第四十話『リスク』
流れ込んでくる病原体を、エスポアさんの体液で囲う。いや、流れ込んでくる段階でエスポアさんの体液で囲み始めなきゃ駄目だ。で、それを、さらに私の細胞で囲む。黄色を白でつつんで、さらにピンクで包む。丸く丸く、優しく包み込んで… それを内側に織り込む様に混ぜていく。なるべく病原体の元を外側に出さないように。内側にたたむように、たたむように。同時に、有害物質の解毒と分解をする肝臓を防御魔法で守る。万が一にも病原体を解毒や分解しちゃったら、エスポアさんの体液とのバランスが崩れちゃうもんね。
病原体と体液は同量で流れ込んでくるから、私の中のバランスが命だね。それにしても…
「気持ち悪ぅぅ」
目がグルグル回る。胸のムカムカもどんどん酷くなるし、頭も痛い。体内に集中しながら、周りにも注意を払うなんて… 無理ゲー。この煙草、プッ! て捨てちゃいたい。… まだ色がついているから、駄目なんだろうなぁ。
それにしても… さっきは気が付かなかったけれど、ここ、きっと地底湖の跡だ。私が魔法の炎で蒸発させた地底湖の。あの時はあの時で全体をとらえられなかったけれど、今回も無理そうだな。
出て来るモンスターは小物で、スピリタスさんのケペシュで蹴散らされちゃっているから助かる。のだけれど、どこまで続くんだろう? この通路は。高さはあるけれど、薄暗いのがちょっとメンタル的にキツイな。
アイが足を止めたのは、何回かありました。けれど、今までは姿勢を保ったまま胃からこみ上げてくるものを静かに飲み込んで、すぐに歩き出していました。けれど、今回は思わず腰を曲げて、両手を膝について、溜息と一緒に小さく声も漏らします。
「お嬢ちゃん、スピリタスに抱えてもらうかい?」
エスポアが心配そうに声をかけると、アイは慌てて姿勢を直しました。
「大丈夫だし~」
ニコ。と作った笑顔をエスポアに向けると、アイは足を動かし始めました。
「何に意地を張っているんだか。抱えられちゃえば、いくらか楽でしょ」
呆れたエスポアは小さなため息を一つ。
それだと、内側に意識が集中し過ぎて、具合の悪さと真正面から向き合っちゃう。今がベスト。ベストだけれど、気持ち悪ぅぅ。はぁ… お日様が恋しいな。日光浴がしたい気分。
パチン!
少し前を歩いているスピリタスが指を鳴らして、新しいドアがあった事を知らせます。
それにスピリタスさん、機嫌が悪いんだよね。相変わらず何も話さないけれど、オーラが怒ってる。メチャクチャ怖いオーラが出ているんだよね。肩に乗っているブラウニーさんは感じないのか気にしていないのか分からないけれど、なぜかご機嫌だし。新しいダンジョンだからかな?
まぁ、未成年の教え子が、火はついていないとは言え煙草を咥えているんだもん。本当は怒りたいよね。でも、それは後にしてもらわないと。
どうでもいいけれど、なんでこの登り階段はこんなにキツイの? 落ちた分だけ上るのは勘弁して欲しいな。
そんなアイの心配はとりこし苦労に終わりました。二十段ぐらいの階段を上って、鉄のドアを開けると、そこは赤レンガの地下道。左右対称に木のドアが付いていて、間には明かり用の松明。
「やっぱり、この野良ダンジョンだった。地底湖と地下道がつながった~」
思っていたよりも短い階段に、見慣れた地下道にホッとしつつ、アイは歩く速度をほんの少し落としました。
となれば、出て来るモンスターは…
「来た!」
お約束の骸骨剣士! お願いします、スピリタスさん。
左右のドアが開いて、アイ達の道を塞ぐようにワラワラと骸骨剣士が現れます。アイとエスポアがススッとスピリタスの後ろ、さらに距離を取ると、なんの溜めもなくスピリタスの体が宙に舞いました。それはそれは、とても軽やかに。
あ、ブラウニーさんが逃げ遅れた。そうそう、ケペシュの刃で切られない様に、スピリタスさんの肩にしがみついていて。
スピリタスの装備している『ケペシュ』は、エジプトの鎌型の剣。刃先は外側に向かって鋭利についている湾曲した大きな剣です。それをそう広くない廊下でも、器用に使いこなしています。
今日も綺麗。剣捌きもそうだけれど、体捌きも綺麗なんだよね。型みたいなのがあるのかな? 踊っているみたいなんだよね。見ているだけで、気分が少し良くなったみたい。
でも、あの湾曲した大きな剣、いつもはどこにしまっているんだろう? ダンジョンバーには持ってきていなかったみたいだし、学校だって。… もしかして、小さく出来るとか? キーホルダーサイズぐらいに? まさかね。
アイは呼吸を整え、体内の病原体とエスポアの体液を慎重にこねながらも、スピリタスの戦いに見とれていました。
スピリタスが振り回すケペシュは、その湾曲した刀身で骸骨剣士の盾を引っ掛けて剝ぎ取り、硬いはずの骨をスパ! と難なく一刀両断していきます。それは呼吸をするかのように無理なく自然な動きで、あっと言う間に骨の山の出来上がり。
「スピリタスさん、モスマンジュニアのいそうな場所、分かる?」
アイが聞くと、スピリタスはアイをジッと見つめてから進み出しました。
ここからは、スピリタスさんの庭だから、どんどん進んでもらっちゃおう。今なら、少し気分が良くなっているから、普通に動けるもの。
「アイツ、道、分かるの?」
スタスタ進むスピリタスの背中を見ながら、エスポアは聞きます。新しく咥えた煙草を揺らしながら。
「ここ、スピリタスさんの庭だから。ある程度のマップは、頭の中にあるんじゃね?」
あ! マッピングしてもらえばよかった。 野良ダンジョンだから、正式なマッピングはないから、スピリタスさんの頭の中だけに入っているんだよね。情報は共有して欲しいよね。
おっと、後ろから
「あぶらーの恋バナ」
数メートル後ろ。通路いっぱいに広がって飛んで来る
「よっしゃ~! い〜かん…」
手応えに満足気に拳を握った瞬間でした。
「かはっ…」
お腹の底から熱くこみ上げてくるモノがあって、それは何の抵抗もなくアイの口から吐き出されました。どす黑い、大量の血。パンパンに空気を入れた風船を割るように吐き出すと、膝を折るように倒れ込みました。
「お嬢ちゃん!」
ヤバ… たったあれだけの魔力の変動で?
苦しい。胸、熱い。全身が、頭と心臓が痛い! 苦しい… 苦しい… 酸素、呼吸、息が…
自分の吐き出した血の上で、胸元を掻きむしりながらのたうち回るアイに、エスポアの声は聞こえていません。
呼吸… 空気… 酸素… 誰か助けて… 熱い熱い、体が熱い… エスポアさん、スピリタスさん… 苦しい!
右手は空気を求めて胸元を鷲掴みにし、左手は助けを求めて伸ばす。そんなアイの掠れる視界に、香坂の横顔が入り込みました。
落ち着いて、落ち着ついて美月! 香坂さんはもっと苦しい。香坂さんも頑張ってる。リスクは覚悟していたんだから、こんな事で狼狽えちゃ駄目。
細いけど気管は開いている、酸素は来てる。細く深く吸って… 体内の3つのバランスが崩れただけ。立て直せば大丈夫。落ち着いて、落ち着いて。
吐血でゼロゼロと喉を鳴らしながら、アイはゆっくりと上半身をおこしました。
「お嬢ちゃん」
黄色… 黄色… どこまで広がった? 黄色… よし、病原体の散らばりは広範囲じゃない。エスポアさんの体液で絡め取りながら集めて…
「お嬢ちゃん!」
「… さい… うるっ… さい! ゲホゲホゲホゲホ…」
心配して駆け寄ったエスポア。けれどアイは煩わしそうに怒鳴りつけて、その反動で咳き込みます。咳き込んで、喉の奥に残っていた血を吐き出すと、胸や喉をゴロゴロと鳴らしながら、もう一度、体内に集中し始めました。
ダメだ。魔力が足りてない。さっきの一撃で、予想以上に魔力が消費しちゃってる。コントロールしたつもりだったけれど、出来ていないんだ。
アイは震える手でボディバックからロリポップキャンディーを取り出して、その包みを取ろうとしました。
まずいなぁ。指先の感覚が鈍い。包み取らないで、このまま咥えちゃおうかな。
なんて、少しの動揺と少しの苛立ちを感じたアイに気が付いたのか、スピリタスがさっさとロリポップキャンディーの包みを取ってアイの口の中に押し込み、驚いて固まったアイの顔を「ぶっ」と声が出るぐらいウェットテッシュで強引に拭いて、サッと抱き上げて、とっとと奥へと進みだしました。肩の上で、ブラウニーが心配そうに見ています。
ビックリしたぁ。あ、そっか。顔中、血だらけだったよね。やだ、相当ひどい顔だった。… て、配信されちゃってる? ギャルとしてどうなの? て言う前に、女子としてどうなの?! あ、そうだ。今日は生配信じゃなかったんだ。それに、ナハバームは… いた。ちゃんと飛んでる。社長と一緒に、お店のダンジョンに取り残されたんだと思っていたら、ちゃんとついて来ていたんだ。と言う事は、今までの事はちゃんと記録されているって事だよね。
「ちょっと待てってば~」
後ろから追いかけて来るエスポアの声を遠くに、アイは口の中に広がる味に顔をしかめながら、スピリタスの顔を下から眺めていました。
それにしても、血の味と混ざって最高にマズい。 元は何の味だろう? けれど、だいぶ楽にはなったな。あてにして申し訳ないけれど、暫くこのままにさせてもらおうかな。
アイ、覚悟はしていたリスクだけれど、やっぱり混乱しました。とにかく魔力のコントロールに集中です。Next→