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3-5

【8】


「しかしあっつい……」

 もう十六時を回ったというのに日差しは強く、粳部うるべの喉は彼女自身に渇きを訴えていた。水を飲まなくても死にはしないが体温は高く、猛暑の中での訓練なこともあって粳部の精神は疲弊していたのだ。ちなみに、ラジオは急な仕事で基地へと戻っていった。

 藍川との組み手を終え、日陰のある社へと向かおうとしていた時だった。

「|粳部」

「何で……うわあ!?」

 粳部が振り向いた瞬間に拳が近付き、瞬時に躱す。司祭の人外染みた速度の不意打ちをよく避けられたと自分を褒めてやりたい粳部。そして、彼女に向けて拳を構える藍川。

「何で急に殴ってくるんすか!」

「躱してるんだから別にいいだろ」

「いいわけないでしょ!」

 粳部は鋭い突きを何とか躱し、彼から徐々に距離を取る。だが、目の前から藍川が消えたかと思うと背後に強い風が吹いた。粳部は直視していないが、確かに藍川は後ろに回っていたのだ。彼女は理解できなかった、重傷を負ってまだ怪我が治っていないというのにそんな速度が出せることを。

 粳部が振り向くがもう遅い。

「やばっ……」

 回し蹴りが粳部の脇腹に命中するその刹那だった。

「海坊主!」

 縋るようにあの黒い怪物を呼び出す粳部。残り一秒もないギリギリに現出したその怪物は、彼女の身代わりとなって藍川の蹴りを受け止めた。それを見た藍川はバックステップで距離を取ると海坊主を見据え、すぐに構えを解く。

「よし、問題はないな」

「……私を試したんですか?」

 性格の悪い抜き打ちテスト。今回は避けたり海坊主が受け止めたりできた為に問題なかった。だが、もしそれができなかった時は寸止めにしてくれたのだろうかと、粳部は不安に思う。

「前回は不意打ちを受けて引きずり込まれた。本来、すぐに対処できないとマズい」

「それはそうですけど……事前に言ってくださいよ!」

「事前に言ったら不意打ちにならないだろ」

 だとしても、何も言わずに突然殴りかかってくるのは恐ろしい。組み手が終わって気を抜いたタイミングでは殆どの人が避けられないだろう。せめて一言は言って欲しい粳部だったが、言ってしまえば不意打ちにはならないのは本当にそうだ。これがジレンマかと思う粳部。

 そして、藍川の速度はラジオよりずっと早かった。

「思考も反射もどちらも必要な力だ。お前ならもっと上手く扱える」

「はあ……今日のところはこれくらいにしてください」

「……まあ、半日近くやってるからな。今日はここまでだ」

「……」

「安心しろ、もうやらないよ不意打ちは……」

 何度も振り返って警戒する粳部は安心し、日陰に入ると社の階段に腰を降ろす。これでようやく落ち着いて休めるわけだ。不死身でも少しは休みが欲しい、特にこんな夏の日では。賽銭箱の上に置かれた罰当たりなペットボトルを掴む藍川。少し考えた後にそれを粳部に向ける。

「ぬるいが飲むか?」

「不死身でも喉は渇きますから」

 何と不便な体か。

 投げられたペットボトルを片手でキャッチした粳部。それを掴んだ瞬間、気付かされるあり得ないな温度。粳部は嫌な予感をそのまま放置し、何かの間違いだと言い聞かせてそれに口を付けた。その瞬間彼女は完全に理解する、これはぬるいと言うより温かい。

「あっつ!味噌汁作ってシャワー行った後こんな温度ですよ!」

「どういう例えなんだそれ」

「やってられないってことです」

 生い茂る木々で光量は抑えられてはいるものの、夏本番の耐え難い熱気はどうにもならない。司祭からすれば暑さなんて何も関係がない話だが、不死身であること以外は何も変わらない生身の体には苦痛でしかないのだ。だが、この林で一番涼しい場所はこの神社の日陰くらいなものだろう。

 藍川が神社の縁側に腰掛ける。

「あの法術色々ズルいっす……私もあれ使いたいなー」

「何年も修行するか?それもいいぞ、怪我しないしな」

「それがなければやるんですけどね……そんな悠長に待てませんよ」

「ラジオも二年、天才の谷口は三か月。頑張ればできるぞ」

 だが、それは彼らが上澄みだからできたことだ。ラジオは飲み込みが早い為に二年と言う短期間で、天才の谷口は史上最速である三か月で習得している。しかし、殆どの人間は何年も掛けなければ習得できない。そもそも法術は粳部の力を伸ばせはするだろうが、時間が掛かる上に彼女の最終目的とそこまで関係がない。粳部はただ、元の体に戻れればそれで良いのだ。

 涼しげな風が通り抜ける。

「……概怪の移動は、四年前から活発になってきている」

「概怪の心を読めば分かるんじゃないんですか?」

「まあ、本当はある程度分かってるんだ。肝心なことが分からないだけでな」

「……分かってるんですか!?」

 それは粳部にとって衝撃的な回答だった。藍川が何かを知っていることは粳部も何となく感じ取っていたが、まさか今追っている事件についての答えを知っているとは夢にも思っていなかった。答えを知っているのなら既に解決の為に動いていそうなものだと思う粳部。しかし、彼にそんな気配はない。

「だが、お前の等級では話せない。残念だがこれは規則だ」

「……解決できないんですか?」

「分かってもどうしようもないってことだよ。まあ、昇進したら教えてやるさ」

「また気の長い話になりそうっすね……」

 ため息を吐きながら頭を抱える藍川。何事にも原因というものがある。突然概怪が異常な行動を取り始めたということは異常な原因があることの証拠。原因のない変化など、絶対にあり得ない。自分の知らない所で起こっていることを想像する粳部だが、あまりにも壮大でできなかった。

 微かに蝉の鳴き声が聞こえる。

「概怪の存在を国々が認めて、もう百十年。それまで一度もこんな出来事はなかった」

「前例がない……私も、前例がないか」

「この地域は概怪に関する事件や目撃情報が歴代で最も多い。まだ八月なのに」

 活発化していく概怪の行動、事件数の記録を更新した年におかしくなった粳部の体。明らかにおかしいこの二つの事態に、繋がりの糸はあるようでない。可能性として何かあるかもしれないが、何もない可能性も同じくらいにある。

「黒幕は何処に居るんだか」

 ふと、その言葉で昔を思い出す粳部。

「……高校の頃も、こんな風に謎を追ってましたよね」

「そうだったな。例えば、別館が封鎖されてる謎を探ってたりとか」

「幽霊が出たからかそれとも別か、でしたよね?」

 懐かしい話だと過去を想う藍川。同好会の活動と称して暇潰しの調査をしていたあの頃。立ち入り禁止の別館に足を踏み入れ、可能性の中から答えを選別していたことを藍川は憶えている。遊び半分で、気軽で軽率で、ただ愉快に楽しくやっていたあの頃。高校生なんて皆そんなものだ。

「自殺した生徒とかは関係なく、幽霊はただの見間違いだった……」

「でも、立ち入り禁止の理由が老朽化でないことは確かだったな」

「わざわざ立ち入って確かめましたからね」

 やんちゃしていた三人の生徒は教師程度では止められない。鎖を飛び越え柵を乗り越え、好奇心の赴くままにどこまでも進んで行った。どんなに調べようと碌に答えの出ないことばかりだったが、それでも粳部にとっては楽しかったのだ。

 少し微笑む粳部。

「別館を出たら雨が降って、丁度そこにお姉ちゃんが傘持って通りがかって……」

 途端に、藍川の顔から笑みが消える。かつての思い出に触れたことが、粳部の頭から現状のことを失念させてしまっていたのだ。彼女の姉、粳部来春はもうどこにも居ない。粳部が自分の無神経さに腹を立てようとしたその前に、冷たい表情をした藍川に対して鳥肌が立っていた。

 その目は、虚空を見つめている。

「……そう、だったな」

「……」

来春こはるはそこに居たよ」

 空は暗雲に覆われ、光は閉ざされた。暑さを押し流すような風が吹いている。今にも涙が降りそうなものだが、誰も泣こうとはしない。

 二人とも泣けないのだ。




【9】


 曇天の下、高校の別館を散策する藍川と粳部。小走りで制服のスカートを揺らしながら、好奇心に突き動かされた粳部が廊下を駆けて行く。この高校の別館は使用禁止にされており、生徒が立ち入ることができないように重く古い南京錠で扉は封じられていた。しかし、器用な粳部が針金を使って南京錠を解いた為にこうして二人は中に入ることができている。

 古い放置された教室を散策する粳部。

「先輩、事件の匂いはしますかー?」

「してたまるか。埃っぽいのは勘弁して欲しいな」

「あんま面白いものないっすねー」

 学校に伝わる噂を調査する為に別館に侵入した二人。人が減り空が少しだけ赤みがかかってきた放課後、自殺した生徒の幽霊が出るなんていうありがちな噂を彼らは調べていた。教室から教室へと移る粳部。

「どこで死んだんすかね、その自殺したって生徒」

「俺も知らないが……そんなもん見つけてどうするんだ?」

「こういう記録は大事っすよ。それに、幽霊も見られるかも」

「絶対そっちが目的だな」

 幽霊が見たい、オカルト好きの粳部からすればこんな面白いエンターテイメントは中々ない。自分の学校の立ち入り禁止になっている別館に幽霊が出るという噂。南京錠程度で粳部の好奇心を止めることはできない。こうして、彼女は内部に侵入している。

 二人が教室の前方へと進むとあることに気が付く。

「あれ、これだけ教卓が綺麗ですね?」

「古い記事を漁ったが、自殺した奴は確か教室で自分の腹を切ったそうだな」

「相当な恨みっすよね……もしかして、ここで死んだんじゃないっすか?」

「ここで……あり得るか」

 精神的に追い詰められた生徒はここで自分の腹を刃物で切って自殺した。切腹という死ぬまでがあまりにも長過ぎる死に方を選んだ生徒の恨みは相当なものだっただろう。確かに幽霊になってもおかしくはないと考える藍川だったが、蓮向かいに所属している彼は幽霊が存在しないと知っていた。だが、粳部の為に黙っていた。

 塗り替えられたような床に気が付く藍川。

「……その生徒は夏休みに死んで、発見が遅れて腐敗してたんだったな」

「割腹自殺ですよね。そんなことする人も居るんすねえ……」

「割腹自殺は今でも毎年数人出るぞ」

「嘘でしょ……今何時代ですか」

 動機までは語らないが、毎年そういう人間はちょくちょくと出るのでそれは気にすることではない。藍川にとって問題なのはその自殺した生徒が夏の暑さで腐敗し、教卓や床の張替えを強いられたのではないかということ。関係者が学校にもう居ない以上、それについて調べるには少し手間がかかる。

 藍川の視線の先と彼を交互に見る粳部。

「腐って汚れたから張替えしたわけか。だが、それはまだここを使う気満々だったってことだ」

「自殺とここの使用禁止は関係ないと?幽霊は?」

「単なる老朽化が原因だろうよ。お前、幽霊見たか?」

「……霊感ないんすよね、私」

 そもそも幽霊はこの世に存在せず、概怪と司祭しか超常的な力を持つ者は居ない。そう言いたくなった藍川だったが言葉を飲み込み、きびすを返すと教室から廊下に出る。流石に立ち入り禁止の場所にこうも長居していれば、藍川も教員が来ないか心配になってくる。

 考え込む粳部に彼が声を掛ける。

「……粳部、そろそろ満足してくれないか」

「はいはーい。もう帰りますよー」

 藍川は粳部の声が聞こえたのを確認し出口へと向かう。許可なく侵入しているわけなので教師に見つかるとただではすまないのだが、粳部はそれを分かっているのか不安になる藍川。急いで駆けて来た粳部が藍川の隣に並んで歩き、別館から外に出る。

 扉を閉めてポケットから針金を取り出す粳部。

「今回も外れでしたね」

「今まで当たりがあったかよ」

「一度はあったじゃないっすか!」

「……あれは多分不審者だと思うんだがな」

 過去の話をしながら扉と、扉に掛かっていた古い南京錠を針金でロックする粳部。彼女の手に掛かれば錆びついた大昔の錠前など簡単に扱えるのだ。

 振り出した雨が二人の体に当たる。

「よし、ズラかるぞ」

「雨だ雨だー」

「おや、悪い生徒を見つけてしまったなあ」

 聞き覚えのある声に二人が思わず振り向くと、そこに居たのはやはり彼女だった。粳部来春、藍川の隣に居る粳部音夏の姉であり、彼の恋人でもある人物。手元に傘を持ち、二人をにやけながら眺めている。また変な事を想像していそうだと思う二人。

「逢い引きかい?修羅場でも始めるかい?」

「今度はお前も連れて行ってやるよ。お前が居れば幽霊も出てきてくれる」

「僕はロマンスの話がしたいんだがなあ……」

 余裕そうに語る来春。藍川はもしやこれは何かの歪曲表現なのだろうかと疑い始める。彼氏への遠回しな要求とか。だが、来春は素直な性格故にそれは考えられないと彼は考え直す。恋愛には詳しくない彼だったが、これでも精一杯頑張っていた。

 来春が傘を開くと、途端に雨足が強くなっていく。

「さあさあ、もう帰ろうじゃないか」

「うん……」

「おう」

 傾けられた傘の下に入る粳部を追ってその隣に立つ藍川。雨が殆ど体に当たっているが、彼は司祭故に濡れたところで風邪をひかない。

 その時、来春が粳部の耳元に囁く。

「音夏になら、鈴君を分けても良いんだぞ?」

「はあ!?」

 赤面して混乱する粳部に対し、また来春が適当なことを言って彼女を困らせていると思う藍川。こんなことは彼らの中ではよくあることだ。

「俺は物かよ」

「可愛い妹なんだ。三人でってのも悪くないだろう?」

 来春の自由さにいつも困惑させられる藍川だが、流石に慣れて適当にあしらっている。だが、長年付き合っているであろう粳部はいつもタジタジになっていた。嘘ばかり言う来春の相手などしなければいいのにと思う藍川。だがふと、その謎に包まれた家庭環境について一度も聞いたことがなかったことに彼は気が付く。

「粳部、家でもこんな感じなのか?こいつ」

「まあ、そうですけど……」

 呆れた顔をする藍川。

「僕の愛の半分は音夏に注いでる」

「もう半分は?」

「君さ」

 藍川は、よく分からない奴だと結論を出した。


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