【1】
「何もそんな急に引っ越ししなくていいだろうに」
「早く仕事に慣れたいからさ。先輩に迷惑かけたくないし」
玄関で粳部を見下ろす父。
「住み込みで給料が良いと……まあ、怪我はするなよ?俺みたいな体は嫌だろ」
「私がそんなのになるわけないじゃん……」
冗談を飛ばす父。彼が腕をなくして眼帯を付けているのは、粳部が彼に聞いた限りでは学生時代にやんちゃしたからだという。まあ、粳部はそれを少しも信じていないのだが。
不死身だから怪我しても大丈夫だよ、とは言えずに苦笑いを浮かべる粳部。
「また出ていくわけか……俺は特にないが、母さんが居たら嫌がったかな」
「命日くらいは帰るよ」
「おう、じゃあな」
「じゃあねー」
片手で引き戸を引くと玄関を出る粳部。後ろ手に引き戸を閉めてダンボールを両手で持ち直し、庭を歩いて道路に出る。すると車のサイドミラーで見つけたのか、運転席に居た藍川が窓から粳部に手を振った。路上駐車されていた車に乗り込む粳部。
「お待たせしましたーこれで最後です」
「俺が非番でよかったな粳部」
「これで基地の方に引っ越せます。鈴先輩も手伝ってくれたら良かったのに」
「お前の父親に会うだろ……何て話すんだよ」
怪我はするなと粳部に言った父親に、何度も怪我をさせている自分が話をするのはどうなのだろうと考える藍川。それに、変に組織へ探りを入れられると困る。いついかなる時でも機密は守らなければならない、例えその相手が身内だろうと。
藍川は車のエンジンを動かすと粳部の方にエアコンを向けた。
「さて、基地まで戻るぞ」
「先輩って、あの家に住む前はどこに住んでたんです?」
「基地に住んでたよ。海外の仕事も多かったからな」
「ああ、色んな所に飛べますもんね。原理不明ですけど」
蓮向かいの基地は様々な国に瞬時に移動できる用意がある。これにより距離によって活動が制限されることはなくなり、職員はどんな場所にも駆け付けられるようになった。今では様々な国でスカウトされた職員が基地の中を行ったり来たりしている。
ハンドルを指でコツコツ鳴らす藍川。
「まあ一応言うと、基地に居ると気が休まらないぞ」
「えっ?そうですかね?」
「……その内分かるよ」
【2】
『招集!起きてください!』
「何です急に!」
ベッドから跳び上がる粳部。頭上のスピーカーから響くラジオの声に叩き起こされ、粳部は状況を理解できずに困惑していた。現在時刻は日本時間で深夜三時、蓮向かいの基地に来たばかりでやっと眠ることができた粳部にとって、この時間に起こされることは相当なストレスだった。ただでさえ寝つきが悪いというのに。
枕元の照明を点ける粳部。
『緊急の招集です!お仕事ですよ』
「今何時だと思ってるんすか!やっと寝たのに!」
『今基地に住んでるんすよね?すぐB七番通路に集合してください』
寝間着から着替えるかどうするか悩むも、ラジオに急かされていることからそのまま部屋を出る粳部。部屋の扉に電子錠を掛けると駆け出し、頭上にある看板の案内に従いながら指定された通路に向かう。粳部は現在何が起きているかが分かっていないが、今はとにかく集合場所に向かうことだけを考えていた。行けばラジオが説明してくれると思っていたのだ。
「全くもう!」
日本とこの基地の時差は一時間しかないものの、様々な国から職員が出入りをしているこの基地の通路は人の往来が多かった。粳部の横を通り過ぎる人々は、ああまたスクランブルかという表情で粳部を見送る。仕事はいつだって急にやってきて、命は突然奪われる。それはここの職員にとっては見慣れた光景だった。
何度も通路を曲がり、看板を見て遂に目的地に辿り着く。迷宮のような構造の基地だったが、粳部は引っ越し後に歩いた為に少しだけ慣れていた。
『ここですよ粳部さん!』
「おっ、話してた奴が来たぞ。よお粳部」
「……ふむ」
通路の奥、藍川と話をしていた女性が粳部の方を向く。藍川が持っていた携帯電話からはラジオの声が聞こえ、粳部は彼女の万能さを改めて思い知る。どんな所にでも聞き耳を立て、あらゆる場所から声を掛けてくる女こそがラジオ。そんな彼女の案内に従って目的地に辿り着いた結果、藍川と知らない女が居る。
誰だろうと思いつつも二人の下に向かう粳部。
「お、おはようございます」
「悪いな、まだ寝てただろ?こういう仕事なんだ」
「……思っていたより弱々しい奴が出て来たな」
無愛想な表情の女は粳部をジロジロと見つめ、若干の警戒心を持ちながら上着のポケットに手を突っ込む。尻尾のような茶色の髪を軽く揺らして粳部と向き合った女。粳部の人間関係は狭く、知らない人は基本的に苦手である。それに藍川に自分の知らない人間関係があるというのが、彼女にとっては少し嫌だったのだ。
「初めまして。私はグラス、グラス・ガルグリスだ」
「ど、どうも……粳部音夏です」
『さて、今回の仕事について確認しますよ』
藍川が持つ携帯電話のスピーカーから話すラジオ。彼女も違う基地とは言え、蓮向かいの基地に住んでいるのだから別の基地まで移動して顔を出せばいいのにと思う粳部だったが、ラジオは基本的に自分のデスクから離れられない。椅子と尻がくっつく程に長時間デスクワークをしている為、こういう時でも顔を出さずに会話を交わす。
『テロリスト『広陵団』の本拠地を特定しました。そこへの襲撃が今回の任務です』
「構成員の一人が国内に戻ったおかげでようやく分かったか」
「待ってください!全然話分からないっす」
「……広陵団は、東南アジアの島国で爆破テロをやったテロリスト集団だ」
グラスが粳部に説明を始める。今まで概怪や司祭とだけ戦ってきた粳部にとって、ただの人間のテロリストの相手をしなければならないというのは覚悟の要る話だった。蓮向かいの仕事は概怪の対処だけでなく、治安の維持やその他にもあることは流石に粳部にも分かっていた。一応この組織のことについてデータベースで調べてはいたのだから。
「構成員は三十一名程度、高精度の爆弾を製造する。海外での活動がメインだが本拠地は日本だ」
「へ、へーそんな組織あるんですね。私……テレビ観ないんで」
「解説どうも。で、何でここまで捜査が遅れたんだラジオ?」
ラジオの権能の有効範囲をもってすれば、テロリストの会話をスピーカーから聞き取って位置を特定するだけでなく計画の阻止までできる筈だ。だがテロリストは未だ逮捕されておらず、今になってようやく本拠地を特定したというのはいささか遅い。そう思う藍川。
『四国は私の権能の有効範囲外だってーそれに、連中は連絡手段がアナログなんですよ』
「手紙や暗号という原始的な方法だ。電話を使用しないが故に時間が掛かった」
「……えーっと、グラスさんですよね。連中に詳しいんですか?」
ラジオの発言を特に気にすることもなくテロリストについて話すグラス。情報は全て把握しているような反応の彼女を見て粳部はそう思った。そもそも、粳部にとってはこの人選が分からなかった。藍川と粳部は同じチームなので何も問題がないが、グラスは一体どこから出てきたのか。
「私はこの事件の担当だ。手空きの職員を連れて本拠地に突入する為に君達を呼んだ」
「あっ、そですか……私に務まりますかね……」
「藍川から話は聞いた。今は人手があればそれでいい」
「はい……」
あまり期待されていなさそうな声色で委縮する粳部。慣れた相手でなければ上手くコミュニケーションを取れない粳部にとって、無自覚に圧を出して人を遠ざけるグラスは相性が悪かった。実際、ただの爆弾しか手札がないテロリスト相手ならば司祭は無傷で敵を制圧できる。しかし、バラバラに逃げる数の多い相手を捕まえるのは一人では苦労してしまう。
『取り敢えず、五分後にJ三十二番ゲートまでどうぞ。三人で敵の本拠地を制圧します』
「承知した。現地に二人、監視用の職員が欲しい」
『それくらいならすぐ手配します。あと、今から別の国に行くので権能の範囲から外れるんですよ』
「分かった。何かあったら別の担当者に連絡しとくな」
『はい、直接喋れませんがお願いします』
電話がプツンと途切れると周囲は無音になり、現場には三人が残される。まだ必要最低限の情報しか把握していない粳部だったが、この事件の担当者であるグラスが居れば問題はなさそうだと感じていた。敵について教えてくれることは勿論で、藍川も居るのだ。司祭と概怪でなければ概念防御を破れない以上、テロリストには対抗手段がない。
粳部が考えるべきことは相手に手加減することと、グラスがどういう人物なのかということだけだった。
「あの……よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
「悪いな粳部、こいつ無愛想に見えるが悪気はないんだ」
ギラついた目と無愛想な口調、殆ど動かない静かな印象から委縮していた粳部だったが、藍川にそんなことを言われてもどうにもならない。未だ少しも人となりが見えてこないグラスを粳部が警戒するのは当然のことだった。ただ、その目に少しだけ辛そうな色が見えたこと以外は粳部には何も分からない。
その時、グラスがジャケットの内ポケットに手を突っ込むと、サッと栄養バーを取り出して包装を破りかじり始める。困惑する粳部。
「んむ……一応、敵が司祭を雇おうとしていた形跡もある……司祭は多い方が良い」
「あんま期待するなよ?俺は怪我でスペックガタ落ちだ」
「司祭が居た場合は私が対処する。問題ない」
グラスはバーを食べ終えるとゴミをポケットにしまい、再び内ポケットからバーを取り出して袋を破る。まだ食べる気だった。
「何個持ってるんですかそれ……」
「あと四本持ってる。悪いがやらないぞ」
「要りませんよ……仕事前なんですから」
ふん、と納得したような声を食べながら出すグラス。彼女の表情からは我慢できなくて食べてしまったとか、好きだからという理由が一切見えてこない。無表情でつまらなそうにただただ食事を摂る姿が、粳部にはあまりにも謎だったのだ。
「司祭が食事をしているのは……んっ……確かに珍しいかもな」
「……えっ、この人司祭なんですか?」
「ああそうだよ。等級はΩ-、別格だな」
藍川に紹介される中、何も気にせずに食事を摂り続けるグラス。Ωとγの間には大きな隔たりがあり、殆どの司祭はγ+で行き詰る為にそこが最高の等級だとこだわる者も居る。しかし、γの壁を乗り越えてΩに到達した者達は格が違う。ギリギリΩにカウントされるΩ-だとしても一線を画す怪物であることに変わりはないのだ。
粳部は思い震えた。この正体の分からない女は染野やラジオよりも強いのだと。
「私は絶食の司祭グラス・ガルグリス。グラスと呼んでくれ」
その食い意地で絶食なのかと、粳部は思った。