第二十一話『一緒にチルりたい人は?』
あの時、スピリタスさんの事を思い出して進むのを
アイは意識が暗闇に落ちる寸前、残った力を振り絞って男性の手を振り払いました。
「あうっ」
思っていたより力が出て、それは男性にも想定外だったようで、二人は体のバランスを崩して椅子から転げ落ちました。
攻撃は、最大の防御。頭を回転させなきゃ。
カッカッと聞こえる靴の音に、アイはとっさに床に置いたリュックを抱き寄せ、吐き気を我慢して立ち上がりました。
「大丈夫ですか? 貴女に危害を加えるつもりはありません」
「メンゴ。おにーさんとチルできないや~」
アイは真っ青な顔でニッと笑って、左の親指の爪を前歯で噛んで剥がすと、男性に向かって吹き飛ばしました。
ボン!
ネイルチップに掛けられていた呪文が発動します。男性の顔の前で大きな爆発が起こると、アイは階段に向かって走りました。
仕込んだ魔法は起動した。残り9回、何とかなるかな。
「おやおや、これは随分と可愛らしい花火ですね」
ダメージなしかぁ。私と同じで防御魔法が起動しているみたい。まぁ、目くらましぐらいにはなるかな。
ニコニコと微笑みながら近づいて来る男性に、アイは次々とネイルチップを投げつけます。ボンボンと爆発が起こる中、アイは階段までたどり着くと強まる吐き気と戦いながら階段を上りました。
「くっ… 開かない」
入り口があったはずの天井は、拳で叩いてもビクともしません。
「お姫様は紅茶がお好きでないようですね。日本茶の方が良かったですか?」
男性はゆっくりと、一歩一歩階段を上って来ます。
「紅茶も日本茶も好きだよ。ただ、おにーさんとチルしたくないだけだっつーの」
アイは残っていた右指のネイルチップを全て剥ぎ取って、一気に男性に投げつきました。
ドン!!
今までで一番大きな爆発が起こり、アイの体は天井に叩きつけられました。
ヤバ… 意識飛ぶ。
背中を強く打ち付けて、アイの呼吸が一瞬止まります。スルっと腕の中からリュックが落ちると、中から保存袋が出てしまいました。
「あまり自分を痛めつけてはいけませんよ。人間の体は脆いのですから」
階段の上でうずくまって咳き込むアイに、男性の手が届くところでした。
キュイィィィ!!
リュックから落ちた保存袋の中からクラゲが飛び出して、アイと男性の間に壁のように広がりました。
え… クラゲが巨大化した。しかも、効果あるじゃん。手、クラゲの体を通ることができないんだ。魔法は効かないのに… いや、考えるのは後にしよう。とにかく今は、脱出しなきゃ。
呼吸を整えながら、足元に落ちたリュックを拾い上げようとした時でした。口の空いた保存袋を拾い上げると、中にまだ水が残っていることに気が付きました。
シスターさん、この水を飲んで魔力が回復していた。私にも同じ効果があるか分からないけれど、やってみる価値はあるよね。
「ここをどきなさい」
「キュイ!」
少しイラっとした男性に、クラゲは「ヤダ!」と答えている様に聞こえます。
「ど・き・な・さ・い」
「キュ~イ」
そんなやり取りを見ながら、アイは保存袋の水を勢いよく飲みました。半分程。
これ、普通のミネラルウォーターを入れたはずだけれど、甘くなってる。サッパリした甘さ。… しかも、即効性が凄い。お腹の中から全身に染み込んで行くのと同時に、力が湧いてくるのが分かる。いけるかな?
「おにーさん、紅茶、ほんまごめんやで」
アイはロリポップキャンディーを持ってユラユラと動かしながら、男性に向かって申し訳なさそうに話しかけました。
「でも私さー、おにーさんとガチでチルしたくないんだわ。だから、バイビー」
アイの周りの空間、階段の壁とクラゲに仕切られた狭いスペースだけが光って、アイの体は支えを失って後ろに倒れ込みました。
「アイちゃん!」
仰向けに倒れ込んだアイの視界に、心配そうなシスターとバロンの顔が映りました。
出れた?!
勢いよく上半身を起こすアイと、慌てて後ろに避けるシスターとバロン。
「出れた? … 本当に出れた?」
足元に階段が無いのを見て、リュックと保存袋をかき集めるように抱きしめると、恐る恐る
硬い。ちゃんと床だ。シスターさんとバロンさんが居るって事は、あの部屋から出れたんだ。… 良かった。
ホッとした瞬間、忘れていた吐き気がこみ上げて来て…
「うぇぇェェェ…」
アイはその場で勢いよく吐いてしまいました。
■
「私、そんな男性は見なかったわ。階段を上りきったと思ったら、階段は消えて床に戻っていたし、アイちゃんはいないし。バロンに聞いても、まぁ、もちろん分かるはずないわよね。アイちゃんは私の後ろだったんだから」
元の部屋に戻ることにしたアイ達は、もう動かないヨーウィ―達がそこかしこに転がっている廊下を、バロンを先頭に歩いていました。
「でも、アイちゃんの話だと、あの部屋はその男性の領域で自分以外の魔法は無効化されちゃうのね。でも、ネイルチップの魔法は発動したって事は、アイテムはOKって事かしら」
あー、ヨーウィ―の死臭って、こんなに甘いんだ。初めて嗅いだかも。でも、これだけ匂いが強いと、他のモンスターが寄って来るよね。ネイルチップは使いきっちゃったし… まぁ、火力を半分まで抑えれば、10回ぐらいは魔法も仕えるかな?
シスターの声を背中で聞きながら、アイの視線は動かなくなったヨーウィ―に向いていました。
バロンさん、バーサーク状態だと本当に強いんだなぁ。どのヨーウィ―も、一撃しか跡がない。しかも、傷がそうとう深いよね。廊下の血だまりが酷いな。
「… って、聞いてる? アイちゃん」
「あ。ごめんなさい。聞いてない」
強めに名前を呼ばれて、アイの体はビクン! と大きく震えました。思わずギャル語を忘れるぐらい驚いて、慌てて後ろを振り返りました。
「よく出て来れたわね。て言ったのよ」
「あ~… 何となく、クラゲがこう私の前で壁になってくれてさ、小さな空間が出来て… あの手が、クラゲを貫通しなかったから、何となくイケるかも! ってか、やるしかなかったんだけどさ、一か八かで解除呪文を使ってみたんだよね」
「本社の時は、モンスターの頭も空間も、難なく通っていたものね。上手くいって良かったじゃない。それにしても、何者なの? そのクラゲ」
そうだった。シスターさんの言う通り、このクラゲって何なんだろう?
アイは抱えていた保存袋を目の高さにあげて、中を透かすように見つめます。そこには4分の1ぐらいしか入っていない水に、溶けたように浸かっているクラゲが微かに確認できました。
「会社で管理しているダンジョンから付いて来ちゃったんだよね~。まぁ、かわちいから、ノープロっしょ」
私の見方みたいだし。
「それよりバビッタのはさぁ、ナハバームがちゃんと付いて来てたことだよね」
今は天井に近い壁を這っているトカゲタイプのナハバームを見て、アイは心底感心していました。
「まだ、記録チェックはしてないけどさ、あの部屋までついて来てたなんて、まじバビったわ。プロ意識、パないよね~」
私の記憶より、ナハバームの記録の方が確実だもんね。あの部屋の…
「ああー!!」
「な、何よ。どうしたのよ? 具合、悪い?」
「アイちゃん? 何かあった?」
足を止めて、急に大声を出したアイに、シスターもバロンも驚いてタジタジとアイを見ました。腕の中のクラゲもビックリです。
「サンプル… あの部屋のサンプル、何も取って来なかったぁ~。マジぴえん」
無理だと分かっていても、やっぱり何かしらサンプル取りたかった~。椅子に座る前に「何の本ですか?」て聞いて、ほんの一冊や二冊、中身を見てもよかったじゃない。もしくはあの赤い紅茶。1~2滴でもいいから、試験管に入れたかったぁぁぁ。いや、一口含んで、口元を拭くふりをしてハンカチに出しちゃうっていう手もあったじゃん。ああ~、いまさら思いついても、後の祭りぃ~。
頭を抱えて後悔しているアイの後頭部を軽く叩いて、シスターが呆れた声をかけました。
「アイちゃん、貴女ねぇ、危ない目にあったんでしょうが」
「でもでも~、シスターさんは気にならない? あの本の数、ダンジョンに本だよ本! 絶対、禁断魔法とか、世界の創立とか、読んだことのない神話とか… ロマンじゃね?」
シスターを見上げるアイの瞳は、キラキラと輝いていました。
「気にならない事はないけれど… 命あってこそでしょう」
アイの勢いに押されているシスターを見て、バロンは声を出して笑いました。
「アハハ~! しょうがないさ。だってアイちゃんは大のダンジョン探索好きだもんね。ごめんよ~。俺も一緒に入っていれば、何かしら収穫できたかもしんなかったね。次はアイちゃんにピッタリくっついて、サポートするから」
スッと寄り添って来るバロンを片手で押しのけて、アイは一瞬だけ美月に戻りました。
「いえ、結構です」
ショボンと肩を落としたバロンに目もくれす、アイはスタスタと歩き始めました。
キノコ部屋のドアにPOIを置いておいたから、戻ってきた時に真っ先に寄ろう。でも、あの男の人の部屋なんだよね。て言うか、白い手袋をしていたけれど、絶対あの黒い手の正体だ。そんな相手の部屋にノコノコ行くのはどうなのかなぁ? いや、ダメなんだけれど、やっぱり好奇心が勝っちゃうんだよねぇ。ナハバームの記録を観て、作戦を練ろう。
アイ、死にそうな目にあっても好奇心には勝てないようです。Next→