【9】
状況が理解できない
立ち直った藍川が弱々しく立ちあがろうとする。
「あれは二人組だな」
「二人組?」
「そこに居るだろ、もう一匹が」
藍川の視線の先、口が複数付いているそれは小さな腕で這っていた。生後数ヶ月の赤子のように気味悪くゆっくりと前に進んでいる。逃げるつもりか戦うつもりか、その意思は未だ分からない。しかし、その概怪にもう戦闘能力がないことは分かっている。
脚を完全に治すと立ち上がり、その概怪の前に立ち塞がる。
「これも……概怪ですよね?」
「ああ、さっき確かに……」
その時、藍川が地面に倒れそうになり慌ててその腕を掴む。出血の関係か何なのかやけにその姿は弱々しい。まあ、概念防御によって頑丈な司祭といえど、胸を刺され脇腹を裂かれればこうもなるだろう。無理もない。
藍川が息を整えて喋り始める。
「すまん、権能を使うとこうなる」
「それが司祭の弱点ってやつですか……で、さっきのが心を操る権能で」
「性格が悪い権能だろ?俺も嫌いだよ」
「心を操られてあんなに暴れて……人間相手には使いたくないですね」
手綱を引かれるように、その心臓を握られているかのように。それは何かに引っ張られていた。引き寄せられていた。最後には破って動き出していたが、あの凄まじい力の怪物を触れずに止めるのは常識的に考えておかしい。現実を凌駕してしまっている。ありきたりな固定観念を飛び越える、司祭の力。
「人の尊厳を踏みにじる、最悪の権能の一つだよ」
「……最悪かあ」
藍川が、誰も居ない暗い通路にそう呟いた。その声は長く長い通路に反響しながら消えていき、この先に奴が居ないことを教えてくれている。ここは酷く静かだ。
「司祭には、それぞれ権能が与えられている。行使できる当然の権利だ」
「昨日、染野くんが見せてくれた奴ですよね」
忘れられる筈がない、あの恐ろしい力を。触れずとも肉を切り裂く脅威の権能。自分の体に反動を受けてしまうという弱点のおかげでバランスが取れているのだが、それでも生身の敵と戦う点においての優位性は不動のものだ。音が出る機器を用いて盗み聞きや連絡を取れるラジオも、驚異的な権能の一つだろう。
「俺の権能は心に触れること。見て、それを操ること」
「……それって強過ぎません?」
「他人に干渉すると反動で心にダメージを受ける。これでバランスは取れる」
「バランス……取れてるんですね」
逃げようとした概怪を引き寄せ、追撃で更に追い込む。心を絡めて地獄に招く。人のデリケートな部分を覗き触れる藍川は、粳部の知っている藍川ではない。どう考えても藍川が嫌がりそうな権能だ。彼が望んで手に入れたわけではない、呪いのような嫌がらせのような力。その反動による心へのダメージはどれ程の痛みなのだろうか、粳部には分からない。
伏し目がちな目を逸らす藍川。
「俺より強い心の相手に強く、弱い心の相手には弱く作用する」
「陰湿だから……使わないんですか?」
「プールに無理矢理頭をツッコまれて、窒息するような感覚を味わうんだ。やりたいか?」
「それは……勘弁っす」
誰だって、こんな力は使いたくないだろう。体の傷ならば暫くすれば癒えていく。腕を失うような大きな怪我があるかもしれないが、一ヶ月もすれば痛み事態は引くだろう。だが、心はどうだろうか。どうしようもない、時間で癒えないその苦痛は時に唐突に再起する。癒えにくいその傷は何度でも痛む。
藍川には少し酷だ。
「……酷い力ですけど、命がかかっている以上は甘えたことは言ってられないっすね」
「お前に肯定されると……立つ瀬がない」
なら、藍川は否定して欲しかったのか。そんなことでいいのだろうかと考える粳部。
「さっき倒れたのって、もしかして反動のせいですか?」
「そんなところだな。弱点のない司祭は居ないんだ」
「ラジオの人は楽そうですけど……あれは何でですかね?」
「あいつの弱点は甘い物が苦手になることだ」
「先輩と比較すると楽過ぎる……!」
倒れる程に過酷な反動を受ける藍川とは比較にならない程に楽な弱点だ。甘い物が苦手になること以外は何も問題がなく、ノーリスクで権能を行使できるあのラジオ。司祭の強みを百パーセントで発揮している。情報収集や伝達の点で彼女ほど重要な司祭は居ないだろう。
首を鳴らす藍川。
「一応、理論上は洗脳染みたこともできるが反動で俺の精神が崩壊する」
「都合良くはいかないってことですか」
「一時的な他人の誘導が限界だ。まあ、それでいいと思ってるがな」
何でもそうだが無敵というものは存在しない。必ず、どこかに例外や弱点が存在している。とんでもなく優秀なラジオでさえ、作戦への支障はないものの甘い物が苦手だという弱点を持っている。どんな人間でも悪戦苦闘して這いずりながら、今日も彼らは生きている。地面に血反吐を吐きつつも。
藍川が地面を這う概怪の下へ向かう。
「さて、問題はこいつだ」
「中々キモいビジュアルですけど……興味深いですね」
「お前……案外学者向きかもな」
口の複数付いた気味の悪い腕、地面を弱々しく這うその姿は正に怪物だ。しかし、粳部にはそれが先に戦っていたあの大きな概怪の中に居たという事実が理解できない。何故、あれの体内に隠れていたのか。それともあれに食べられていたのか。概怪に関する知識の乏しい粳部には判断できない。
「さっき、こいつらの心に触れて分かった。逃げたデカブツがこの概怪を食べてたんだ」
「た、食べる?同族を食べるんですか?」
「カニバリズム、人でもよくある話だ」
「いやないない……」
それは旧世紀の話で今の時代は起きない。時たまそういう事件が起きてしまうが。藍川が概怪を指で突っつくとプルプルと震え、奇妙な鳴き声がか細く聞こえる。危険だと思うのだが何故藍川は少しも気にしないのだろうか。それも、心を読めるからなのだろうか。
藍川が口元を手で隠し険しい表情をする。
「だが、概怪は同族に攻撃しない。この現象は人為的だ」
「……人為的ってどういうことですか?」
「誰かが概怪に概怪を食わせたか。何らかの自然現象が起きたのか」
「何が何だか……どっちなんですかね」
理解できない生態に困惑していると、粳部はふと進み続ける概怪の進行方向に視線が行く。牛歩よりも遅い歩みでは殆ど動けておらず位置は変わっていない。概怪がゆっくりと這う先にあったのは散らばる複数のボタン。色も形も違うボタンだが、粳部はその中に一つだけ見知ったボタンがあることに気が付く。
粳部は腰を概怪に引き千切られた際、腰のポケットに付いていたボタンも一緒に取られていた。彼女がそれを拾い上げる。
「あっ、このボタン」
「なんだ?」
「私のやつですよ。腰を噛み千切られた時に食われたのかも」
「……お前、何で肉だけじゃなく服まで再生してるんだ?」
「それは私も分からないっす……」
どういうわけか、粳部の身につけているものであれば再生は可能だった。切り裂かれた衣服もどこからか繊維が生えてすぐに再生していく。昨日の実験ではコインを持ってそのコインだけを破壊する実験を行ったが、手に持ったコインは再生しなかった。恐らく衣服だけは再生可能なのだろう。よく分からないことだが。
「とにかく、まずはこれを捕まえて一旦外に出ましょうよ」
そう言って粳部が概怪を掴み取ろうと近寄った時、藍川がそれを手で制止する。まだ何かあるのだろうかと思う粳部。
「待て、確認することがある」
「確認?」
そう言うと藍川は概怪の口に手を突っ込み、何やらその中身を弄っている。粳部には意味が何も分からないのだがこれは彼の趣味か何かか。そんな筈はないと信じたい粳部。
「な、何してるんですか!?」
「……あったぞ」
拳を握ったまま、その手を口から引き抜く藍川。黒い墨汁のような液体を払い、開いた手からジャラジャラと金属を落とす。粳部はそのままでは何も分からなかったが、並べていくとすぐにそれが何か分かった。
「これって……」
「ボタンだな。この概怪はこれが狙いか」
床に転がっているのはシャツのボタン、財布のボタン、鞄のボタン。材質や形状、大きさ関係なく様々なボタンが奴の胃袋の中に入っていたことになる。何故かは分からないが。
「どういうことです?栄養もなければ意味もないのに」
「奴らの殺人は、栄養どころか意味もないぞ」
そうだ、アレは生き物を殺すだけの生き物だ。理解を超えた、常識外の化け物だ。夜道を歩いていただけで暗がりから攻撃してきたあり得ない怪物だ。
藍川がボタンを拾い上げる。
「消えた五人の内の三人は、最終目撃時の服装にはボタンが付いていた。原因になり得る」
「でも、ボタンだなんて……」
「それに、心を覗いて分かったからな。思い出してみると、調査した職員は私服でボタンのない服だった」
粳部が今まで見ていた世界は藍川の世界と全てが違う。常識が囲って、不変が守っていた日常。だが、綻びを許さなかった世界は終わりつつある。既に、音を立てて軋み始めている。
不意に藍川が携帯電話を取り出し誰かに電話する。圏外にならないのかと不思議に思う粳部。
「ラジオ、聞こえるか?」
『襲われたようですね。今話しかけようかと思ってました』
「えっ?聞こえてたんですか!?」
「シャッターの奥に引きずり込まれた。概怪は分裂して逃亡、一体は確保した」
『逃げられましたか……』
この不安定で特殊な空間でもラジオの権能は機能する。原理は不明だが、音が出る機械であれば無条件にジャックできるらしい。一体どういう仕組みなのだろうと不思議に思う粳部。
再び概怪の口に手を突っ込み、物体を取り出す藍川。床に転がるそれは、やはりボタンだ。
「ボタンを食べる概怪ともう一体が融合していたらしい」
『なるほど……融合、珍しい案件ですね』
「人為的か自然現象かは分からない。あと、対象の等級は
「あのラジオさん。谷口さんを呼べないですか?」
『それなんですがね……今、谷口さんを行かせたんですけど通路が消えてたんです』
「えっ!?じゃあもしかして……逃げ道ない感じ?」
『いえーす』
イエスではないと言いたくなる粳部。万全でない状況では当たりたくない相手と当たってしまった。自分が足を引っ張らないか心配な粳部にとって、この状況は藍川を人質に取られたようなもの。未熟な彼女は今以上の無茶を要求されている。
「いえーすじゃないんですよあなた……」
「取り敢えず、回収部隊を呼んでおいてくれ。すぐに片付ける」
「すぐにって!」
『了解、お願いしますよ』
そう言うと音声が途絶え、ラジオとの通信が終わる。地下道が静まり返り、辺りは寂しさで満たされた。
足下の概怪を小脇に抱えながら立ち上がる藍川。そろそろここから動くようだ。今度は彼らが概怪を追い込むターンがやってきた。
「……俺だけでも何とかできるぞ」
「そんなに頼り切りの女なら、自分の体を元に戻そうなんて考えませんって」
粳部にはまだ知らないことがある。恐怖に怯えることもあるかもしれない。だが、彼女は逃げようとは思わない。忘れ物を取り返すまでは、帰る場所なんてありはしないのた。
「……考えて欲しくないんだがな」