第六話 『狙え! 海穴の主、マーシレス・モライの歯』
ガラガラと崩れた床、動かなくなったゴブリン、アイとバロンを抱えたスピリタス、足踏みしていたシスター、床すべてを飲み込もうと燃え盛っていた炎。全てが下へと落ちていきます。真っ黒な空間を、下へ下へ… エレベーターの空間にあった全てが、下へ下へ…
ダンジョンに入った! 空間が切れた!
アイはほんの少しの違和感を見逃がしませんでした。パチンと指を鳴らして光の玉を出すと、右手でスカートのポケットから口紅を取り出して、ロリポップキャンディーを咥えたままの口でキャップを外します。キャップが落ちてしまうのも構わずに、鞄を握りしめている左手の甲に「飛〒〒」(飛行)と書いて、二重丸で囲いました。さらに上から、簡単な羽根の絵。
「アゲだよ、アゲー! バイブス上げてこー! 天使の翼!!」
ロリポップキャンディーを指に挟んで、手に書いた魔法陣にチュッとキスをします。ボフン!! とスピリタスとシスターの背中に、白くて大きな翼が現れました。
「ちょっと! これ、どうすればいいのよ?!」
他の物が落ちていく中、バサバサとホバーリングしているシスターが翼を指さして聞いてきました。
「アゲて、アゲて~。シスターさんの上がる事って、なに?」
「あ、アゲ… ああ、気分を上げろってことね」
アイの言葉に、シスターは顎に人差し指を添えて考え込みます。
「ここから出たら、アイちゃんの奢りでボヌールの特製小人プリンパフェ大盛と、ロイヤルミルクティーが待っているし、スピリタスさんも一緒だしぃ」
あ、語尾が上がった。
今度は空中に口紅で「傀儡」と書いて投げキス。
「きょどるよね~、蜘蛛の糸」
アイがロリポップキャンディーを頬張りながら楽しそうに言うと、魔法が発動しました。シスターとスピリタスの背中の翼が、アイの思った通りに上を目指して羽ばたき始めます。けれど、ほんの少し上昇しただけで、見えない天井に当たってしまいました。
一方通行、てことか。
下を向くと、真っ黒な闇しか見えません。闇に飲み込まれて行く床の破片や火の粉、動かなくなったゴブリン。
パチンパチン!
アイが指を二連打すると、大きな光の玉がスピリタスとシスターの足元に現れます。その光は周りを照らしてくれているけれど、特別なものは見えません。
底が見えない。まるで光が闇に飲み込まれて行くみたい。それでも、下りていくしかないよね。
ゆっくりゆっくり、慎重に下降していきます。ペラペラと話をしていたシスターも、ごくりと唾を飲み込んで、足元をジッと見つめています。
キラ!
光の玉が、何かに反射しました。いち早く反応したのはスピリタス。ケペシュをクルクルと振り回し始めました。
えっと、こういう時のスピリタスさんて、戦闘態勢なんだよね? と言う事は、この下に何かが居るって事だよね。私に翼を付けて、スピリタスさんを自由にするのがベスト何だろうけれど、ちょっと面倒くさいし時間ロスかな。私が大きな魔法を一発…
「「っきゃぁぁぁぁぁぁ!」」
アイが考えている間に、スピリタスは力強く直滑降に入りました。ものすごい勢いで下がります。魔法の糸で繋がっているから、シスターも一緒に。
ジェットコースターぁぁぁー!! て言うか、術者の私の魔力が乗っ取られたぁ。スピリタスさん、なんて精神力なのぉぉ!
グングン落ちていくのに、スピリタスは下からくる風圧をものともしないでケペシュをブンブン振り回します。アイは考えるのを止めました。スピリタスの行動に、自分の考えが追いつかないから。ただ、鞄とカツラをギュッと抑える事だけは、無意識にやっていました。ロリポップキャンディーは飛ばされちゃったけれど。
「ぎょえええええー! なにあれー!!」
すぐ真下から男性の悲鳴が聞こえて、アイの意識が戻りました。
バロンさんの意識が戻った。けれど、何も出来ないのは変わらないか。
「魚のお化けぇぇー!?」
逃げようとしてジタバタしないのは、現状把握が出来ているって事かな? 少しでも暴れたら、スピリタスさんに落とされるか、ケペシュの刃で削られちゃうもんね。
アイ達の足元には、鋭利な山が三重の円になって見えます。真ん中には赤くて太いモノがウネウネと動いているのが見えました。
「慈悲を持たないウツボ『海穴の主、マーシレス・モライ』じゃん! メッチャ、アガるぅ~」
真っ暗な海底にある小さな窪みに身を潜めて、獲物が通りかかったら口を閉じるウツボに似た魚。けれどウツボと違うのは、割れたガラスのように鋭利な歯がビッシリと生えている事と、しつこくて狂暴な事。その口が空間一杯に開いていました。
「アイちゃん、あれ、怖くないの?」
バロンは不自然に首を捻って、上に居るアイを見ました。
「パなくない? パなくでかくない? あの歯、トパーズとかアレキサンドライトとかと並ぶ高度だって。アイテムとしてゲットして会社に出せば、ボーナスもゲットぉ!」
「おお~、なるほど! それは、あがるわ」
目をキラキラ輝かせて不気味な魚の口を見ているアイに、バロンは引くどころか鼻息を荒くして頷きました。
でも、どうやって倒す? 口は水面の上だから、一番手っ取り早いのは口の中に火の玉でも落として、中から焼いちゃう? でも、あのウネウネしている舌が邪魔だしなぁ。そもそも、スピリタスさんのケペシュで切れるのかな? ケペシュの刃の方がボロボロになっちゃうんじゃないかな?
そんな心配は無用でした。
スピリタスが操るケペシュが円を描くと、剣の残影が放射線状に沈んで行きます。それはただの残影ではなく、確実に切れる鋭利な残影。スパスパっと、綺麗にマーシレス・モライの歯を切断しました。三重の円になっている、一本一本がスピリタスより大きくて太い歯を。
「わりがち欲しい!」
飛び散った歯を「一つでも!」と、思わず手を伸ばしたアイ。その目の前で何かがバチン! とケペシュに切られて、横を、ヒュン! と何かが飛び出していきました。
「んぎゃぁぁぁぁぁ!!」
それは口の中央でウネウネと動いていた舌で、一本はケペシュに切られ、もう一本はスピリタスの少し後ろに居たシスターを絡め獲り
「私、美味しくなゴボゴボゴボゴボゴボー!」
一気にマーシレス・モライの口の中に引き込まれました。
口の中は水中だ。閉じ込めよう。
アイは一瞬だけ呆然としたけれど、すぐに口紅を構えます。けれど、それより早くスピリタスの腕が今まで以上の速さで動き出して、小脇に抱えられているバロンとアイは、聞いた事のない音に硬直しました。空を切るケペシュの音が、2人には超音波に聞こえるんです。その剣先は、マーシレス・モライを切りました。囲碁の碁盤のように、格子状に。
そのまま落ちながら、アイはスピリタスの横腹、スーツの上に口紅で「シ→ルド」と書きました。
「KYヤバー」
呪文を唱えると、水中に入る直前に空気の膜が三人を覆いました。スピリタスに下ろしてもらったアイとバロンは、空気の膜に張り付くように向こう側を見つめました。真っ暗な水中を、光の玉が照らします。あちらこちらに、正方形に切られたマーシレス・モライの破片。その中に、シスターの姿を探します。
「切り身ばっかだね~。これ、美味しいの? お勧めの料理方法とかある? 歯と同じぐらい金になる? ねぇねぇ、アイちゃん」
この人、起きた途端にうるさい。今はそんな事よりシスターさん。「蜘蛛の糸」が切れていなければいいんだけれど。
「バリうざい。黙れ」
アイはバロンの声を切り捨てて、光の玉が照らす水中に集中しながら指を動かして手繰り寄せ始めました。
「ぴえん」
可愛らしく言ったバロンの声は、アイの耳には届いていません。指先に全集中しているから。
私の「蜘蛛の糸」の効果は最高3メートル弱。シスターさんを見つけても膜の中に後入れ出来ないから、出来るだけ手繰り寄せて急浮上しなきゃ。
よし、「蜘蛛の糸」生きてる。けれど、切り身が当たってスピードが出ないな。強引に引っ張ったら切れちゃうから慎重にしなきゃだし、でもシスターさんの息が持てばいいんだけれど。
「やっぱり、美味いんだろうね~。他の魚が食いに集まってきた。でっかい奴ばっかだね~。この中にさ、金になるのっている?」
「撒き餌?! ってかウザい! アンタ、マジウザい! こんなんキャパオーバーだっつーの!!」
アイの中でプツンと切れたものがありました。
「水、マジウザ! 炎上上等!!」
今まで繊細に動かしていた両手を思いっきり開いて、キラキラの赤い指先を膜の外に突き出して、「мσ工З」(もえろ)と水中で書きました。
ボン! ボボボボボボン!!
ネイルチップ10個を使っての、術の発動。そこら中で大きな炎の塊が生まれます。それらは水を飲み込んで、勢いよく弾けて水を消していきます。アイ達を覆っていた空気の膜も弾けて、瞬時に水と炎の渦に飲み込まれました。
魔力、持ってよ~。
アイはスピリタスの小脇に抱えられて、激しい渦に揉まれながら「水を飲み込む炎」をイメージして、水中で暴れる炎に魔力を送り続けました。
全魔力を放出し始めたアイ、マジ切れです。ガン切れです。そんなアイを、誰が止めるのでしょうか? Next→