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13-1

【1】


 蓮向かいの施設内にあるシャワー室。ベンチに腰掛ける藍川はこの世の終わりのような表情を浮かべながら水を滴らせ、無言で俯き続けている。上半身だけ着替えずに居る今の彼は思考せずボーッとし続け、ただ伸び続ける時の流れを右耳から左耳へ流していた。

 今の彼はまともな精神状態ではない。口を開き独り言を呟く。

「部屋に篭ってた粳部が出た……行き先はトレーニング室だそうだ」

「そうかい。君は行かないのかな?」

 幻覚の来春が彼に呼びかける。周囲に誰も居ない空間、おかしくなりそうな位に清潔で無機質な世界に藍川は一人で居る。当然彼女はここには居ない。おかしくなった彼が見ているおかしな幻覚、それがこの粳部来春。ある種の呪いと化したそれは藍川を縛り上げ、決して彼を未来永劫逃そうとしない。

 水滴が等間隔に落ちる。

「行って何を言えばいいんだよ……特に捜査に進展はないと?」

「幻覚の僕は革新的な答えなんて持ち合わせちゃいないよ」

 瞳孔の開いた藍川の姿は異常そのものだが、そのことを指摘する者はここに居ない。彼の脳内にしか存在しない幻覚はそれについて指摘などできず、記憶の中の来春と同様に微笑んでいる。鏡の前で彼女はポーズを取っていた。

「あの子はよく切れる刃物だけど、壊れ物でもある」

「……」

「分かり切ってたことだよ。誰かの死を、そう何度も受け止められる子じゃない」

「だから辞めるべきなんだ……なのに簡単には辞めてくれない」

 粳部の心は既にボロボロだ。ラジオの件で惨状を見てしまい、双子の件で力不足から二人を失った。ギョロ目またの名をヴィスナ、この三つの出来事が重くのしかかっていることは想像に難くない。しかし、それは藍川にどうこうできることではなかった。

 粳部は壊れ物だ。しかし、壊れるまで進み続けてしまう。

「このままじゃ君が壊れるか音夏が壊れるか……」

「……頼むよ、もう勘弁してくれ」

「謝らなくていいんだ。君は何も悪くない、悪いのは僕だ」

 それは責任から逃れたい彼の言葉か、それとも彼の記憶の中の来春の再現か。それは誰にも分からない。藍川の前に佇む少女は真意の見えない微笑を浮かべながら、藍川を見下ろしている。彼の頭が上がることはない。

「だから僕が君を救うんだ……僕が」

「そんなこと望んじゃいない!」

 彼がベンチを思い切り叩こうとした瞬間に正気に戻る。既に来春の幻覚は消えており、無音の空間に藍川一人が取り残されているだけ。病的に無機質な白いシャワー室、彼の髪から垂れる水滴が足元に小さな水溜まりを作っていた。

 足音が響きシャワー室に誰かが覗き込む。

「……話し声が聞こえた。誰かと話してたの?」

「ラジオ……いや、独り言だよ」

 実際、一人しか居らず自分の中の来春と話していただけなのだから独り言だ。真顔で覗き込むラジオは警戒しているのか刀を少しだけ抜いており、周囲を見渡して安全を確認すると納刀する。権能故に、どんな音でも聞き逃さないのがラジオという人間だ。

「……セラピーを受けた方がいい。カウンセリングでレッドの結果が出てる」

「赤でも黄色でも何でも良いさ。俺はまだ休めない」

「……細かいルールを気にする癖に、Ω+だからって規則無視してる」

「レッドだから仕事するなってのがおかしいんだ。止まる気はないぞ」

 その言葉を聞いたラジオは大きな溜め息を吐くと、壁に寄りかかって藍川を真顔で見つめる。いつもの愛想の良い彼女はどこにも居らず、本来の素顔である素朴な性格があらわになった。彼女からすれば藍川の惨状は見過ごせるものではない。自分の通った道なのだから。

「私の階級では止められない……でも、隊長としての命令。休んで」

「そうだな。ヴィスナを捕まえたらな」

「……無理か」

 言って止まるような男であれば話は簡単だった。冷静な判断ができない今の藍川はΩ+という圧倒的な等級を盾に暴れ回る。Ω+に相当する司祭は蓮向かいの中でも彼を含めて四人しか存在しない。その中で彼を止めようと思うような者はせいぜい一人くらいだ。

 まあ、止められたところではいそうですかと止まる男でもないのだが。

「あの捕まえた幻覚の司祭……役に立たなかったね」

「……粳部は奴を見た。こっちの目的なんざ、双子を殺した時に読んでたさ」

「仕掛けた罠には掛からなかった……でも、死体から奴の戦闘記録は抽出できた」

 蓮向かいに所属している死体の記憶を読み取る司祭。彼の権能を行使すればヴィスナと双子の戦闘の記録を引き出すことができ、今後の対策を取ることができる。その姿形は長年謎に包まれていたが、二人の犠牲でより明確な情報を得ることができた。

 ラジオは懐からヴィスナのスケッチを引っ張り出し眺める。

「まだ手はある。希望もな」

「……希望は人を壊すよ……特にすがる人を」

「人は何かしらにすがらなければ死んでしまう生き物である」

「……誰の言葉?」

 藍川が立ち上がり彼の肩に掛かっていたタオルが床に落ちる。しかし、彼はそんなことを気にしない。

「俺の言葉だ」




【2】


「……ここ、どこですか」

「徳島空港」

 早朝、明け始めた空を眺めながら粳部と藍川が会話をする。屋内の展望デッキ、時間的に人が近寄らない場所で二人きりの時間。本来ならば彼女が喜び、その後に落ち込みそうなシチュエーションだったが、今日は最初から最後まで少し落ち込んでいる。

 ここの正式名称は徳島阿波踊り空港。二人は今、徳島県に居た。

「まだ一日しか休んでないのに……まあ、海外よりはマシですけど」

「ほら、あっちに見えるの香川県じゃないか?」

「香川……県……って、確か大昔にあったっていう県でしたっけ?」

「お前が生まれた次の年になくなったんだ。今は跡地を丸ごと農業プラントに」

 二千年が始まると共に消滅した香川県と京都府。今の若者からすれば馴染みのない二つの地域は国営の農業プラントに作り変えられた。避難した元住民は今も故郷に帰ることを願っているが、半ば強制的に行われた政策はどうにもならない。

「歴史の授業で聞いたことあるっすね」

「昔の修学旅行は京都が定番だったそうだ。今じゃ香川同様に消えたが」

「畑でも見に行くんすかね?」

「バカ、昔は有名なお寺とかがあったんだよ」

 まあ、そんなことを言っている二人ではあるがどちらも高校の修学旅行には参加していない。そもそも、修学旅行どころか学校がなくなったのだから。そう言ってボケようかと思う粳部だったが、直前でそれを踏みとどまった。

「で、私達は何でこんな遠くの空港に居るんですかね……」

「司祭と思われる人物が居る。その確認と勧誘が目的だ」

「……何でそんな軽い任務を遠くの私達が?」

 普通に考えれば不自然な話だ。東京の西側のある地域を担当している粳部達が、わざわざ徳島まで出向いて司祭かどうかを調べる。効率の悪さは言うまでもない。現地の職員が担当すればいい話であり、藍川の権能を使わなければならないような重大な案件でもない。

 彼が遠くの景色を見つめる。彼女の方は決して向かない。

「……俺が取ったんだ。気晴らしに」

「気晴らしって……えっと……」

「あんな真っ白な部屋にずっと居るんじゃ気が滅入るだろ」

 それは彼なりの気遣い。悪いことばかりで疲れ切った粳部の為に、少しは気分転換になるようにと設けた任務。お上からすれば優秀な職員をこんなことに使いたくないだろうが、粳部のメンタルケアという点では悪いことばかりではないのかもしれない。

「……職権濫用って怒られちゃいますよ?」

「良いさこのくらい」

「ははっ……今度はどんな司祭なんですか?」

「疑いがあるのは『京極弓彦』、アルバイト兼占い師」

 そう言って彼は懐から一枚の写真を取り出す。そこに写っているのはどう見ても怪しい装束に身を包んだ成人男性。今時珍しい古臭い水晶玉を机に置いて、古風な占い師という雰囲気を醸し出していた。

 写真を覗き込んだ粳部が興味を持つ。

「おっ占いですか。面白いですね」

「占いなんて全部嘘だろ」

「相変わらず夢のない人っすね……本物も居るかもしれないじゃないですか!」

「人間は夢のある可能性ばかり信じると言うが……」

 早朝だというのに飛行機は滑走路を行き交い、焦ったい速度で離陸の体勢に入っていく。眺める二人はそんな飛行機のことには興味を示さず、遠くの青みがかった景色ばかりを見つめていた。

「まあ、たまには誕生日の遠出もありですか」

「……えっ?誕生日だったのか?」

「……今のなかったことにしてください」

 自分の空回りを実感した彼女は頭を抱えて恥ずかしがるが、特に何も考えていない藍川は気にせず気の抜けた表情をしている。基本的に藍川は恋人の誕生日も気にしないような記念日に疎い性格の人間だ。彼にそういうことを気にしてはいけない。




【3】


「で、ここが現場ですか」

 車の後部座席から粳部が覗き込む。商店街の中、今では古めかしいスタイルの占いの出店がシャッターの前にある。占いブームが過ぎて数年だというのに儲かっているのか、奇抜な衣装を身に着けた占い師の男は何人もの客の相手をしていた。待機列に置かれたパイプ椅子に三人が座っている。

 助手席の藍川がインパネの上に置かれた資料を手に取った。

「対象、京極弓彦。二十七歳、五年前の大学卒業後に一度就職。暫くして退職」

 運転席に座る職員がその言葉に続ける。

「その後はアルバイトを続けていましたが、三年前から占い師として活動を開始してます」

「で、何で司祭だって疑われたんです?」

「二年前のインフルエンザ予防接種の際、注射針が通らず取りやめて帰ったそうです」

「針が通らないって……概念防御じゃないっすか」

 司祭に薬は通用しない。傷口を縫う針や糸も通らず、あらゆる現代的な医療は効果を持たない。司祭が司祭だと明らかになるのは大抵の場合病院に行った際だ。X線検査なども当然通らず、病院に潜伏している蓮向かいの職員が報告を行う。

「また、彼の占いの成果が異常だということが分かっています」

「占いが異常ですか?」

「運命の人を見つけてくれるそうで、彼のおかげで結婚した夫婦が一万組居るとか」

「一万組!?」

「……どうやら少子化が解決した理由はこいつみたいだな」

 そう言うと藍川はインパネの上に資料を戻し、車の扉を開けると占い師の下へと向かっていく。驚いていた粳部も更に驚きながら車を出る。彼の左手の薬指には既に光る指輪が嵌められていた。祭具である彼の指輪が。

「さて、とっとと仕事して誕生日を祝うとするか」

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