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5-6

【8】


「私は教会に長く勤めていました。昔から信心深かったので」

 雨田圭は教会でその真面目さが評価され、最終的に若くして司祭に選ばれた。誰にでも優しく平等な彼はいつだって誰かの為に祈りを捧げ、自分の為に祈る時は自分の無力さを悔いる時くらいだった。祈りは彼にとって使命であり、その先に居る主と自分の心を唯一繋げられる瞬間。祈りは決意を生み、彼に明日への一歩を踏ませていた。

 だが、司祭は祈ることができない。

「私は誰かの為に常に祈っていました。そんな私にとって、『司祭』になるということは悪夢でしたよ」

 祈ろうとすればするほど強烈な嫌悪感が襲い掛かり、その者の信仰を破壊する。それが司祭の原則だった。彼もその例外ではなく、こんなにも信心深いというのに少しも祈ることができなくなってしまったのだ。それが彼にとってどんな苦痛だったか。司祭になって信仰を捨てる者は少なくない。

 眉をひそめる雨田。

「誰の為にも祈れない、自分の無力を懺悔することもできない。次第に、神の存在を疑うようにもなりました」

 自分が祈った先に居た者と遠ざかり、神から孤立したことで迷ってしまうことは仕方のないことだ。大抵の人間はここで全ての信仰を捨てて生きることを選ぶ。それは見捨てられたようで、自分が信じていたものがまやかしのようにも思えてしまうような感覚。

 蓮向かいの調べでは、司祭になった聖職者が信仰を捨てる割合は九割に近いという。

「突然見放されたように感じた私は、例えフリでも祈ることが苦痛でした。辞めようと思った最初の理由です」

「……他に理由があるんスか?」

「……ある時、意味を考えることにしたんです。何故神は私を司祭にしたのかと」

 人間に司祭の力を与える存在が神かどうかは分かっていない。別次元の存在であることは分かっているが、それを神と呼ぶかどうかは疑問符が付き議論は絶えない。しかし、そんなことを何も知らない雨田はそれが『神』であるという前提で話を進める。今なお信心深い彼からすれば、自分から祈りを奪った存在もまた、神なのだ。

「何故祈りを奪ったのか。祈りを取り上げて、私に何をさせたいのかを考えました」

「そんな存在が神ですか……」

「それでも神だと私は思います」

「……それでも」

 それは人を苦しめる存在か祝福する存在か、またはその間か。蓮向かいの全員がその問いに答えを出せていない。だが、雨田は自分の中でそれへの答えを出した。苦しみ抜いた彼が前に進むことを選んだ理由。教会を飛び出して児童養護施設に辿り着いたわけ。

 雨田の目の前で、座る彼を見下ろす粳部うるべ

「出した結論は、神は祈ってる場合じゃねーだろと言っている。ということです」

「じゃねって……えっ!?」

 雨田は微笑みながらそう答える。突然口調が乱れたことに驚きを隠せない粳部。教会を辞めた身ではあるが聖職者のような雰囲気のある彼が、そういう口調をするとは誰も思っていなかった。これには藍川も意外そうな表情を浮かべている。心を読まなければ彼もそんなものだ。

「例え神の言葉が聞こえなくとも苦しくとも、私は私が信じるものの為に進みます」

「それは信心ですか?」

「そうでもありますがこれは私のやり方です。教会とも違う私のやり方でね?」

「……教会を出たのはそういうわけっすか」

「まあ、祈るフリをするのは忍びないので」

 そう言って苦笑する雨田。どうやら教会を出た理由の二割程度はそれなのかもしれない。どこまでも正直で慈悲深い人間の彼からすれば、そうやって嘘を吐き続けるのは苦痛でしかないようだ。粳部が思うに、彼はある意味祈りという枷から解き放たれたことで自由になったのかもしれない。教会を出て自分のやり方を示す今の雨田は、苦悩はあれどその覚悟は鈍っていないように思える。

 雨田の横にあるベンチに座る粳部。

「どうしますか、あなたはどちらも選べますよ」

「どちらを選んでも救えないものがあるというのは歯がゆいですがね」

 答えは今日聞くと決めていた。ここで決めるのもありではあるが今日という時間はまだ残っている。粳部は少し心残りがあるような感覚に襲われ、まだ何か彼に言うべきことがあるのではないかと思考を巡らせた。だが、そう簡単に言葉は脳裏に浮かばない。

 その時、エプロンを付けたボランティアが彼らの下にやってくる。

「居た!雨田さん、予備のゴミ袋ってどこでしたっけ」

「ああ、分かりました。私が行きましょう」

 立ち去るボランティアの背中を見て、休憩を終えた彼が立ち上がる。

「……引っ張りだこですね」

「自分にできることをしていますので」

「みんな、あなたが必要なわけですか」

 それもその筈だ。こんな聖人は百年に一度の逸材だろう。





【9】


 夕陽が沈み始めた時間帯、そして焼けていく天を養護施設の四角い空から眺める藍川と粳部。彼らの居る中庭から少し離れた場所には雨田がおり、養護施設で暮らす児童と会話をしている。どうやら元々仕事が少ない日だったようで、イベントが終わり肩の荷が降りた彼には良いリラックスの時間になっているようだった。

「裕君、知っていますか。夕焼けになると明日は晴れなんだそうですよ」

「知ってる。日本の大気の流れの関係なんでしょ」

「おや、中々物知りですね。流石です」

「別に―このくらい誰でも知ってるでしょ」

 小学校高学年くらいの少年は気だるげな表情で回答する。すると、そこに小学校低学年くらいの子供が二人近付いてきた。裕という少年の顔を覗き込む二人。

「裕ちゃんいっつも理科の教科書読んでるもんねー」

「授業中に関係ないページ読んでるって聞いたよ」

「ああっ?お前らそれ誰から聞いたんだよ!」

「そうなのですか?」

「ち、違う!ちゃんと聞いてる!」

 焦りで目が泳ぎ瞬きの回数が増える裕。いつもと変わらない笑みを浮かべる雨田には怒りの感情は少しもなく、バツが悪そうにする彼は何とか噓を考えようとする。しかし、子供に考え付くことなどたかが知れていた。

「あーページを間違えて捲り過ぎたことはあったかもな」

「馬鹿だー!」

「馬鹿じゃねえよ!分かってて捲ってるんだよ」

「おや、間違えて捲ったのではなかったのですか?」

「だあーもうめんどくせー!」

 そう言って逃走する少年。それを面白がった二人の子供がその後を追いかけ、施設内に楽しい足音が三つ響いて行く。ここは穏やかだ。粳部はその光景を見てこの世界はどこまでもこんな光景が広がっていると錯覚しそうになる。あまりにも平和で、不穏さの気配もない世界をずっと見ていると、世界中に概怪や犯罪者や司祭が潜伏していることを忘れそうになってしまうのだ。

 中学生くらいの少年が雨田の下に向かう。

「雨田さん。受験の話なんだけど……」

「ああ、それなら聞きましたよ。大丈夫、お金の心配をする必要はありません」

「でも……あそこ結構高いよ?」

「今は支援金が出ますし、それにお金で躊躇するのなら選ぶべきです。お金なら私達が用意しますから」

「雨田さんホントありがとう!」

 それを聞いて表情が明るくなった少年。少し不安が混じっていた表情は消え去り、喜びに満ちた表情だけがそこに残る。経営に余裕があるわけではないが、全てを預かる経営者としてそれだけは叶えてあげたいのだろう。一度きりの人生で妥協をさせることなんて、どこまでも慈悲深い彼にはできない。

 少年が去ったのを見て粳部と藍川がその側に近寄る。

「平和ですね、ここ。この世界の殆どは平和だって思い出せました」

「他人に厳しく無慈悲な時代ですから、私くらいは優しくしなければと思うのです」

「……なんか、自分が悪人のように思えてきます」

「そんなことは決してありませんよ」

 微笑む雨田を見て微笑み返す粳部。他人にそこまで関わろうとしない粳部だったが、雨田の善性からか珍しく少しだけ打ち解けていた。粳部の様子を後ろから見守る藍川。

「やっぱり、みんなあなたが必要みたいですね」

「知り合いのツテで働き始め、経営者にもなった私ですが……何とかやれているようです」

「あんたが手本になるのならここの子供は皆、高潔な人間になりそうだ」

 彼ならば学校の教員にもなれそうだと思う粳部。誰かを導く適正があるのであれば当然教師としての才能もあることだろう。だが、彼はいつだって救いを求める人間に手を差し伸べる存在だ。彼が居るべき場所は学校ではないかもしれないと彼女は考える。

 そして、粳部は雨田を真剣な面持ちで見つめる。

「一つ言えることがあるとすれば、誰もが特別で替えが効かないってことです」

「……替え」

 例え司祭でもそうでなくとも、万人が特別で替えが効かないものだ。それは遺伝子的な話ではなく命としての話。全ての人間がそれぞれの人生を送っている以上、誰もが唯一無二でオンリーワンの存在なのだ。例えできることが同じであってもその人の人生はその人の人生。選択権が彼にあるのならばそれは彼が選ぶべきことだ。

「あなたの人生はあなたにしか選べない。あなたにしかできないことをしてください」

 粳部から雨田に言えることはそれだけだった。それだけ言えれば後のことは彼に任せて終わりなのだ。蓮向かいに入るのであれば手続きを行い、保護観察を望むのであればそこでおしまい。どうあろうと、彼の人生は彼にしか選べないのである。

 それを聞いた雨田は暫く考え込み、ふと室内を見ると今度は夕焼けを見る。そして、その目は覚悟を決めた。

「……例え権能を使えなくとも、私はここで自分にできることをやるだけです」

「じゃあ……」

「ええ、私は保護観察を選びます」

 権能を使うことが許されていなくても、ボランティアに協力する余力を失ったとしても、彼はここに居ることを選んだ。それでも自分の道を進む為に無力なりにできることを探そうと決めたのだ。食費を負担することで経営は厳しくなるだろうが、彼は維持して見せるだろう。そして、再び誰かの為に手を差し伸べる。

 雨田とはそういう男だ。

「保護観察の身では権能を使うことは禁じられている」

「ええ、承知の上です。それでもやって見せますよ」

 その時、藍川が雨田に近寄ったかと思うとかがんで小さな声を出す。

「大っぴらにはな」

「……あっ」

「くくっ、まあ目立つなってことさ」

 藍川が何を言いたいのかを理解した雨田は驚いた表情から笑顔になり、大きな声で笑い始めた。理解した粳部も笑い始め、三人の笑い声が施設内に響き渡る。そんなことを言われれば笑いたくもなるだろう。

「はははっ……そうですね。少し加減しましょうか」

「ふふっ、バレなきゃいいと」

「おっとそこまでだぜ。じゃあ、俺達はもう帰る」

「これにて失礼しますね」

 そう言って立ち去ろうと出口に向かう粳部と藍川。だが、雨田の横を通り過ぎた彼らの背中に声が掛かる。

「ありがとうございました!」

 もう彼らが会うことは一生ないかもしれない。保護観察の身になった雨田はこれから細々と生きていく。穏やかな日常の中で、誰かに手を差し伸べながらささやかな幸せを作っていくのだ。そこに二人の居るべき場所はない。これからも社会の影で生きる彼らの影と交わることなど、決してないのだ。

 出口まで来た時、軽やかな足取りの藍川が口を開く。

「平和な一日だったな」

「……ホント、そうでしたね」

 扉を開けて二人が外に出ると、そこには人を引きずる不審な男の姿があった。余りにも堂々としていた為に思考が止まった粳部だったが、遅れてその異常性に反応する。男が人をトラックの中に投げ込んだタイミングで粳部が声を上げる。

「ヤバい奴居ますよ!?」

「……あれ、谷口じゃないか」

「ええっ!?」

「ん?お前たちか、いい加減に仕事は終わったか?」

 何もなかったかのように平然とした態度で二人に話し掛ける谷口。人を引きずりながらも声色を少しも変えない彼の表情は、白い仮面の奥に隠されていた。慌てた粳部が駆け寄ってトラックの中を覗き込み、藍川は歩いてその後を追う。彼女の目に入ったのは意識を失って伸びている四人の男だった。

「こ、この人達は!?」

「雨田圭の拉致を計画した南アフリカ諜報部だ。司祭をけしかけるつもりだったようだ」

「何?お前何で連絡しなかったんだ谷口」

「お前も飾身に連絡先教えてないだろうが」

 完全にどっちもどっちである。

「拉致って……こういう人ってホントに手段選ばないんですね」

「こいつらの暗号通信を解読して証拠を掴んだ。阻止できて何よりだ」

「……まあ、終わり良ければ総て良しですか」

 大きくため息を吐く粳部。これで雨田や児童養護施設で暮らす子供達に危害が及ぶことがなくなった。平穏な世界で暮らす彼らがこんな世界を知る必要はない。二つの世界は決して交わらないものなのだ。こうやって、蓮向かいが陰で平和を維持しているのだから。

 その時、谷口が持っていたPHSからラジオの声が響く。ポケットからそれを取り出す谷口。

『どうもー皆さん揃いましたか?』

「どうもじゃねえ……まあ、雨田は保護観察を希望だとよ」

『了解です。そう処理しておきますね』

「あと、南アフリカに外交ルートで釘を刺すように。国内で好き勝手させるつもりはない」

 少し不満げな口調でそう言う谷口。彼が休日出勤をしていることを知らない粳部はその理由が分からず、表情も見えないことから困惑するだけだった。ふと、別のことに気が付く粳部。

「……あっ、私報告書を書かないといけないんでした!」

『お待ちしておりますよー粳部さん』

「じゃあ、今夜は徹夜だな?」

「ああっ!勢いで言うんじゃなかった!」

 自業自得とは正にこのこと。


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