目次
ブックマーク
応援する
6
コメント
シェア
通報
2-8

【10】


 寂しげな通路。蛍光灯の灯りは薄暗く、とても信頼に足るものではない。一寸先は闇というほどではないが、進むことに不安を覚えてしまうのは確かだ。概怪の音と気配はどこにもなく、二人は敵の位置を全く探知できずに居る。

 粳部うるべは己の手を握った。

「さっきので手がヌメヌメしてる……」

「そりゃあんなの触ったら」

 絡み付く黒い液体。スライム程の粘度はないが未だに藍川の手に残っている。概怪の口に手を突っ込んだ時に付いた謎の液体。

 二人が別れ道を右に曲がったその時、粳部は藍川の指先に嵌められた光る物の存在に気が付く。銀色に光る誓いの輪。

「指輪……してましたっけ」

「ああ、これは俺の祭具だよ」

「おしゃれなデザインですね。運命はいい仕事しましたよ」

「祭具を出さなければ権能は行使できない。指輪の形でも我慢だな」

 藍川からすればそのデザインに納得がいっていないらしい。薬指に嵌められたシンプルな装飾の銀色の指輪。美しい意味を持ったその指輪が彼の手に宿った瞬間、人の尊厳を踏みにじる権能が発動する。誓いの指輪に似合わない汚れたおぞましい力で、人を操り人形に変える。

「……谷口さんも司祭みたいですけど、どんな祭具なんですか?」

「アイツはホイッスルだったかな。権能は心が読めるから分かっちまったが……まあ言わないでおいてやる」

 祭具の形状は人によって様々だ。染野の祭具は白い手袋、藍川は指輪、谷口はホイッスル。人によっては刀や斧といった武器の形をした祭具もあるが、武器でも何でもない形をした祭具も人によってはある。権能、弱点によって司祭の強さは殆ど決まるものの、こういう祭具の形状によって多少は左右されるのだ。

 だが、結局は殴り合いが一番強い。

「等級がΩらしいですけど、相当強い権能なんじゃないですか?」

「俺達のとっておきの切り札だよ」

 二人は左へ曲がる。足音は二人分から増えることも減ることもなく、異常な空間だけが延々と続いている。だが、概怪のお膝元だというのに概怪の気配も音も一切しないのだ。この空間の支配者は二人が来るのを今か今かと待っている。箱庭を覗き込むかのように。

「にしても、心に触れる権能っすか……」

「お前には効かないから、ここで裏切られたら俺は死ぬな」

「……え?」

 当たり前の話だ。自分よりも心が弱い相手に藍川の権能は殆ど効かない。ジャイアントキリングが基本となっているのが藍川だ。それに、彼に粳部を傷付けることはできない。どんなことがあっても、何があっても。藍川は粳部には勝てないのだ。

 藍川が足を止め、それに伴い粳部も足を止める。何かに勘付いたような顔をする藍川。

「粳部、何メートル歩いた?」

「そんなの分からないくらい歩きましたよ」

「……俺達が入ったシャッターの向こうは、改札口に続く地下道だった筈だ」

「え?」

 約四百メートルほどの長さの地下道。数年前に藍川が利用した際はシャッターが降りておらず、当時は看板もあったことから何の問題もなく改札まで導いてくれていた。複数の出口への分岐で初めての利用では困惑したかもしれないが、慣れれば特におかしいところのない地下道だ。

 だというのにこれは。

「こんなに遠いわけがない!」

 瞬間、通路の奥から腕が飛び出す。藍川は弾こうとした腕を掴まれたが、力任せに振り払いその手で叩き折った。粳部の方にも腕は向かうが、現れた黒い怪物がそれを掴んでへし折る。

「逃がすか!」

 藍川は権能を発動し、その動きを止めにかかる。だがしかし、心に触れた瞬間にそれは逃げ出した。彼の権能は通用しなかった。

 概怪が腕を引っ込めて暗がりに消える。音はどこまでも続く通路に反響し、次第にそれは消えていく。先程までと同じように辺りは静まり返ると、そこには音も気配も残っていなかった。

「追わないんですか!?」

「……相手の心がかなり弱い。俺の権能が効きにくい」

「さっきは効いたのに?」

「さっきは二つの概怪が混じっていた。分かれた今じゃ通用しない」

 敵を確かに追い込んでいたというのに、肝心な時に権能が通用しない。あれ以上の好機がここ以外のどこにあると言うのだ。神様にコントロールされているのかと思うほど、異様に運が悪い。藍川が権能を使うことができない相手、それは自分よりも心が弱い相手。

 だが、泣き言を言っている場合ではない。

「しかし、一度だけ心に触れられた。これだけでもめっけもんだよ」

「何か分かったんですか」

「ああ、この地下道は迷路と化している」

 それは駅の構造上の欠陥というわけではない。ただ単に、あの腕の概怪が迷路にしてしまっているだけだ。ここに入らない限り、普通は誰も死にはしないだろう。通りがかるだけで襲ったりはしないのだ。今回の問題は、ボタンを捕食する概怪を取り込んでしまったことに原因がある。惨劇はそこから始まった。

「四百メートル以上歩いているが、本来であれば既に着いている筈だ」

「迷路ですし、何か正解のルートがあるんじゃないですか?」

「そうは言ってもな……出口がランダムにシャッフルされるそうだ」

 彼らは行き詰まっている。今まで歩いてきた道にヒントはなく、これから歩く道も全てはランダムだ。この地下道が無限に続くような感覚に囚われる藍川だが、負傷している以上それはきっと永遠ではない。その血が尽きる時が彼の最後だ。

「……右の道に戻るか」

「分からない以上、試すしかないですからね」

 二人は来た道を引き返し、先ほど曲がらなかった右への道を選ぶ。変わらない光景は気怠げなまま、いつまでも暗いまま。変わらない通路のデザインに気が滅入り始める粳部。

 硬質な足音だけが響く、概怪がこちらに来てくれることを願っているというのに。

「……これじゃ、正解かどうか」

 奥に進むとそこは再び別れ道。あと何回これを繰り返せば、終点に辿り着けるのだろうかと不安に思う藍川。迷宮の出口を見つけ、そこで概怪と決着を着けなければない。

 その時、藍川の傷口から血が噴き出て足が止まる。治りかけだった古い傷口が裂けてしまったのか、これでまた傷が一からぶり返してしまった。粳部を心配して治りかけの体で無理をした結果、遂に藍川の体の限界が近付いてきた。

「鈴先輩!」

「まだ死にしはない。大丈夫だ、大丈夫な筈なんだ」

 再び藍川は足を踏み出す。痩せ我慢と書かれた自分の背中を見つめる粳部は、何を考えているのだろうかと藍川はただ考える。愚かさに怯えているのだろうか、ここに来たことを後悔するのだろうか。だが、権能なしでは粳部の心は分からない。特に粳部の心は。

 今度も右の道を進む二人。

「……無茶ですよ」

「ッ!来るぞ!」

 不意に暗闇から腕が飛び出し、藍川の首をめがけて愚直に進む。痛みと出血で感覚が鈍っている藍川だが根性でそれを弾き、その腕を掴んだ。だが、彼にやり返すように二本の腕が飛んできていた。

「ええい!」

 しかし、背後から飛び出した粳部と怪物が腕を弾き、藍川の掴んだ腕を引っ張る。藍川は影の奥に居る概怪を引きずり出す為にその腕が千切れんばかりの力を込める。だが概怪もそれを察し、自分の腕を自ら切り落として再び暗闇に消えた。

 それを追って更に奥へ進む二人。

「これじゃイタチごっこですよ!」

「分かってる!だがランダムで道が決まるのはどうにもならん!」

「でも……ん?」

 その時、何かに気が付いたのか足を止める粳部。彼女の様子を察して藍川も足を止めた。

「そうだ……別に出口を探す必要はないんですよ」

「どういうことだ?出口を探さんことには……」

「概怪を釣り上げるんですよ!私を囮にして!」

「お前何言ってるんだ!?」

 粳部の言うことに思わず驚愕する藍川。彼女が不死身だということは彼も重々承知だった。しかし、彼女の不死身がいつまで持つのかは分からない。数秒後に不死身の効果が切れて、彼女が不意打ちで本当に死んでしまう可能性はあるのだ。それに、藍川は粳部に傷付いて欲しくなかったのだ。

「駄目に決まってる!俺が認めると思ったか!」

「いやいや、正確には私が囮になるんじゃなくて!私の怪物を囮にするんですよ!」

「怪物を囮に……できるのか?」

「私の怪物は腕が伸ばせますから、それで奥に伸ばして……釣り上げます!」

 極めて合理的な作戦だ。実質脱出できない迷宮に人を捕らえ、暗がりから遠距離攻撃を仕掛けて持久戦を強いる概怪。ならば、概怪を暗がりから釣りあげて接近戦に持ち込むというのは最適解に近い。概怪を倒してこの迷宮を終わらせる。謎解きゲームに付き合う義理など彼らにはないのだ。

「私の怪物は腕を伸ばせますから!どこまで伸ばせるかは分からないですけど、やってみます」

「……やっぱり、お前は適性があるよ」

「あんまり褒められても嬉しくないですね……これは」

「まあ、俺の命の恩人になるかもしれないんだ。喜べよ」

「えへへ……じゃあ、やりますね」

 そう言って集中する粳部。空間を引き裂くようにして黒い怪物が現れると、その腕を遠くの暗がりまで伸ばしていく。ずっと反乱気味で粳部の言う事を聞かなかったというのに、突然粳部にすんなりと従う黒い怪物。この不安定ささえなければ安心できるのにと思う藍川。

 その時、腕を伸ばし続けていた怪物の腕が止まり、突然震え始める。

「つ、釣れました!こっちに引っ張りますよ!」

「よくやった!仕留めるぞ!」

「はい!」

 黒い怪物が大きく腕を振り、伸ばした腕を縮めていくと暗がりから遂に概怪が顔を出す。無理やり引きずり出された概怪は抵抗できずに彼らへと向かい、藍川は黒い怪物の想像を絶するパワーに驚愕する。だが何もしない藍川ではなく、彼は大口を開ける概怪に持っていた概怪を投げつける。概怪はそれを飲み込んだ。

「何で食べさせちゃうんですか!?」

「これで俺の権能が使えるようになる。ここからが本番だぞ」

 準備は既に完了している。藍川の権能は自分よりも心が弱い相手には効果がない。最初に遭遇した概怪には通用したが、それは概怪のメンタルが藍川を上回っていた為に通用したのだ。概怪は二つに分かれ、藍川以下のメンタルになってしまった為に何もできなかったが、これで全ては元通り。

 藍川は構えを取り、自身の権能を発動する。

『停止』

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?