【8】
「……何をしているかと思えば、暇なのかお前達は」
「気晴らしにもなるし良いだろ。それに、奴の権能の活用法を探せる」
ショッピングモールの男性トイレ。清掃中という看板が設置されていることで利用者が誰も居らず、谷口を始めとする三人が会議を行っている。勝手に清掃中ということにするのはどうなのかと思う粳部であったが、谷口は権力の行使に躊躇のないタイプの人間である。
「……あの、わざわざ男性トイレでやる必要性あります?」
「場所がないんだ。ここで手短に済ませる」
「あっ……そっすか……」
「話を聞いた限り、その京極という男の権能はあまり頼れるものではない」
運命の人を見つける権能に関しては有力だが、アドバイスの方の権能に関してはあまり実用的ではない。二分の一の確率で当たるというのは限定的な状況でしか役に立たないのだ。前回は上手く行ったが何度も連続して成功する筈がない。
「藍川の権能で正解を出せば話は単純だ。早急に片付けろ」
「そ、そもそも何で谷口さん来たんですか?」
「そうだよ。地区の巡回業務と店番任せただろ」
「ラジオが、遅いから連れ帰れと言ってきた。店番は染野に任せた」
「最低だよお前は……」
毎度、藍川や谷口に仕事を押し付けられている染野は気の毒だが、通常の任務に参加して身の危険に晒されるよりはマシだろう。当人は稼げないと不満に思うかもしれないが、彼の周囲の人間からすればそうなってくれた方が嬉しい話だ。
「そもそも、そのデートを成功させたからと言って回答は変わらないだろう」
「……それはそうだが、まあいいだろ?」
「良くない。貴重な時間をいくら使った」
「一日っすかね」
「二十六時間三十七分だ。遊んでいる場合ではない」
まあ、谷口のお叱りも当然のことである。βとΩ+の職員を一日以上遊ばせるのは組織運営の観点から言って褒められる話ではない。彼らでなければできない仕事は多く、今回のような仕事はどんな職員でも担当できる。要するに時間の無駄である。
「遊んでるわけじゃないさ。その……リラックス目的でな」
「その目的なら本部に戻ってセラピーを受けろ」
「生憎、医者は信用してないんだ。それに病室は性に合わん」
「ああ、私も病室は苦手です……頭おかしくなりそうなんです」
二人の医者嫌いが揃って仕事に出ている。どちらも白く無機質な病室が性に合わず、医者に自分のことを話したくないこともあってどちらもセラピーに参加していない。カウンセリング等は受けることが義務とされているが受けない者も中には居る。二人も行ったり行かなかったりだ。
「……どうしてここまで非効率に生きられるのか理解に苦しむ」
「それを言うなら、お前さんだってわざわざここに来てるのも非効率だろ」
「そもそもラジオさんが直接言えばいいのでは……」
『私も暇じゃないんですよー』
トイレの天井に設置されている放送用のスピーカーからラジオの声が響く。どうやらここは彼女の権能の影響範囲らしく、いつから話を聞いていたのかは誰にも分からないが会話に参加してきた。想定外の参加者に粳部と藍川が驚き、谷口は頭上を見上げて固まっている。
「……今のは暇じゃないんですか」
「ラジオの野郎、聞いてたなら最初から言えよ」
「えーっと、これ代休にできませんかね?」
「……悪知恵は藍川譲りなのか?」
そう言うと大きなため息を吐く谷口。彼が呆れていることはその声色から分かるが、一度として外さなかった仮面の奥にあるものは本当に呆れ顔なのか。心を読める藍川ならば分かるだろうが彼は決してそれをやろうとせず、もしやったとしても声にしない。
「はあ……お前が心を読めばすぐ済むものを」
「あっ、それに関しては少し同意です」
「あのなあ、こんな権能ない方がいいんだよ。それに地道なやり方の方が価値があるだろ」
それは文明が進んだことで時代遅れになった手法を敢えてやるような考え方。現代では缶コーヒーやコーヒーメーカーで容易にコーヒーを飲むことができるが、敢えて自分の手で直火焙煎し挽いて淹れる者も居る。誰もやらなくなったことによる希少価値の上昇、懐古趣味の老人はそこに夢を見ているのだ。
「敢えて遠回りをする、ってことですよね」
「そういうことだ」
「……何にせよ、早く終わらせて戻ってこい」
それだけ言うと谷口は男性トイレの出口へと向かい、藍川もその背を追っていく。しかし、彼は角を曲がろうとした所で足を止めると、少しの間の後に粳部の方を向いた。
「粳部、京極のやり方では確実に失敗する」
「んー……まあ運任せですし」
「お前ならあの女の思考が分かる筈だ。似てるだろう、性格が」
捨て台詞を吐いてトイレを出ていった谷口。藍川もその場を立ち去ったことで粳部一人が取り残された。遠くからショッピングモールの喧騒が薄っすらと聞こえる中、彼女はただただ立ち尽くす。性格が似ていることに関しては否定できなかったが、だからと言って心が読めるわけではない。
途方に暮れて鏡を見つめていた。
「……どうしよう」
突然お前ならできると背中を押されたところで、飛び込む準備ができていないのだからただの飛び降り自殺にしかならない。以前よりも自分に自信が付いたと言ってもそれは微々たる変化で、現状をどうにかできる程の変化ではない。
鏡を見つめる。何かが変わるまで、見つめる。
「どうしよう……どうしよう」
「音夏の弱気は誰の遺伝だろうね。多分お父さんかな」
鏡の中に映った来春はいたずらな笑みを浮かべ、彼女のことを向こう側からからかう。今にも壊れそうな表情をしている粳部は自分以外誰も映らない筈の鏡を見つめ、存在しない姉の幻影にすがりついた。そうすることしかできなかった。
姉に触れようとするも鏡が阻む。
「後先考えず好きにやればいいんだよ。できるできないとか、悩むことじゃないよ」
「そうかな……私できるかな」
「できるんじゃないの?」
「私達が手本を見せたんだからさ」
鏡の奥でカーラーとクーヤーが首を出す。もう二度と動かない二人はあの時と変わらない気の抜けた無表情でその場に佇み、ただただ粳部のことを見つめていた。まるで無残な死に方をしたのが嘘のように完全な状態で彼女の前に現れ、あくびをした後に鏡の端へ去っていく。
反対側の端で海坊主が腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「どうにかなるよ、生きてるんだから」
「ねっ」
それだけ言い残すと二人は消え、残っていた来春も鏡から離れると出口の方へ向かっていく。彼らは現実に存在していない。それらは全て粳部の心が見せた幻でしかないのだ。幻覚は人を救わない。しかし、それでも気休め程度にはなる。
彼女を追って手を伸ばす粳部だが鏡を破ることはできず、一人取り残された。いつの間にか海坊主はどこかへ消えてしまっている。
「大丈夫、君は僕の妹なんだから」
足音が去り、世界は無音になった。しかし、暫くの静寂の後に粳部がその口を開く。虚ろな目をした彼女にあったのは自信か、それとも自分で自分を騙しているのか。藍川が彼女の心を絶対に読まない以上は、誰も彼女の気持ちを知らないわけだ。
つまり、誰も彼女を救えないのである。
「……大丈夫だよね」
そして、粳部は男性トイレの出口へと向かうと清掃中の看板をどけ、京極の居る場所へと向かっていく。谷口の言ったことは本当なのか、粳部は何を考えているのか。それはこれから明らかになることである。ただ、どちらにせよ踏み鳴らされる足音は彼女のものだけだった。