語だよ」
アイの訳を、ブラウニーはフンフンと小刻みに頭を上下に動かして聞いています。
「絵も、花や天体や食べ物がメインかな? あ、これは動物? 動物は苦手みたい。花はちょー上手いのに」
小さな子が描く様な『四本足の動物』の絵を見て、アイはクスクスと笑いました。
「トルコ語、よく知ってるな」
「私のお父さんが… わぁ~… 凄い」
ページを捲ると、見開きで満月の絵が出てきました。今までの絵とは違って、淡く色がついています。望遠鏡を覗いて描いた様な絵は、アイの視線を釘付けにしました。
「こっちは?」
そんなアイの邪魔にならない様にと、ブラウニーはスピリタスの肩に飛び乗って手元を覗き込みます。スピリタスの見ていたものは、モンスターの図鑑のようでした。ページの半分を絵、その下に説明文が描かれています。
「読めるのか?」
ブラウニーの質問に、スピリタスは何の反応も返さないでページを捲りました。
「人様の書を覗くとは、何事か!!」
ボン!! と本からドラゴンの頭が飛び出して、スピリタスに向かって牙を剝きました。小玉スイカのサイズです。アイは慌てて本を抱きしめて後ずさりをして、スピリタスは
「あ、閉めた」
パタン。と本を閉じました。そして、何事もなかったように棚に戻しました。
「オイ、コラ! なんで戻す! ちょっと来い! ねぇ、来て。お願いだから、開けて~」
本の中の声が怒りから懇願に変わりました。アイは無言でその背表紙を指さし、スピリタスは無言で頭を左右に振りました。
「2人で何楽しい事してんのさ? オジサン特製のアメリカン、入ったよ」
フワッと香る珈琲の香りと、のんびりとしたエスポアの声に誘われた2人は、エスポアに進められて椅子に座りました。アイは本を抱えたままで。
あの男の人、出てこないよね?
長い銀髪を紫のリボンで纏めた男を思い出します。中世ヨーロッパの騎士のような服装で、上から黒いローブを羽織った、紫色の瞳をした男。
… え?
脳裏に浮かんだ男が、目の前に座っているスピリタスに重なりました。
いや、違う。違うよ。目の前に居るのはスピリタスさん。あの変な男の人じゃないって。
ブンブンと頭を振って、アイは目の前の幻を消そうとしました。けれど、消えないどころか、ニンマリと微笑み抱えて来ます。
落ち着いて。落ち着いて。… 目の前に居るのはスピリタスさん。座っているのはスピリタスさん。見えているあの男の人は幻覚。ただの記憶で、脳のバグ。
「違いますよ」
幻覚はゆらりと揺れて、現実となりました。アイの前に、長い銀髪の男が立ちました。
一番に反応したのはスピリタスです。音もなくその男の後ろに立って、首筋にアイスピックの刃を当てました。
「きょ… 今日も、勝手に入ってすみません。すぐに出て行きます」
これ以上、距離を詰めてはいけない。これ以上、ここに居てはいけない。そう、アイの本能が警告しました。
アイ、再びの部屋で一冊の本に出会いました。けれど出会いはそれだけじゃなく、再び緊張感が漂います。Next→