【7】
日差しが水面で乱反射を繰り返し照り付けられる河川敷。設楽は手ごろな石を掴むと握った感触を確かめ、大きく振りかぶって川に投げる。一度だけ跳ねた石は速度を失いドボンと音を立てて沈んでいった。残念なことに設楽に水きりの才能はない。
真顔で水面を見つめる彼女の下に粳部が近寄っていく。
「あまり跳びませんね」
「初めてやってみたんだもん」
少しいじけたような声で答える設楽。粳部は不機嫌そうな彼女に何と言うべきか考えながら石を拾い、大きく振りかぶって川に投げる。だが、異常に加速した石は水の中に落ちるどころか水平に飛んでいき、反対側の土手に衝突して砕け散った。粳部は水きりをする為に力を抑えて投擲したつもりだったが、身体能力がランダムな以上は予想外のことが起きてもおかしくはない。
左右を見て誰も見ていないことを確認する粳部。
「ストレス溜まってんの?」
「い、いやそんなつもりじゃなかったんすよ!こ、こんなに飛ぶとは……」
「……前から思ってたけど、お姉さんドジだよね」
「思ってても言っちゃいけないことはあるんですよ……設楽さん」
粳部を見て設楽は大声で笑う。その仕草からほんの少し警戒心が抜けたことに安堵し、粳部も釣られて柔らかい笑みを浮かべる。昨日にいきなり情報を大量に開示し選択を迫ったことで、彼女に何か悪影響を及ぼしてしまったのではないかと考えていた粳部。だが、笑える余裕はまだ残っていたようだ。
彼女は思い切って気になっていたことを聞く。
「昨日はお母さんに詰められたんじゃないですか?」
「もう最悪……ベッド行ったのに質問責め。寝たの零時」
「それだけ心配してくれてるってことっすよ」
「勘弁してよ」
それだけ娘のことを大切に思っているのだろうと思う粳部。厳しく接するというのは想いの強さの証明であり、彼女がまだ見捨てられていないことの証明でもある。一人での行動が多い粳部からすれば、そういう身近な誰かの優しさは眩しく羨ましいものである。
粳部の父は優しいが怒ることはしない。
「あー今まで好きに使えてきたのになあ」
「説明した通り、好き勝手使うと大変なことになるんですよ」
「お母さんにも言われた……再放送いらないよ」
「……まあ、何度も言われたくはないですか」
もう一度石を拾い川に投げる設楽。力加減と入射角を調節して放ち、飛んでいく石は水面を三度跳ねて沈んでいく。今度は上手くいったというよりも、たまたま上手くいったというだけで二度目はないだろう。それを見て粳部も石を拾い上げる。同様に、二度も異常な筋力になる確率を引くことはない。
「……この仕事楽しいの?」
「うーん……楽しくはないですが、やりがいはあります」
「それ利用されてない?」
「仕事は楽しくないものですよ。まあ、大金がポンと貰えるのはちょっと嬉しいですが」
それを聞いて途端に目を輝かせる設楽。粳部はしまったと思ったものの、既に遅かった。
「えっ!?そんなに貰えるの!?どのくらい!?」
「あー言うんじゃなかった……」
「十円ガム何個分!?ねえねえ!」
「駄目です教えませんからね!言ったら金で釣ったみたいになります……」
まだ完全とは言えない精神の少女に選択を迫るのもおかしい話だが、現実問題そうしなければならない。設楽が司祭という圧倒的な存在である以上、彼女の価値はとんでもない額になる。故に蓮向かいは彼女の幼さに付け入って加入させようとしているという面もある。
最悪のシステムだが、今はまだ変えられない上にこれがベストだ。
「お母さんから言われたと思いますが、よく考えて決めることなんですよ?」
「保護観察の場合、一生権能使っちゃ駄目なんでしょ?うーん……」
「お菓子は自分で買う……というわけにはいきませんか」
「私一人で救える数なんてたかが知れてるよ。権能がなきゃ……権能が」
粳部は考える。自分の権能で湧き出た菓子を人に分け与え、万人に配る優しさを持っているのが設楽だ。子供に与えられた現実を無茶苦茶にできる力。彼女からすれば、いきなりそれを取り上げられるのは酷なことだろう。しっかりと説明をされても、理屈が分かったところで根本からの納得ができない。
粳部の投げた石は二メートルもしない距離でチャポンと落ちる。
「お姉さんの母親は入る時どう反応してた?」
「私の母親は……私が生まれる前に死んじゃったんですよ」
「……えっ?」
粳部の予想外の回答に困惑する設楽。本人にそんなつもりはなかったのだが、質問の相手が悪かった。母親に会ったことがない粳部はその問いに答えることができない。答えを持ち合わせていない。
「私を妊娠中、撥ねられて亡くなったんです。私は奇跡的に生きてましたが」
「それは……その」
「あっ……すいませんこんな話して」
それは交通事故だった。粳部の母親、粳部響は仕事帰りに運悪く自動車と接触し転倒してしまい、頭を強く打ったことで亡くなった。その腹に彼女を残したまま、あっさりと息を引き取ってしまったのだ。病院で母親の遺体から取り上げられた赤子は息を吹き返し、今もこうして元気に生きている。
故に、粳部に母親なんて物は分からない。
「父には話してないです。大人は自分のことに自分で責任を持つものですから」
「……選択しないといけない私は……もう大人ってこと?」
「……大人は嫌っすか?」
視線を粳部の方から水面に移す設楽。晴天、普段と比べ水量の少ない川に魚は居ない。煌びやかな反射光を放つ流れの中には水底の石くらいしかなく、後ある物は中洲に生えた雑草くらいだった。水辺だというのに照りつける日差しの暑さしか粳部は感じられない。
蝉の鳴き声は遠い。
「分からない……自分がこれからどのくらい大人になるのかも、分からない」
「……組織のやり方は好かないですけど、否定できないのがムカつくんですよね」
彼らのやり方は間違っているわけではない。人手不足を解消する為に子供の司祭でも職員として雇用し、現状を維持して改善を目指す。リスクはゼロでないものの好条件で最善の環境を提案する蓮向かいのやり方は、この混沌とした世界では正しいかもしれない。
だが、人生何があるかは分からない。
「歯を食いしばることしか、私にはできませんから……」
川はどこまでもいつまでも流れ続ける。その果てにあるものは、今はまだ彼らには見えない。
無言が続いた後、設楽が沈黙を破り踵を返して歩き出す。どこに行こうとしているのかは粳部には分からず、その後を付いて行く。砂利よりは大きな石を踏み鳴らし進んで行く。
「どこ行くんです?」
「散歩……お姉さんどこまで付いて来るの?」
「仕事なので、ちゃんと見張ってないといけないんです」
「嫌な仕事だなあ……」
【8】
「おっ、設楽じゃん」
「インターホン出てから扉開けた方がいいよ」
今にも壊れそうなボロアパートの一室、扉の前で呆れた顔をする設楽と無表情の友人。それを少し離れた場所で見守る粳部は、割れた窓ガラスや床に転がる酒の空き缶に視線を誘導されてしまっていた。この辺りは他所と比べて治安が悪く、土地の価格も相当に安い。
親からすれば、あまり小学生に行かせたくない土地だろう。
「インターホンなあ。そっちの声は聞こえるけど壊れてて喋れないんだよね」
「さっさと直しなよ」
「これ何で崩れてないんですかね……」
あまりにもボロい外観だが、この二階に上った段階で粳部はこの建物が傾いているような気がしていた。相当に年季が入っているアパートだがちゃんとインターホンが付いており、案外大丈夫なのかと思った矢先のこの故障である。建物を調べれば何らかの基準に引っ掛かりそうだと思う粳部。
「あれ、今日はオマケ付いてるの?」
「ああ、あの人は気にしなくていいよ」
「うっ……まあ気にしないでください」
設楽の答えを聞くまでは後を付けようと思っていた粳部だったが、彼女がアパートに入った段階で先のことを考えて内心あたふたしていた。そして、その懸念通りどうすればいいのか分からずあたふたしている。
「えっと……姉です!」
「あれ、前に一人っ子って言ってたじゃん」
「あーマジで気にしなくていいから」
「か、家庭内の立場が低くてですね……」
「ああそういう……同情するよ」
小学生に嘘の悲劇への同情をされてしまう粳部。あまりにもガバガバ過ぎる言い訳だったが、設楽の雑な対応と性格が相まって奇跡を起こした。こんな手段、二度は使えないだろう。どうにかなったことに安堵する粳部と、家の中を覗き込む設楽。
「ん?今日弟さん居ないの?」
「……ああ、あいつ死んだんだよね」
「はっ?」
思わず真顔になる設楽。粳部は状況が分からずただ困惑し、友人の少女は無表情で淡々と事情を喋る。
「頭打ったけど病院行く金がなくて放ってて……無傷で元気だったのに、昨日死んでた」
「そっ……そうなんだ……電話してくれたら良かったのに」
「あー……ごめん、固定電話売っちゃったんだよね」
状況は最悪だ。設楽の表情は沈み込み、それを見ていた粳部も釣られて落ち込んでいく。金があれば費用を気にせず病院に行けたのかもしれないが、もう彼女の弟がこの世に居ない以上は意味のない仮定だ。金はいつの時代もあるに越したことはない。緊急時は特に。
全ては巡り合わせの悪さにある。
「ごめん……そんな時に来て」
「気にすんな。まあ、生きてりゃ死ぬ時もある」
「……何で平気そうなの」
「……まあ、その内泣くと思うよ。生きてるんだから」
普通の小学生と比較して達観し大人びたその少女は、少し悲し気な笑みを浮かべて見せる。決してダメージがないわけではないものの思う所があるという表情が、粳部と設楽の胸に深く突き刺さっていた。知人を失った設楽は特に。
「あいつ、お前が来たらお菓子貰えるから喜んでたな」
「……」
「うち、お菓子なんて買えないし」
「……ごめん、また今度ね」
いたたまれなくなったのか設楽がその場を離れることを選び、ゴミの転がる廊下を歩いて階段へ歩いて行く。粳部も彼女を放っておくわけにはいかず、その後を追いかけていった。部屋の扉が閉まる音が響いた後に階段を駆け下りる音が響く。
アパートを離れた場所で設楽の歩幅は短くなっていき、次第に止まった。
「……何と言うべきか……残念でしたね」
「お姉さんは……大人になって、子供の頃の選択を後悔したことある?」
「……まあ、八割近くは後悔してます。馬鹿でしたし」
設楽はその顔を見せないものの、その小さな背中で心情を物語っている。無力さややるせなさ、司祭の強靭な肉体でも抱えきれないような呪いを背負って、彼女は空を見つめていた。濁った雲が集まり始めた薄墨色の空模様は、これから長い雨が訪れることを示している。
「でも、二割は正しかったと今も思ってます」
「……そっか」
「……」
「私は……誰かに手を差し伸べられない人間だった」
弱い人にできることなどたかが知れている。いつだって分け与える者は何かを持った者で、何も持たない者に何かを配る力はない。与えたいという意思があっても想いだけでは何もできず、力があろうと意思がなければ実行されることはない。そして、彼女は前者だ。
「司祭になるまで誰かを助けようとしなかった。ホームレスも見ないフリをしてた」
「でも今は違う……ならいいんじゃないですか?」
「確かに私は人に与え続けてる……お菓子しか出せないけど、与えられた力を使ってる」
今の彼女の力があれば栄養バランスは偏るものの餓死はしない。彼女からお菓子を貰ったホームレスの中にはそれを売ってわずかなお金を得る者も居る。そして、設楽もそれに同意している。彼女は常に誰かの為に与え続けることを信条としている人間なのだ。
だが、権能を使うことで彼女の本当の葛藤が消えることはない。
「でも、結局与えられた物を配ることしかできない!これは私の力じゃない!」
「……それは」
「私は……司祭になる前から少しも成長してないんだ」
雨が降り始めた。ざあざあと、設楽に降り始めた。
「権能で解決できなきゃ見て見ぬフリ……あの子の家が酷い貧乏なのに何もしなかった」
「違います!それは子供の責任じゃない筈です!大人がやら……」
「でも!私は一番近くに居た!知っていながら見捨てた!」
空は黒澄み汚れ続け、雨は遠景をにじませていく。靄が掛かったように白んでいく世界にただ二人だけ。粳部は設楽の肩に触れると、そっと押して雨に濡れない軒下へと向かう。夏の暑さはいつの間にかどこかへ消えていた。
「冷えますよ、雨なんですから」