第三十九話『ハイリスクハイリターン』
このパターンだと下は水で、マーシレス・モライが口を開けて待っている感じかな? あの時はスピリタスさんが捌いてくれたけれど、今回は私の出番だよね。マーシレス・モライの歯は欲しいけれど、水の中で炎を爆発させるほど魔力は使えないから、切り刻む?
スピリタスの小脇に抱えられながらそんな事を考えているうちに、すんなりと底につきました。何事もなく、すんなりと。
「拍子抜けなんですけど」
まぁ、魔力の消費を押さえたいから、出来るだけ戦闘が無いのは嬉しいんだけれど。それより…
「香坂さん、大丈夫?」
石畳の床に寝かせられた香坂の枕元にしゃがみ込んで覗き込んだアイは、思わず息を飲み込みました。光量が少ないのも手伝ってか、香坂の綺麗にメイクされた顔は精気を失っていました。整った顔にのったファンデーション、アイシャドウ、口紅。それは人形のような、仮面のようなのっぺりとした顔に見えました。
「香坂さん…」
アイは震える手を、口元に寄せました。
良かった。微かにだけれど、呼吸している。でも、いつ止まってもおかしくなさそう。これ、どこまで症状が進んだんだろう? あとどれぐらい時間があるんだろう?
「お嬢ちゃん、大丈夫だよ」
香坂を見つめるアイの顔も、血の気が引いています。微かに震えている肩を、エスポアがポンポンと優しく叩きました。
「俺がいるから大丈夫」
目の周りを覆う猫の仮面。煙草を咥えた口元だけがニッと笑います。
「こういう時のための俺だからね。スピリタス、ちゃんと見張ってろよ~」
アイの反対側にしゃがんだエスポアは、周囲を警戒しているスピリタスに声をかけて、咥えていた煙草を香坂の口に咥えさせました。
これから起こることが、この人の能力… 。どうするんだろう?
アイが見守る前で、香坂が咥えた煙草の紙がみるみるうちに青黒く染まりました。
「俺の体液や吐く息の中にね、どんな病気でも病状を緩和させる能力があんのよ。凄いっしょ? でさ、俺が咥えていたこの煙草、それがよぉ~く染み込んでるわけ。あ、これはこの子には内緒な。俺がメッチャイケメンダンディーでも、中年のオッサンの咥えていたモン咥えたって知ったら、発狂しちゃうっしょ?」
ケラケラ笑いながら、エスポアは香坂の口から煙草を取りました。そして、自分の口に咥えようとしました。
「まった」
その手を、アイが掴みます。
「… どしたのさ?」
声の調子は変わらないけれど、アイを見つめる仮面の奥の瞳は、真剣そのものです。
… 何だろう? 確信はないけれど、それは「ダメ」な気がする。
「あの… あのさ、その煙草が病状を吸い上げたのは分かったよ。OK。でも、何で最初から、発症した時にやってくれなかったの? 香坂さんの病状は、時間との勝負だって…」
違う。そう言う事じゃない。症状緩和の手段はとってくれた。それは確かに時間稼ぎだ。でも、安静にさせると思ったのに、ダンジョンまで連れてきた。それは、一刻も早く薬を与えたいから… なら、最初からこの煙草を… 違う。最初から出来ない理由があるんだ。理由… 理由…
青黑く変色した煙草を凝視しながら、アイは自問自答します。ああ、心臓の音が煩いなぁ。と思いながら。
「なんで、この煙草を捨てないの?」
なんで、また咥えようと?
「リユース。これ、何度でも使えんのよ。便利でしょ」
ニカッ! と笑って見せても、アイは手を解きません。
「再利用するならさ、染み込んでるモノを取り除くじゃん? 咥える前に」
体内から抽出したモノをどう処理するの?
「だぁ~いじょうぶだって。俺の体、特異体質だから。こんな煙草の一本や二本、腹の中に入ったところで、どおってことないんだよ~」
「入れない」という選択肢がないんだ。つまり、この「次」があるって事だよね。… ハイリスクハイリターン。高い利益を得るには、高い被害やそれが発生する可能性が高い。つまり
「香坂さんへの効果は抜群だけれど、エスポアさんの体には大きなダメージになる。てこと?」
このタイミングで、それはマズいんじゃない?
「親が親なら、子も子。鋭いね~」
親? それって、お父さんの事? エスポアさん、お父さんのことを知っているの?
「この煙草に染み込んだモノを体内に入れて、臨時の薬を作るんだよ。『臨時』だから、ちゃんとした薬は必要だけれど、まぁ、薬は薬。その場しのぎでも効果はあるわけよ」
嫌な感じが取れない。薬が出来るならいいじゃない。香坂さんの病状が少しでも良くなるんだから。助かる可能性が高くなるんだから。でも… 何だろう? 嫌な感じが取れないし、心の隅っこが「ダメ」って言ってる。「エスポアさんはダメ」て。
ほんの少しだけ、アイの視線が動きます。目の前の香坂、少し離れているスピリタス…ササっと二人を見て、真正面のエスポアを見ました。
被害は最小限に。現状、一番回避しなきゃいけない事…
「お嬢ちゃん、なんか色々考えちゃっているみたいだけれどさ、時間が無い事には変わりないから…」
スッ… とエスポアの手から取られた煙草は、何に抵抗もなくアイの口に咥えられました。
「… おい!」
一呼吸置いて、エスポアが慌ててアイに手を伸ばします。煙草を奪おうとする手を避けて、アイは大きく吸い込みました。
「何しちゃってんの?!」
仮面越しでも分かります。エスポアの顔色が変わったのが。
「エスポアさんの体液と、ウイルスが反応して薬が出来るんしょ? 体内で薬を作るんなら、体液不足だろうけど、そこは私の魔力でカバーしてみせるから」
火はついていないのに、煙りのようなモノが体内に入って来る感触がする。重い。
「これは俺の仕事だ」
初めて聞いたエスポアの真面目な声に、空気にピリっと緊張感が漂いました。
「それガーチャー! ほんまごめんやで。でもさ、エスポアさんが万が一動けなくなったらどうすんの? 私、担げないよ。スピリタスさん? スピリタスさんには攻撃に集中してもらわなきゃじゃん? エスポアさん抱えて、100%の力で闘える? 無理っしょ。香坂さんも抱えなきゃだし。そうなったら、置いてくしかないけどさ、早く本物の薬を作んなきゃなんないんだから、置いてけないじゃん。大ちゃんいないんだから、攻撃力が落ちるのは痛いっしょ~。マジ無理。でもさ、私なら、スピリタスさんは抱えて攻撃も出来るんだよね。これ、経験済みぃ」
重い煙が、どんどん体の中を侵してくのが分かる。吸い込む度に、細胞の一つ一つが攻撃されていく。
『エスポアさんの体液』『病原体』『人間の細胞』で薬が作られると仮説しよう。体内に防御魔法をかけちゃ駄目だよね。かといって回復魔法はまだ習得していないし、細胞を回復させちゃったら三つが混ざり合わない… そうだ、混ざればいいんだ。バランスよく。なにも私の体内細胞の全部を渡さなくてもいいんだ。となると、肝臓は死守かな。
「自分の魔力は大した戦力になっていないと?」
「はぁ~? この私を舐めて貰っちゃぁ、困るんですけどぉー」
魔法はイメージ出来る。なら、体内に入ったモノもイメージすればいい。煙の重さは感じられているんだもの。出来る出来る。私は出来る子。
病原体は黄色で、エスポアさんの体液で囲う。体液は白でいいや。それを、さらに私の細胞で囲む。肉の壁でピンクにしよう。パンの生地みたいに丸く丸く包み込んで… それを内側に織り込む様に混ぜていけばいい。中華まんの皮を作る感じ。… あ、良い感じかも。
「私、出来る子だから。まぁ、見ててよ。それよりさ、香坂さん、私の大切な友達なんだから、よろ~」
「被害は最小限に」がダンジョン探索の鉄則。そして、最優先は香坂さんの薬を作って飲ませる事。ここでいつまでも止まっていられない。
アイは立ち上がると、お腹を摩りながらスピリタスの横に歩いて行きました。
ウップ… 胸がムカムカする。頭もグルグルし始めた。反応、早いなぁ。二日酔いってこんな感じなのかな? それなら、二十歳になってもお酒なんか呑まな~い。気持ち悪ぅ。
アイ、直感を信じてハイリスクハイリターンに挑みます。リスクはなるべく小さめにね。Next→