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第9話 ご褒美への道のり

第九話 『ご褒美への道のり』


 お風呂は大好き。特に、疲れた日のお風呂はご褒美だと思ってる。それが趣味のダンジョン探索の疲れでも。だって、ダンジョン探索は大好きだけれど、外も中もギャルにならなきゃいけないし、配信しなきゃいけないしで、気を使うこともあるんだよね。だけど、たっぷりの泡と温かいシャワーで頭の天辺から足の爪先まで洗って、少しぬるめのお湯に浸かれば、トロトロに蕩けちゃう。本当に幸せな時間。


「頑張れ自分、幸せタイムはすぐそこよ」


 目の前の光景を見ながら、これからやらなきゃいけない大仕事に嫌気が差し始めている自分自身を、アイはボソボソと励ましました。


 ロリポップキャンディーを3本、一気に頬張っているアイの前には、今にも動き出しそうなキング・クロコダイル。その周りはシスターが綺麗に拭き清めてくれました。顎や体の下は、スピリタスとバロンが持ち上げて。


 ミント、桃、マスカットのミックスは不味くはないんだけどなぁ。やっぱり、ミックスは2本かな。でも、おかげで急速チャージ出来た。魔力が半分も戻れば、なんとかなるはず。


「んじゃ、やりま〜す」


 3本のロリポップを舐めきって、お気に入りのイチゴミルクを咥えます。鞄の中から新しい口紅を取り出すと、キング・クロコダイルの周りに円を描き、魔法陣を描き始めました。


 問題は口紅だな。使いかけの1本をなくしちゃって、この1本とあと1本しかないんだよね。魔法陣、最後まで描けますように。


 願いを込めて描いていく魔法陣は、今まで描いた中で一番大きなモノでした。円の結びがズレないように、円と円が重ならないように、文字のバランスがおかしくならないように。中央にデン! と置かれているキング・クロコダイルのおかげで、立ち上がっても魔法陣全体を見渡すことが出来ないのです。だから、感覚で描いていくしかありません。神経をすり減らしながら。


 最後のサインは… 床しかないか。此処までは来ましたよ〜… っと。OKだね。


 魔力を込めたサインは、自分がどこまで攻略したかの目印です。次回、移動魔法でこの場所まで一瞬で来ることができます。


「はい、出来た。皆、入って〜。行くよ」


 アイが汗びっしょりになって魔法陣を描き上げて声を掛けると、見守っていた他の3人が魔法陣の中に入ってきました。


「お疲れ様。忘れ物は…て、忘れる程の荷物自体、無かったわね」


 キング・クロコダイルの気にしながら、シスターが修道着の袖でアイの顔の汗を拭いました。とっても小さな声で、ねぎらいの言葉をかけながら。そして、皆の手元を確認しました。


「いやいや、大切な物があるでしょ〜。アイちゃん、マーシレス・モライの歯、俺がしっかり持ったからね。俺が」


 バロンが麻紐の先を軽く持ち上げると、ガラガラと括り付けられたマーシレス・モライの歯が揺れました。


 お婆ちゃんに頼まれていた荷造り用の麻紐、買いなおさなきゃ。帰りにお店による時間があるかな。


「り。あ、先に言っとくね~。今さ〜「きゃぱいな〜」て、思ってるから。うざい事しないで。マジ切れするから」


 後ろの方から「ひゃい」と、小さく悲鳴じみた返事を聞いて、アイは咥えていたロリポップキャンディーで宙に「ζ<ナ丶)サルタヒコ@靴」(ソクサリサルタヒコの靴)と、描きだしました。同時に、目の前に黒い霧のような手が現れます。ズズズ… と、アイの顔をめがけて迫ってきました。


 また、この手!


 今、手を止められない。『シールド・アテナ』を発動… あ、スタンバイしてなかった。


 魔力が尽きていたから、防御呪文を唱え置きしていなかったことに気が付いて、描く手が速まります。来る前に、術を発動させる。に切り替えました。


 けれど、黒い手もスピードを上げて向かって来ます。あとほんの少しの距離まで一気に詰められた時、その指先をケペシュがスパッと切りました。


「マジKY! マジやば谷園! こんなんソクサリ「サルタヒコの靴!」」


 同時に脱出呪文が発動しました。



 会社のシャワールームを使うのは、初めてです。ご褒美のお風呂はもう少し我慢だけれど、熱めのシャワーを浴びて体中の汚れが落ちていくだけでも、アイには嬉しいことでした。

 足元を、泥のようなお湯が流れていくのを見つめながら、アイは思い出します。ダンジョンから脱出する時の、一分も満たなかった時間を。


 あの黒い手、何なんだろう? 完全に私を狙ってた。スピリタスさんが切ってくれたから、捕まらなくって済んだけど。


 目の前に、タイルの壁から黒い霧のような手が出てきた気がして、アイは慌てて顔を上げます。勢い良く降り注ぐお湯を顔面で受けると、お湯が洗い流してくれた気がして、ホッとしました。


 待合室に出られたの、ラッキーだったな。ソファと何人か、キング・クロコダイルの下敷きになっちゃったけど… 怪我、していなきゃいいんだけれど。ラッキーと言えば、気分が悪くならなかったのもラッキーだったなぁ。初めだよ~、気分が悪くならなかったの。それより何より…


「脱出呪文が成功して、本当に良かったぁ〜。」


 バッ! と両手を挙げたアイは、達成感で満たされていました。そんなアイを、さらに喜ばせてくれたのは、着替えだけじゃなく、使っていたものと同じウイッグの替えまで用意されていたこと。アイは泣きながら「ありがとうございます!」と思いました。と、同時に


「今日は、もう少しギャルかぁ~」


 と、溜め息もでました。


 カラーコンタクトを新しいものに変えて、メイクもして、新しいウイッグをしっかり巻いて、オレンジミントのロリポップキャンディーをお口の中に入れて。ギャルとしての身支度を整えたアイが案内されたのは、会社ビルの10階。間接照明が優しいウッド調の落ち着いた廊下、等間隔の明かり取り用の窓に、横に置かれている観賞植物、足元はフカフカの絨毯、重厚感のあるドアをくぐったそこは


「パねー」


 ジャングルでした。お部屋とは思えない量の木とか蔦とか草とか。どこからか鳥の鳴き声も聞こえてきます。そんな空間で、アイは促されるままソファに座りました。目の前のガラスのテーブルに膝が当たらない様に気を付けながら。


 今日は、昨日獲得したアイテムを届けに来ただけだったよね。いつも通り受付で書類を書いたから、後はいつも通り6階で会社の人にアイテムを渡せば終りのはずだったのに。野良ダンジョンに引きずり込まれて、初見の人達との強制チーム探索。魔力は吸われるし、切れちゃうし、装備はボロボロになっちゃうし。まぁ、マーシレス・モライの歯とキング・クロコダイルがゲット出来たからいいか。… ん? いいのかな? 

それにしても、こんなお部屋に呼び出しなんて。テーブルとソファはあるけれど、他はジャングルだよ? ジャングル。また、どこかのダンジョンに迷い込んだんじゃないかな? って、思っちゃうよね。それならそれで、探索したいな。


「あら、意外と早かったのね。ギャルって、もっと身支度に時間がかかるモノだと思っていたわ」


 部屋の探索がしてくなってソワソワし始めた時、不意にドアが開いて、シスターが現れました。迷うことなくアイの左横のソファに座ると、更衣室に置かれていたピーチのボディクリームの香りがアイの鼻をくすぐりました。


 シスターさんも、シャワー浴びていたんだ。私の火で燃えそうになったり、マーシレス・モライの舌に絡め獲られたりしたもんね。シャワー浴びて、サッパリしたかったよね。


「あ、おねぇーさぁ~ん。俺、キャラメルフラペチーノとベイクドチーズケーキね。よろしく~。あ、アイちゃん待たせちゃってごめんね~。シャワーはすぐに浴び終わったんだけれどさ、シャツを選ぶのに時間かかっちゃってさ。どう? このシャツ、カルミアブランドの最新作らしいよ。似合ってる? 似合ってるよね? 似合ってるって言って欲しいな。あ、シャワーあがりの俺。髪なんかシットリしてて、カッコいいでしょ」


 開けっ放しのドアから、アイ達の方にお尻を向けて廊下に手を振っていたバロン。クルっと回転してアイの右横に立つと、機関銃のように話しかけながら、アイの手を握って自分の髪を触らせようとしました。


 この人、相変わらず口が回るけれど、疲れを知らないのかな?


 アイが思いっきり手を振り切ろうとした時、部屋に入ってきたスピリタスがバロンの頭を鷲掴みにしました。


「いだだだだだだ!! ちょっ、ちょっ、痛い、痛いって、痛い!」


 頭を鷲掴みにされてギリギリと圧をかけられたバロンは、両手を激しくバタつかせながら、アイの正面の席に運ばれます。ドスン! と、勢いよく、ソファに押し付けられるように座らせられました。


「あー… メチャクチャ痛い。せっかく20分もかけてセットしたのに」


 スピリタスの手から解放されたバロンは、左手でコメカミを摩りながら、右手で黒のパンツから手鏡を出して覗き込みます。チョンチョンと指先で髪をいじっては、鏡を少し放して、また近づけてはチョンチョン…。


「たいして変わらないわよ。それよりスピリタスさん、サッパリしましたね。髪、いつも以上にナチュラルバックにしたんですね。いつものスタイルも素敵だけれど、このスタイルも少し若く見えるというか、アンニュイというか、ステキです~」


 アイの右横、自分の前に座ったスピリタスに、シスターは握った両手を右頬に寄せて体をクネクネさせながら言いました。


 男子のシャワールームに、整髪料は置いてなかったのかな? あ、それとも勝手に使ったらまずかったかな? クルクルドライヤーとセットで鏡の前に置かれていたから、何も考えないで使っちゃった。後で謝っておこう。でも、確かにいつもと雰囲気が違う気がするし、誰かに似ているような… 誰だっけ?


 スピリタスの横顔を見つめながら、アイは頭の中にボンヤリと浮かびあがった人物をハッキリさせようとしました。


「お待たせしちゃって、御免なさいね」


 あの芸人さん? あの俳優さん? 知りうる限り、スピリタスと同年代そうな人物の顔を想い浮かべては消しているアイの思考を止めたのは、穏やかで柔らかな、野太い声でした。

 大きな葉っぱをかき分けて現れたのは、チノパンに白いポロシャツ姿の彫が深いワイルドなイギリス系男性。広い肩に小さなリスザルを遊ばせています。


「あ、大ちゃん。おっつー」


 アイはソファーからピョンと立ち上がって、元気に片手を上げて挨拶をしました。


「アイちゃん、おっつー」


 肩まで伸ばした癖のある黒髪、キリッとした黒い眉と焦げ茶色の瞳をへにゃっと下げて、フェイスラインから繋げた髭を短く切りそろえて、それに囲われた唇をニコッと湾曲させた男性は、五十嵐・カルミア・大五郎。この会社の社長さんです。

アイと同じように片手を上げて挨拶を返す姿に、シスターとバロンは驚きを隠せませんでした。


「皆さん、今日は災難だったわね。お疲れ様でした」


 当たり前のようにアイの隣に座る社長を見て、またまた驚く二人。


「今日は保険の更新で、探検者さん達が多かったのよ。お待たせしなければ巻き込まれることもなかったわよね、きっと。そうそう、提出予定だった皆さんのアイテムは、しっかり受け取りました。マーシレス・モライの歯と、キング・クロコダイルもね。ボーナス期待してくれていいわ。今回の迷惑料? であっているかしら。まぁ、そんなものも付けさせてもらうから。あと、こちらで用意した着替えは私からのプレゼント。使ってちょうだい。他にも、今回の探索で使ったアイテムはしっかり経費計上してちょうだいね」


 社長は膝の上に下りたリスザルを、とっても優しい手つきで撫でながら話します。アイ達がダンジョンに引き込まれた後のこと、待合室やエレベーターホールやエレベーターの中の行動は、全て監視カメラに音声ごと記録されている事。また、ダンジョンに入ってからの事は、スピリタスと会社のナハバームがしっかりと記録している事。なので、会社に困るようなことが無いかチェックした後、SNSに会社から配信すること。もちろん、会社に都合の悪い所はカットすること。家族と暮らしているアイの家には、会社から遅くなる旨の連絡を入れてあること。そんな諸々の話を聞きながらお茶をご馳走になって、会社が用意したタクシーに乗って帰宅した時には、11時を回っていました。


「疲れた」


 部屋のドアを開けた瞬間、アイは目の前のベッドに倒れ込み、一瞬で意識を失いました。服も着替えずに、ウイッグもメイクもそのままで。



 アイ16才、ダンジョン探索はやっぱり一人が良いと実感した1日でした。


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