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8-6

【9】


 天井のような厚い雲の下、頬を濡らす雨から逃れようとマンションの軒下に逃げ込む二人。一雨降られずぶ濡れになった粳部はくしゃみをしながら服を絞る。水に体温を吸われ周囲の大気が冷気に変わっていき、夏らしからぬアクシデントに苦しむ粳部。一方、司祭の設楽に寒さは通じなかった。

「ああっ最悪!かなり濡れたんすけど……寒っ」

「寒い?別に普通だけど」

「そりゃ司祭は概念防御がありますからね……」

 概念防御がある限り司祭が気温に苦しめられることはなく、宇宙空間並みの極端な温度でなければ彼らは影響を受けない。設楽からすれば寒がる粳部の気持ちは少しも理解できなかった。ただ、濡れた服のまとわりつくような不快さだけは同様に感じていた。

「最近、ゲリラ豪雨が多くて嫌になりますよ。私が子供の頃はなかったですからね」

「そうなの?毎年あったけど」

「ジェ、ジェネレーションギャップ……」

 自分達の感覚に大きなズレがあることを認識する二人。十一歳の設楽と二十歳の粳部では当然今までに経験したものが違ってくる。流石に、こういった知識や生物学的に違うことまでは粳部にも考えられない。弱まらぬ雨脚の中、二人きりの雨宿りが始まるかと思われた。

 その時、彼らの背後に谷口が現れる。

「何をしている」

「うわあっ!?あなた何してるんですか!」

「か、仮面の人……」

「概怪が出現した。現場に急行する、お前も来い」

 それは緊急の招集。二十四時間どんな時も概怪が現れたのであればすぐさま現場に急行し、無力化して拘束するのが粳部達の仕事。彼らは手空きなのであればすぐさま推参し、人知を超えた怪物と戦わなければならない。

 あまりにも唐突な招集に困惑するも、すぐに粳部は覚悟する。

「い、今ですか?まあ行きますけど……」

「いい加減に携帯電話を買え」

「……電話苦手でして」

「さっさと急行する」

 人付き合いが苦手な粳部にとって、電話は好ましくない道具である。しかし使わなければ仕事にならないのも事実。いずれは買わなければならないが苦手意識から手を出せていない粳部。そして、その原因も根深いものである。

 体の水気を払い彼に付いて行く粳部。

「じゃあ、急用ができたので。明日会いましょう設楽さん」

「う、うん……じゃあね」

「答え聞きますから!」

 走り出す二人の背は小さくなっていき、少し弱まった雨の中に消えていく。靄が掛かった街並みに彼らの姿はもうなく、一人取り残された設楽がポツンと立っているだけだった。弱まりつつある雨脚を見た彼女は暫く考え込み、ここに居てもどうにもならないと考え歩き出す。小さな小さな歩幅で。





【10】


「はっはっ……うわっ!」

「勘弁して欲しいな、生き残りなんて」

 逃げる男が足を滑らせて水溜まりに転ぶ。雨が弱まったとはいえ依然として足下が悪く、こんな状況で走っていては転ぶのも当然だろう。特に狭い路地では壁にぶつからないように動く為、足下が疎かになりがちだった。

 そして、その隙に三人の男が彼を見下ろすように立つ。

「馬鹿みたいに逃げやがって……こっちの身にもなれってんだ」

「ま、待ってくれ。誰にも言わずに街を出る。だから……」

「取引になってねえよ。せめて金を出せっての」

 焦りからか早口になる男を冷ややかな目で見るヤクザ二人。真ん中に立つ対等の司祭は真顔で見下ろし、瞬きをすることなく男を見つめる。人間を超えた怪物らしく生気のない目をしながら無言で覗き込み、恐怖を覚えた男は何も言えなくなってしまう。普通の人間に敵う筈がない。

「駄目じゃないか、皆でパイを切り分けるって時にパイの所有者が現れたら」

「あ、あんたがしたことは口外しない!組の所有物も好きにしていい!」

「私達は誰の物でもないパイを分けたいだけで、君の許しを得て分けたいんじゃない」

 敵の組を生かしていてもメリットはない。情報はいつだって何だって洩れない方が事が上手く運ぶ。暴力団の支配が及ぶ建物や店、隠している財産、それらが誰の支配も及んでいない状態になった。つまり、パイの切り分けが始まったのだ。そんな時に元の所有者の生き残りが居ては困るのである。

 男の頬に触れる司祭。

「た、頼む……」

「私がターゲットを殺し損ねたとなっては沽券に関わる。分かるかい?」

「ああ分かるよ!だから!」

 次の瞬間、男が頭を軽く叩かれただけで跳んでいく。それは殴るなどの動作ではなく、ツッコミを入れるように手首を曲げた程度の動きだった。壁にはかつて命だった死体が叩き付けられる。司祭からすれば人間など虫のようなものでしかなく、その命を摘むことに手間はかからない。特に彼のような人間にとってはその引き金はさぞ軽いことだろう。

 一瞬の死に恐怖を覚えるヤクザ。

「殺すに限る……ねっ」

 これで対等の司祭の犯行を知る者は居なくなった。後は残ったパイを切り分けるだけであり、次の仕事が来るまではもう何もしなくていいわけである。最強の暴力装置が居れば攻めてくるヤクザなど現れない。つまり、楽な仕事である。

 しかし、目撃者はまだ一人居た。

「ひっ……!」

 特に行先も決めずに歩いていた設楽は偶然それを目撃してしまっていた。司祭とはいえ彼女はまだ小学生の少女なのだ。当然、誰かが目の前で死ぬ所を見て動揺しない筈はない。平気で人を殺す人間を前にして恐怖しない筈がないのだ。静かに後ずさる設楽に気が付く司祭。

「やあ、ツイてないね君も」

「おい見られたぞ!」

「だから拉致しろって言ったんだ!」

「そうだね、今度は拉致してから殺すとしよう」

 手首の骨をパキパキと鳴らしながら、真顔で準備を始める対等の司祭の姿は正に人の皮を被った怪物。司祭となったことで感じていた万能感を忘れてしまう程の恐怖を感じた設楽は、焦って全速力で逃走した。

「あっ!あいつこの前のヤバいガキだ!」

「と言うと?」

「殴ってもナイフも通らないガキです!歯が立たなかった!」

「……まさかね」

 逃げる設楽を追って全速力を出す司祭。路地裏の複雑な通路を器用に曲がりながら進む彼女だが、敵を追うことに慣れた司祭が迫っていく。単純な速度では彼女に軍配が上がるものの、焦りや地形が原因で走る速度が低下していた。そして、司祭は彼女に迫っていく。

「やはり司祭か!脚は私以上だな!」

「な、何で……!?」

「君、私の助手にならないか?儲かるぞ」

 設楽は曲がり角を曲がり、マンションの壁を蹴って上へ上へと登っていく。知らないマンションの廊下に飛び込むと疾走して走り抜けるが、すぐに司祭が登ってきて彼女を追いかけ始める。建物から建物へ飛び移り振り切ろうとするものの、司祭のしつこさはレベルが違った。

 設楽は七階から地面に飛び降り再び路地の中へ消えていく。

「鬼ごっこか!」

 徐々に迫りつつある司祭が笑顔を見せる。設楽はどうにかして振り切らなければと周囲を見渡し、ほぼ反射に近い速度で思考すると跳び上がり窓ガラスを割って建物に突入する。錆びてぼろくなった廃工場を進むと、暗がりに滑り込んで隠れられそうな場所を探す。

「今度はかくれんぼか。残念だが付き合いきれない」

 工作機械の隙間に隠れる設楽。工場内には司祭の足音だけが響き渡り、彼女の恐怖は増大していく。脚力だけは彼女に分があるものの、それ以外で彼女に勝っている点などない。腕力、体力、反射神経、技術などの必要とされる能力は全て対等の司祭に軍配が上がっていた。

 勝ち目がない状況に、死を告げる足音が響く。

「私はパイを切り分けるのが好きだ。だから、君の資産も切り分けたい」

 口を必死に抑える少女だが、全ての音を殺すことはできない。生きている限り必ず音が鳴る。つまり、人間を超えた聴覚を持つ司祭であれば耳を澄ますことで聞き取れない筈はない。少女に近付く足音は大きくなっていく。死が近付いていく。

「どう思うかね?」

 そう言って、男が机の下を覗き込んだ。

「センスがないですね」

 海坊主の突き上がった拳が机を破壊して司祭の顔に迫る。突然の奇襲に驚愕する彼だったがすんでのところで拳を躱し、後ろに下がって海坊主のジャブを避けていく。机のあった場所から立ち上がった粳部は刀を作ると対等の司祭に投擲するも、ギリギリで掴まれ逆に海坊主を切断された。そして彼は刀を投げ捨てる。

「何だ急に、どっかの組の刺客かい?」

「お姉さん!?」

「危ないらしいんで来ましたよ!逃げてください!」

 概怪を倒しに向かった筈の粳部が何故かここに居る。実に気が利いた救援だがどうして危機に気が付いたのかという疑問が残る。それは、設楽が追いかけられ始めた時のことだった。

 谷口と共に粳部が走る中、ふとラジオの声が響く。

『あっ、マズいです』

『どうしたんですか?』

『設楽さんが敵に追われてます』

『はいっ!?』

 司祭とはいえただの小学生に追手が現れるなど考えていなかった粳部は、自分の甘さをそこで思い知ることになる。人生何が起きるのか分からないものだ。奇襲はいつだって誰もが予想していない時に起きる。

 走る谷口が喋り出す。

『概怪は俺一人でやる。お前は設楽を守れ』

『わ、分かりました!お願いします!』

 そう言って粳部は来た道を引き返し、ラジオの誘導もあり設楽に合流したわけである。

 向かい合う対等の司祭と、粳部達二人。設楽を戦力に含めればギリギリ同格というところだろう。しかし粳部の戦闘能力がランダムである以上は不確定要素が大きく、ここから先の戦況は誰にも分からない。

「設楽さん、私の力も所詮借り物です」

「……えっ?」

 柱の影から再び現れた海坊主は、腕の形を自由自在に変形させながら戦闘開始を待つ。

「これは私の力じゃないし、いつなくなるかも分からない」

 対等の司祭が拳を握り重心を落として、構える。離れた場所に居る設楽はただ口を開けて彼女の話を聞いていた。

「でも力を使っているのは私で、過去とは違う生き方をしてる」

「……」

「理由はどうあれ変わったことには意味がある。設楽さんも、前に進んだ筈ですよ」

『祭具奉納、天秤をここに』

 対等の司祭が祝詞を唄う。彼の周囲が淡く光り始め、その手に権能を行使する為の証明である祭具が握られようとしている。互いに全力を出せる状況、不明瞭な戦いの果てに誰が最後まで立っているのかは誰にも分からない。遂に司祭により戦端の火蓋が切られようとしていた。

「正しくあろうとする心が、成長できないなんてことはあり得ない」

 その言葉を聞いて設楽がハッとした瞬間、鐘の音と共に彼の手に祭具が現れる。鞭の祭具が。

『対天使』


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