【6】
曇り空の午後、一人の男が路地裏を歩く。彼は古い家屋が立ち並ぶ路地裏を通り抜け階段を降りると、複雑な通路を歩きながら奥へ奥へと進んで行く。家の下にある奇妙な通路を抜けた先、再び階段を降りると錆びたスナックの看板があった。もう誰も来ることのない閉店した店。
男は建付けの悪い戸を引くと店内に入る。夜逃げでもしたのか、店内に残された椅子や缶、瓶には埃が被っていた。男は何も気にせず奥へ進むとテーブルの上の椅子を地面に置き、そこに座る。宙を舞う埃がゆっくりと落ちていく。
「来たぞ」
その言葉を号令に、彼の横の空間がひび割れて広がっていく。光が差さず何も見えないその空間は広がり続け、やがて人が一人通れるだけの穴ができた。男は少しも動揺することなく、その亀裂の成長を見守っている。
そして、鎧を着た何かが出てきた。
「やあ、ミールメーカー。久しぶりだね」
「久しぶりだな、ギョロ目」
黒い鎧のような見た目の人物は亀裂から床に足を下ろすと歩き出し、彼から少し離れた机の上の椅子を手に取ると床に置き座る。鎧の人物は中身が分からない為に正確な身長が割り出せないものの、鎧の高さ自体は百九十センチ近くあった。
そして、何よりも目を引くのは頭部に付いていたギョロ目だった。彼は声色の違う複数の声を同時に出す。
「相変わらず派手にやっているみたいだね。新作は撮るのかい?」
「生憎、モチベーションがなくてな」
「ふーん、そう。何か飲むかい?酒の一本はあるだろう」
そう言うとギョロ目が腕を上げた瞬間、店のカウンターの向こうで一匹の概怪が立ち上がる。一本のワインとグラスを持った概怪は奇怪な声を上げながら歩き出すと、それらを机に置いて影の中に消えていく。ミールメーカーはその光景をマジマジと見ながら胸ポケットから栓抜きを取り出した。
「全く、栓抜きも渡せよ」
「悪いねえ。君が持ってると分かってたからね」
彼が栓を抜いてワインをグラスに注ぐ。少し濁ったワインは刺激的な香りがし、二杯注ぎ終えた段階でミールメーカーがあることに気が付きボトルを置いた。しかし、その表情は少しも変化していない。
「腐っているな。これは」
「まあ、空き家のワインに期待しちゃ駄目ってことさ」
「捨てるか」
「いや、自分は飲もう」
そう言うとギョロ目は立ち上がらず、何らかの力を使ってグラスを自分の手元に引き寄せる。そして、それを頭から被る。ワインは鎧を滴って落ちていき、隙間から中へと入っていく。ミールメーカーが見つめていると、その鎧の表面に脈打つ血管があることに気が付く。それは明らかに鉄製ではない。
目元に垂れるワインは、まるで涙のようだった。
「人が飲むものじゃないねえ!」
「お前が言うと意味が違うな」
グラスを机に置くギョロ目。全身を何らかの肉の鎧で覆った怪物の王は、外付けされた頭のギョロ目を忙しなく動かす。ミールメーカーはあれが本当の目ではないことを理解していたが、その鎧の奥にある彼の本体の姿は少しも見通せなかった。
ギョロ目が足を組む。
「最近、期待してた投資先が潰れてね。ガッカリだよ」
「投資ねえ」
「広陵団の爆破テロ、最後の花火はショボかったね。あれじゃ隅田川だ」
「邪魔でも入ったのか?」
テロリスト集団の広陵団。彼らは最後に手製の爆弾をトラックに積んで爆破テロを行おうとしたものの、故障により起爆に失敗。最終的に爆破したものの被害は本来想定された規模から大きく減少していた。それも粳部とグラス達の尽力によるものである。
「蓮向かいがやってくれたよ。死体は回収できたけどね」
「よく分からんが邪魔な連中なんだろう?」
「ああ、君も警戒した方がいいよ。彼らは実に狡猾だ。対応は常に慎重さが求められる」
「慎重さを求めてるのなら、こっちの仕事を増やさないでくれ」
声色を変えずに文句を言うミールメーカー。抗議の意思を秘めた視線はギョロ目ではなく、鎧の隙間に吸い込まれていった。そんな視線も意に介さないギョロ目。
「まあ、人間は畜産に適さないからね……君には苦労をかけるよ」
「俺の啓蒙活動の時間を奪わないでくれ」
「啓蒙って……あのビデオがかい?」
「俺は頭から悪魔を追い出したいんだ」
ミールメーカーは虚ろな目でそう呟く。悪魔に憑りつかれた男はそのことしか考えられない。彼の行動の全ては自分を苛む衝動から逃れる為。全ての人にビデオを通して啓蒙を授けなければ、彼の望みは叶わないのだ。
彼が救われる世界を作る為にも。
「あれは世界に真実を伝える聖典だ。悪魔は既に世界を乗っ取り……」
「あーいいよそういう話は。自分にはサッパリだし」
「……今日は何の用だ?」
「君の人間牧場の話だよ。生産量を増やそうと思ってね」
ミールメーカー、その名前の由来は彼が人間の生産者であることから。女性を拉致して強姦し子供を作り、できた子供は孤児院などに置いて行く。そして女性を処刑する。到底人間にできる行為ではないが、悪魔に憑りつかれた男からすれば造作もないことだ。
「言っておくがやる気はないぞ。やりはするがな」
「死体が足りないんだ。よろしく頼むよ」
「……俺が何故子供を作るのか、お前は覚えてるか?」
何人もの子供を作った男の動機。人を捕まえては処刑する男が何故新たな命を作るのか、ギョロ目には興味がなかった。だが、一応彼を満足させる為に聞いてみることにする。
「覚えてないけど、それは?」
「殺したらその倍生み出すんだ。子供を産ませ孤児院に届けて帳尻を合わせるんだよ」
一人を攫っては二、三人を産ませて元を取っていく。とても正気とは思えない計算ではあるが、ミールメーカーは既に六年間で四十一人の赤子を孤児院に預けていたのだ。母体の安全など少しも考えない人間性の欠片のない人物だからこそ、最悪の愚行をやってのけたのだ。
「俺は悪魔の存在を世に知らしめたいだけで、誰かに死んで欲しいわけではない」
「被害者全三十一名、産まれた子供は百二十人……まあ半分以上自分が徴収したけどね」
「お前が殺し尽くすせいでバランスが取れない……どうしてくれる」
そんなこと知らないとばかりに両手の掌を空に向けるギョロ目。こんなふざけた態度をしているが、こんなふざけた存在に大量の子供が殺されたわけである。どうやら、天におわす者は相当な子供嫌いらしい。慈悲は欠片もないと見た。
ミールメーカーはワインの入ったグラスを手に取り、傾けて中身を揺らす。
「悪いけど計画に死体が必要不可欠なんだ。君の人間牧場には期待しているよ」
「……俺の一日の仕事量も考えて欲しいんだがな」
【7】
「いつの間にか夕方ですねえ……」
「状況に変化なし。これはやり方を変える必要があるね」
運転席と助手席の映画監督と粳部。リクライニングを倒して夕焼けを眺める粳部は、進展のない捜査にやきもきすることもなくなってしまっていた。集中してマンションに入る人間を監視しなければならないというのに、あまりにも長い退屈な時間が彼女の集中力を奪ってしまっていた。
粳部が両腕を高く伸ばす。
「鈴先輩は来ないですし……谷口さんはコンビニ行ってますし」
「犯人は来ないしな。陽が沈んだら車を捨てて別の場所から監視をしよう」
「……了解です」
それでも、隣の異常者に対する警戒心だけは失われていなかった。監視をしながらスプラッター映画についての話を延々としている男に対して、警戒心を解ける筈もなく。そもそも、解けるような人物であれば地下に幽閉されている筈がないのである。
「粳部君は死体の夢を見ることはあるかね?」
「い、いやないですけど……」
「死体の夢を見る心理は『生まれ変わりたい』という心理らしいね」
「……見るんですか?死体の夢」
そりゃそんだけ人の処刑について考える生活をしていれば死体の夢も見るだろうと思う粳部だった。人は見た目では分からないと言うが、自分達と何も変わらない見た目の人物がこうも中身が違うとは彼女は思いもよらなかったのだ。人の心の機微に敏感な彼女でも、彼の心だけは少しも理解できない。
「いや、見ない。見るのは洪水の夢だよ」
「それはどういう意味なんです?」
「さあ、そこまでは知らない。だがいい夢ではないな」
微笑みを絶やさない映画監督。おぞましい想像が底なしの彼ではあるが、どういうわけか粳部は彼から悪意を感じ取れなかった。どう考えても社会に不適合の危険人物ではあるが、彼に何かを憎み嫌う心はなかったのだ。
それはただ、純粋な善意によるもので。
「夢の中で映画が観れたらと、つくづく思うよ」
「普通の映画なら私も観たいですがね……」
「まるで私が普通の映画を撮らないみたいな言い草だね」
「実際そうでしょうが!」
粳部がそう言うと彼は自分の懐をまさぐり、DVDの入ったケースを取り出す。その動作を見てまたグロテスクな映画を見せられるのかと恐怖する粳部。彼はケースを開くとDVDを取り出して挿入する。監督の表情は無表情だったが、それはこわばったものではなく安らかなものだった。
映画が再生され始める。
「うわうわうわうわ」
「これは冤罪の男があがくも処刑され、遺族が死後に逆転無罪を勝ち取る映画だ」
「それでも処刑が絡むんじゃないですか!」
「安心したまえ。死ぬ瞬間は映らない」
いくつものロゴが映った後、遂に映画が幕を開ける。この作品は冤罪をかけられた男が裁判で負け死刑になるまでの日々と、彼の死後に遺族が立ち上がり逆転無罪を勝ち取るというあらすじだ。無実の男は当初やるせなさに慟哭するが、次第にその心境が変わっていく。
話が進み男と妻の面会シーンになる。
『こうなってくると、自分がやったんじゃないかと思えてくる』
『しっかりして……あなたがやったわけじゃないでしょ?』
『どうかな、少なくともここの連中はそう思ってるみたいだけど』
何もかもを諦め精神的に憔悴し切った男の姿は酷く痛ましく、冤罪であることを知る者からすれば酷くやるせない。そこまで見ていた粳部は次第に処刑のことが脳裏に過らなくなっていく。いつの間にか谷口が車内に戻ってきて、たまに小さな画面をチラチラとみていた。
時間が進み房の小窓から空を見上げる男と、扉の横の檻から中に覗き込む看守。
『今日は静かだな』
『ようやく、ここに居る理由が理解できた』
『理由?』
『誰も悪くないんだ。みんな、自分の正義に従っただけだった。その結果がこれというだけ』
安らかな殉教者のような表情を浮かべる男の顔を見て、粳部はこの物語が悲劇なのか何なのかが分からなくなっていく。絶望の果てにある種の悟りに至った彼を待つのは死だけ。自分を死に追いやる者を許す彼の姿は、この世の何よりも酷く憐れだった。
更に時間が経ち処刑の直前になる。首にローブが掛かった男が看守に話をする。
『憎みはしない。そしてこれは悲劇でもない』
それだけ言い残すと場面が変わり、遺族による葬式の場面へと変わる。男に感情移入し切っていた粳部はやりきれなさで眉をひそめた。粳部が普段こういう映画を観ない理由は、感情が豊か過ぎて辛くなってしまうからである。
粳部が一つ呟く。
「無常ですね……」
「……果たしてそうかな」
それだけ返す映画監督。映画は終盤に近付き、被害者が男の無実を証明する為に再審請求を行う場面に移る。この映画は男が処刑されて終わりではない。弁護士と話す男の妻。
『最善を尽くしますが、あちらの頑固さは相当ですよ』
『知ってます。無実の人を一人殺すくらいには頑固ですね』
『……亡くなった彼の敵討ちと行きますか』
『いえ、敵討ちじゃありません』
弁護士が軽く首を傾げ、眼鏡をくいっと動かす。粳部は弁護士役をしているのが映画監督なのが気になったが、今更それを突っ込んでも仕方がないと思い諦めることにした。
『裁判に不備があったことを証明できれば、私はもうそれでいいんです』
『……』
『あの人が望むのは』
『……そうですか』
そして裁判所に場面が変わり、裁判長がこう言った。
『無罪』
短いエンドロールが流れる中、粳部は映画を見終えて奇妙な満足感を感じていた。最初はおぞましい物を観る覚悟をして、最悪の場合はDVDを取り出してでも止めようと思っていた彼女だった。しかし、最後にはただただ映画に見入ってしまっていたのだ。
そこに、男の残虐性はない。
「……こんな映画も作れるんですね」
「普通の映画だったな、残虐じゃない」
「残虐性を極限まで減らしてみたんだ。これはこれで良い映画になったね」
自信ありげにそう語る男の姿は普通の『映画監督』であった。出来の良い短編映画を観たというシンプルな感想だけを覚えた粳部は、何がなんだか分からなくなっていく。それは作品と作者は似るのか似ないのかという問題。まだ答えが出そうにない問い。
映画監督の処刑への憧れは、一体どこから来ているのか。
「……どうして処刑の映画を撮るんですか?」
「愚問だね。君は時間を無駄にしている」
彼はマンションの方を観ながら一切表情を変えず、安らかな表情で話を続ける。
「人はいつだって清らかな物を崇める。私も同様だってことさ」
その言葉の意味は粳部にはまだ分からなかった。しかし、それは今はまだというだけ。