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3-6

【10】


 雨の降る夕方、少し濡れた肩で粳部うるべに並ぶ藍川。遠くの空は既にオレンジ色から藍色に変わり始め、夕方から夜へと時間が変わることを教えてくれていた。駅にはまだ電車が来ておらず、利用者の少ないホームに粳部と藍川の二人きり。

 少し落ち着かない様子の粳部。

「……お姉ちゃん、どこ行ったんすかね」

「どうせ生きてはいる。でも、場所までは知らないさ」

 気休めを言って励ます藍川。数年前に行方不明になった粳部来春うるべこはるが生きている可能性は、常識的に考えれば低い。粳部は藍川の声色から何となくそれを察する。

彼女にとっての姉は一般家庭の姉の存在と大きくかけ離れている。あまりにも大きくてあまりにも途方のない存在。そこにあるのは愛のようで恐れであるような、素直に認められない何かがある。

「……蓮向はすむかいのデータベースで調べたら、出てきますかね」

「出ては来る。だがやめとけ、分からない以上の答えはない」

「ははっ……本当に消えたんすねあの人」

 粳部にその実感はなかった。行方不明程度では彼女の中から姉の存在は消えない。今なお彼女の背後には姉の気配がある。邪なことを考える度に脳裏にちらつく、決して逃れられない姉の影。

「……本音を言うと、苦手だったんですよね。お姉ちゃん」

「苦手……まあ、お前はいつも嫌そうにしてたか」

「でも……こんな風に居なくなって欲しくは……なかった」

 粳部は諦めなければならなかった、正面から負ける必要があった。自身のくだらない、小さな恋心にケリを付ける為に姉に負けなければならなかったというのに、来る筈のない奇跡を待っている間に姉は消えた。行方不明になったのだ。

 今、藍川の恋人は居ない。故に理論上ではチャンスがある。恋人だった姉が居なくなった今でならその立ち位置に、彼の隣に立てるかもしれない。しかし、それはどうせ叶わない朧げな夢だ。

「……何か、来春に言いたいことでもあったのか?」

「言いたいこと……多分、あの人にじゃないと思います」

「じゃあ誰にだ?」

 その時、ホームにチャイムが鳴り響くと遠くから電車の灯りが輝く。これから来る電車に粳部が乗り、藍川は彼の後ろ側のホームに来る電車に乗る。二人はここで別れるわけだ。

 藍川を一目見て、そこから空を見上げる粳部。

「……本当、誰にでしょうね」

 言いたいことも言えない。その相手が藍川なのだから彼女は何も言うことができない。もし藍川が権能を使っていたら一巻の終わりだったが、いっそのことそうした方が良かったのかもしれない。一生本心を言うことのできない臆病者なのだから、こうしてバレた方が結果的には良かった可能性もある。

 電車がホームに入ると減速し、けたたましい音を立てて止まると扉を開いた。

「またガラ空きだな。客は居ないのか」

「利用者減ってるそうですからね」

電車の中に入る粳部と外のホームの藍川。二人の間にあるのはホームの溝、まるで彼らが交わることは決してないかのような境界線。絶対的で、理不尽な溝がそこにはあった。

 粳部はただ彼の言葉を待つ。間もなく発車だ。

「じゃあ、組織に関する講習はまた明日だ」

「やること多くてきついっすねーまあ、疲れない体ですけど」

「……休暇でも取るか?」

「何が何でもやりますよ!」

 そうしなければ昇格できず、仕事でも足を引っ張ってしまうかもしれない。止まれない粳部がしなければならないことはあまりにも多かった。

 発車のベルが鳴り、間もなく扉が閉まってしまう。ホームの藍川と出発を待つ粳部。この二人が交わるのは一体いつになるのか。終わりが近付く。

「……じゃあな」

 そう言って藍川が手を上げたのと同時に、扉は無慈悲に閉まる。電車は二人の間を引き裂き、少しの会話も許そうとしない。車両が少し揺れるとゆっくり発車し、走る車窓の奥の藍川は粳部の視界の端へと消えていった。

 誰も居ない車内で粳部は一人呟く。

「……お姉ちゃんの代わりには、なれそうにないな」




【11】


「あれはどういう存在だ?」

「粳部音夏、あれは一体どうなっている。完全に我々の想定外だ」

 蓮向かいの本部、どこかにあると言われている上層部の居場所。Ω+の等級を与えられた者の中でさえ数人しか知らないとされる重要な地点。その空間が本当に基地内に実在しているのかは誰にも分からないが、そこに居る上層部の六人が実在することは確かだった。

 波打ち際のビーチに六人の幹部が佇んでいる。

「ソ連の生物兵器という線は外れかね?」

「全ての計器、検査で数値を測定できなかった。あれは異常だよ」

「存在自体を確認できないというのはな……実在するのか?」

 報告書を閲覧する一人の幹部。粳部についての報告書には全ての詳細が不明とされ、分かる情報は何一つとしてない。海坊主という謎の存在が現れる以前のことは分かっている。しかし、それは普通のバイトという何の変哲もない情報でしかない。

「確かに生きている筈だが、確認できないというのはな」

「……姉との関連はあるのか?」

「それも確認できていない」

「藍川は理論上最強だ。もしもの時は彼に始末させる」

 心を操作するという権能は理論上最強の権能だ。例えどんな相手だろうと、心を操作して自滅させれば彼には敵わない。しかし、結局のところそれは机上の空論でしかない。彼の心を考慮しない上層部は彼を最強の司祭だと思っているが、そうではないのだ。

 彼は誰かを殺せるような精神を持ち合わせていない。

「それで、話を元に戻そう。あの地区の概怪は……およそ何体だ?」

「確認された数ではおよそ四千二十一とされているが、まだ隠してるな」

「二倍は秘蔵しているとして、数としてはほぼ十分か」

 呪われた地区、地獄に霧で蓋をしたあの場所は禁足地だ。概怪の出現数が過去最高を記録しているあの地に粳部音夏は現れた。それがどういうことを示すのかは誰にも分からないが、敵が概怪を何の目的で使うのかを幹部達は理解している。

 柔らかな波が幹部の足下で揺れる。

「もう用意は進んでいるわけか。流石にマズいな」

「位置だ。奴の位置を特定することさえできれば問題は解決する」

「藍川と谷口はまだ特定できないのか。ラジオもだ」

「……彼らに情報を開示するか?」

 上層部は情報を握っている。藍川も粳部が知らないことを知っているが、上層部の持つ情報はほぼ答えに近い。ある一つのことを知らないことを除いて、上層部は万能に近い存在である。

「いや、それはしない。私は彼らを百パーセントは信頼していない」

「手厳しいな。同じ、世界平和を願う組織の一員だというのに」

「……計画は必ず阻止する。しかし、彼らは認めない」

 上層部はどこまでも合理的だ。その選択に感情が入らない為に誤解されがちだが、彼らは平和を愛し世界を維持する為に戦っている。中には人であることを捨てている者も居るが、それでも世界を救いたいと思っているのだ。

「特に粳部音夏というイレギュラーが最悪だ。関わるべきではない」

「しかし、戦力としては申し分ないのでは?」

「あれは何を起こすか分からない爆弾だ。飼うことにしたのは管理したいからさ」

「末恐ろしいよ、本当に」

 一人、また一人と幹部が去っていく。幹部は何もない所に消えるとビーチは静かになり、最後には二人だけが残っていた。考えが対立する二人が。

「……藍川と粳部に肩入れしているのか?お前は」

「皆の意向には従うよ。でも、個人的には彼らの味方かな」

「我々に人間らしい判断は必要ない。そうは思わないのか?」

 トップが合理的な判断を取れないというのは致命的な問題だ。今はまだ皆の意向に従うことにしているが、状況が変わった時にそれは重大な懸念になってしまう。

 しかし、その考えが間違えかどうかはまだ決まっていない。

「我らとて人間さ。それに、誰より人間らしい彼らがどうなるか。見ものだろう?」

「……悪趣味だよ、本当に」


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