3-1
【1】
ため息ですら空まで昇りそうな、そんな空の高い日。
この学校の校舎は冷房設備の多さ故に、同時に多くの冷房が稼働すると性能が低下する欠陥がある。その為に、冷房を使って良い教室と駄目な教室に別れていた。
だがしかし、藍川と
「鈴先輩、夏っていいっすよね」
「そりゃ冷房が効いてるから言えることだ」
まだこの集まりは同好会だというのに、電気代など気にせず冷房を使ってしまっている。温暖化云々が気がかりな粳部だったが、そんなことを気にしたところで暑さはどうにもならない。熱中症になるよりは地球がいくらか温まる方がいい。
故にこうなる。
「えー仕方がないですよ。それが前提です」
「……そういや、二年生は体育祭の練習があるんじゃないのか?」
「あんなもんサボってなんぼですよ」
「悪い生徒だな」
まあ、全ては自分の責任だと思う粳部。これから自分がどうなるのか分かっている以上、藍川が口うるさくなることはない。この部室は平和だ。放課後、冷房を効かせて同好会の活動と称した趣味に没頭する藍川と粳部。彼らにとって、この瞬間は永遠だった。
「基本的に世間常識は正しい。疑う必要もない程に」
「誰の言葉っすか?」
「俺の言葉だ。
暫く粳部が考えた後、読んでいた雑誌を彼へと向ける。
「それより見てくださいよこれ」
「何だ?……街灯の怪物?」
「点滅する街灯の下に居て、照らすと消えるそうですよ」
「お前こういう雑誌好きだよな」
一般人からすれば信憑性も何もないホラー雑誌。居ないか居るかは五分五分だが、面白そうなので四分六であって欲しいと粳部は無邪気に願う。同好会を結成して都市伝説やら心霊やらを追っている彼らだが、それらしいものには殆ど辿り着けていない。一般人が調べた程度で分かることは大したことではないのだから、それも当然だ。
ふと粳部は目撃現場が隣の区と近いことに気が付く。
「俺としては、未解決事件の方が嬉しいがな」
「えー……何でです?」
「そりゃ、『正体』が分かっているからだ」
「正体って?」
「相手が人間だと、安心できるじゃないか」
安心、そんな言葉に違和感を覚えさせるのが彼という人間だと、粳部は常々思っていた。怖いものなんてなさそうで、常に穏やかさと愉快さが共存しているのが粳部から見た藍川。あれは、そんな人のセリフではない。彼は時々そういう面を見せるのだ。まるで戦い慣れているような、荒んだ瞳をちらりと見せる。
その意味を粳部はまだ知らない。
「相手が何でも、殺せば安心できるぞ」
その時、粳部の耳元に誰かが囁く。唐突なことと耳がこそばゆかったことから驚き、粳部は背後に振り返る。
「あっ、お姉ちゃん」
「何だ
「僕は二人が居る時は極力行くつもりだ」
「週に一回がせいぜいだろ」
「同好会の活動日は週に三回だろう?なら良い方だ」
言い訳をしながらコツコツと歩く粳部来春。彼女が扉を開けていたことで流れてきた温風が粳部の気分を害してきた。彼女は夏はあまり好きではない。暑い夏は。
来春の手が粳部の首筋に触れる。撫でるような艶めかしい手つきで、粳部に触れる。
「なあ音夏、姉に見えない所でその彼氏と何を話していたんだ?」
「ねーやめてよ、色恋関係の話嫌い」
自分の姉が、誰かと付き合っている話なんて粳部は聞きたくなかった。恋愛とは程遠い人生を送る彼女にとってそんなものは眩し過ぎて目がくらむ。小っ恥ずかしいだけでなく、何だか心がスッキリしない気分になるのだ。
いや、相手が藍川だからなのだろうかとふと粳部の脳裏に浮かぶ。本当はこの場に一人取り残されることが、怖いのだ。
「おや、街灯の怪物か。僕の予想は外れだな」
「えっ?何で分かったの?」
「……机の上に雑誌があったからだろ」
確かにそれはそうだ。
【2】
「……鈴先輩、夏っていつ終わるんすかね」
「駄々こねるなよ。誰の目にも触れない、壊しても問題ない場所はここだけだ」
「涼しくない夏は嫌いです」
「司祭には分からないですね、夏の暑さとか」
現在地は隣の地区の端っこ。自然公園のフェンスの向こう側にある、誰も訪れることのない木々に囲まれて廃れた神社。藍川に訓練をすると言われ、ここまで着いて来た粳部だったが、その付き添いで来たある人物に粳部は慣れていなかった。
ブロンドの髪がたなびく。この場所は風の音以外は静かだ。
「……ホントにこの人がラジオなんですよね」
「こんな美人でスタイル良くて声もいいんだから、私に決まってるじゃないですか」
「それは全然証明になりませんよね……というか自分で美人って言うんですか」
今では珍しい金髪碧眼で、その上美女と来た。いつでもどこでも音が出る機械であれば自身の制御下に置けるラジオは、その気になればありとあらゆるプライバシーを把握することができる。そんな恐ろしい力を持った底知れない相手が、そんな綺麗な容姿をしているなんて、粳部は考えもしなかった。
目の保養にはなるがそんなことよりも、粳部にとっては藍川との関係等の方が気になっていた。ラジオは粳部よりも圧倒的に、距離を詰めるのが上手い。
「自分に自信があるのはいいことですよ。ほら粳部さんも自信持って!」
「ああ……苦手なタイプかも」
「引きこもりのお前が顔を出すだなんて珍しいこともあるな、ラジオ」
「流石に、私のチームの新メンバーなんだから顔合わせくらいはしないとね」
その馴れ馴れしさにモヤモヤしそうになった粳部だったが、私のチームという単語が引っかかる。
「私のチーム?」
「ああ、まだ教えてませんでしたね。入隊おめでとう、このチームのリーダーは私です」
「メンバーは俺と谷口と粳部、トップにこいつってわけだ」
「そ、そんなに凄い人なんですか……」
「まあ、等級はγなので粳部さん以外には勝ち目ないですけどね……」
γというと、この間に粳部が会ったγ+の染野の一つ下にということなる。相手の肉を噛み千切る権能と音が出る機械を操る権能では、どちらも方向性は違うものの凶悪であることには変わりない。染野の権能は戦闘で無類の強さを誇り、ラジオの権能は諜報分野で最高の情報収集能力を持つ。蓮向かいの評価方式を理解していない粳部にとって、どちらも恐ろしい司祭でしかなかった。
「怪物ばかりが集まってて肩身が狭いですよ」
「俺と谷口はカタログスペックで判断されてるだけで、そんなに強くはない」
「でも私勝ち目ないんだけどなあ」
「……ところで、谷口さんの下の名前って何なんすか?」
ずっと気になっていたことを口にする粳部。彼は谷口とだけ呼ばれ下の名前が分からず、おまけに仮面を付けていて情報が何も分からない。権能も弱点も不明、祭具がホイッスルであるという情報以外は詳細不明。粳部は、同じチームなのだからそれくらいは知っておきたいと思っていた。
「その時々で変えてるぞ、偽名だからな」
「えっ、谷口って本名じゃないんですか!?」
「私みたいに適当に名前を付けてる人が多いですよ。便利ですし」
「調べたければ昇進するんだな。等級が上がれば調べられることも増える」
蓮向かいはそういうシステムだ。組織内での信頼と実績を積み上げ等級を上げていき、その等級に応じて情報が開示され組織内で重要な立場になっていく。まだ等級がαの粳部では個人情報などを閲覧することはできないものの、γやΩとなっていくと国の情報までもが閲覧可能になっていくのだ。あらゆる国民の個人情報や企業や国家機密を収集するのも蓮向かいの仕事。彼らが知らないものは人の心の中だけ。
不意にあることが粳部の脳裏にチラつく。
「……鈴先輩は本名ですよね?」
「……さあな、俺も正直曖昧だよ」
少し自信なさげな目をする藍川。それは単にはぐらかしているというわけではなく、自分でもそれが本名なのかが分からなくなっているという感じだった。まだ等級がαの粳部には誰の個人情報も閲覧する権利がない。高校時代からの先輩で今は共に戦う関係だが、彼が本当に藍川鈴なのかを粳部は知らないのだ。
ラジオが咳払いをしてしんみりとした空気を切り替える。
「さて、本日は訓練の予定でしたがその前に、粳部さんに情報を開示したいと思います」
「情報の開示って……何の情報です?」
「あなたの現在の状態についてですよ。あなたの等級で開示できる範囲で教えます」
「この体とあの怪物について分かったんですか!?」
例え体がミンチになろうと完全に再生する体、自由に形が変わり命令に従ったり逆らったりする怪物。使役している粳部でさえその正体と理屈が分からないが、組織が保有する情報である程度の推測ができる。誰にも答えが分からない怪物と体の謎に、ようやく粳部は近付き始めた。
ラジオが手招きし社に近付いていく。
「これから一度基地まで行きますよ。付いて来てくださいね」
「……じゃあ最初から基地に行けば良かったんじゃないのか?」
「そうですよね。訓練後回しなら先に来なくても良かったんじゃ」
「……細かいことは気にしちゃダメよ?」
「この人大丈夫かな……」
ふざけるラジオが社の障子を開けて土足で中に踏み入れる。少し罰当たりのような気がする粳部だったが、廃墟なのだから仕方がないと考えてその後を付いて行く。並んで歩く藍川の表情はまるで何も気にしていないようだった。不意に粳部の脳内に、藍川が言った司祭は神に祈らないという言葉が過ぎる。そう、司祭は神仏を恐れない。
ラジオが床下収納の扉を開ける。そこには、どこまで続いているのかが分からない暗い穴が広がっていた。
「ここに直通の出入り口を作ったので行きますよー!」
「……これいっつも思うけどどうなってるんですか!」
「法術で空間と空間を繋げてるらしいな。基地に居る腕利きの仕事だよ」
「先に行きますねー」
そう言うとラジオは穴に飛び込み、やがて落ちていくその姿は小さくなって遠くに消えていく。無限に広がっていそうな空間に音は反響し続け、ラジオが向こうに到着したかどうかは藍川と粳部には分からなかった。
「これ……足壊れませんよね?」
「お前再生するから別にいいだろ」
「人間扱いしてください!痛いことは痛いんです!」
「頭から行けば痛くないかもな」
「そりゃ脳破壊されてますからね!」
不意に、粳部は藍川に背中を押されて穴に落ちる。藍川は床下収納の扉を閉めながら穴に飛び込み、悲鳴を上げながら落ちていく粳部の後を追う。この距離を落ち続けるのかと粳部が絶望したその時、突然彼女の足下に地面が現れる。
「あれっ!?もう地面!?」
「言い忘れてたな。長いように見えるが一瞬で着く」
「先に言ってください!」