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2-6

【8】


「んっ!んー!」

 突然現れた腕の集合体、粳部うるべの体を挟むように掴んでいる。まるで魚を咥えた猫のよう。だが、この怪物は猫のように優しくも可愛くもない。理解を超えた、全身が腕の怪物だ。藍川の家からの帰り道に遭遇した街灯の概怪のように、これも概怪なのだ。

 その腕の『口』が閉じようとしている。

「んーっ!」

 このまま力を加えられれば上半身と下半身が泣き別れだ。その場合でも再生できるかどうかは分からない。粳部は口を抑えられて発狂しそうな頭をフル回転させ、もがきながら対処法を探していた。彼女を押し潰す尋常ではない圧力で腕や足の骨がビキビキと砕けていく。再生よりも攻撃の方が早いのだ。

 ピンチの粳部を概怪が引きずり回す。瞬間、酸欠気味の彼女の脳裏に浮かんだのはあの黒い怪物。粳部を助け、攻撃してきたあの怪物。この状況をどうにかできるのは奴しか居ない。彼女自身の脳が生き延びようと出した選択肢に、文句をつける暇もない。

 怪物を呼び出す。

「んん!」

 その刹那、粳部の口を抑えていた腕が外れ、体に掛かっていたとんでもない重量が消えた。そして、粳部が望んだ怪物は目の前に確かに現れていた。閉じようとしている上顎の腕を怪物が支えている隙に、粳部は足下の腕を蹴散らして床を転がる。一先ず、取り敢えずの危機は脱した。

「戻ってこい!」

 概怪の口から後ろに跳ぶ黒い怪物。その動きは速く、口が閉じるよりもずっと先に抜け出す。藍川の後ろを付いて行った時には不意を突かれ、腕で口と手足を押さえられて捕まってしまった粳部だが、もう敵のやり方が分かった以上は先のようにはやらせない。

 相手との間合いを調整する。

「また気持ちの悪い敵が……」

 敵から伸びた数本の腕を回避し、向かってくる腕を弾きながら敵に突っ込む。腕の合間を縫ってフルパワーの拳を叩き込み、そのまま跳び上がって自身に向かってくる腕の上を走って距離を置く。粳部が地面を滑りながら着地し奴の方を向くと、拳一発では全く堪えておらず概怪はまだまだ余裕そうにしている。また時間がかかりそうだ。

 だがその時、背後から誰かの走る足音が響いてきた。孤立無縁の暗闇に一人不安な筈なのに、何故か聴き慣れたような音が。

「鈴先輩!?」

「よく抜け出した!だが動くなよ!」

 姿が見えないくらいの距離を一瞬で詰めた藍川が、その尋常でない速度を保ちながら壁を走り始める。そして概怪の横に並んだ瞬間に跳び、回し蹴りを繰り出した。衝撃的な威力に藍川を掴もうとした概怪の腕がへし折れる。

 奴が姿勢を崩した。

「このまま!」

「やれええ!」

 見ているだけではいられない。粳部は追い討ちをかけようと怪物を動かし、その拳を概怪の顎の部位に叩きつける。奴の腕がそれをすんでのところで受け止めるが、衝撃を吸収し切れずに体を揺らす。その場に留まった隙を見逃さず藍川の肘鉄が概怪に叩き込まれた。反撃とばかりに飛んでいく無数の腕を躱しながら進む藍川、至近距離から打ち込まれた拳の乱打が概怪を吹き飛ばしていった。

 壁にぶつかって怯んだ隙に、粳部は助走をつけて奴の下へと直進する。彼女が勢いよくドロップキックを直撃させた瞬間、吹き飛んだ奴が動き出し奥へと逃げる。命の危険でも感じたのだろうか。その後を追おうとするが飛んできた腕に邪魔され、粳部と藍川は足止めを喰らう。腕を弾いて進もうとする藍川に対して粳部は上手くいかず、腹のど真ん中を腕貫通する。

「があっ!?このっ……!」

 粳部は刺さった腕を両手で引き千切って腹を再生すると、地下道の奥へと逃げる概怪に向けて黒い怪物をけし掛けようとする。だが、突如反乱した怪物は粳部に向かって殴りかかってくる。

「ちょっ!?お前!」

 粳部が怪物の拳を躱し時に弾きながら後退して凌いでいた時、藍川が概怪の腕を横から切断した。手間をかけさせてしまって本当に申し訳ない。黒い怪物は唐突に戦うのを止め、霧のように散るとどこかの暗闇へ消えてしまった。

 更に奥へと遠ざかる概怪。

「くそ逃がすか!」

「……足だ粳部!」

「え?」

 粳部が言われた通り自分の足を見ると、そこには奴の細い腕が絡み付いている。蛇のように音も立てずに、いつの間にか掴んでいたのだ。反射的に引きちぎろうと手を伸ばす粳部だが先に動いたのは奴の方だった。彼女を振り回して何度も壁に叩き付ける。あまりの衝撃に粳部の意識が遠のきそうになっていた時、激しい痛みと共にあの腕が腰の一部を引き千切る。

「がああああ!?」

「粳部!」

 腕を振り払って抜け出すとすぐさま藍川が動き、その腕を千切って放り投げる。概怪はその腕をキャッチした。痛みで状況がよく分からなくなってきている粳部だったが、それだけは確かに分かった。自分は役に立っていない。藍川の足を引っ張ってしまっているのだ。

 前を向くと概怪は遠くでぼやけ小さくなっていく。その圧倒的な速度でかなり遠くまで逃げたのだろう。これでは戦闘が長引くのは避けられない。粳部が怪物に走らせても間に合わない距離だ。しかも唐突に反乱した為に信用が全くない。粳部としてはあまり使う気にならない。

「マズい……!」

「いや、距離は問題にはならない」

「え!?」

 落ち着いた口調の藍川。確かに、先のように粳部が全力で走れば間に合わないこともないだろうが、粳部はその言い方にかすかな違和感を覚えた。捕らえることに特化したあの法術を使うのか。しかしこの距離で使えるとは思えず、先の発言とは繋がらない。それは何か、別のことを考えているような。

 藍川が構えを取る。

祭具奉納さいぐほうのうあがめたてるは筒路つつじの此岸』

 知っている、粳部はこれを知っている。覚悟を決めたその顔を、憎しみに似ているその声を。思い出の藍川と違うどこか辛そうなその背中を。粳部は以前にこの歌を聞いているのだ。助けてもらった、全ての始まりのあの街灯の下で。

 藍川の左手が光り空間が震える。彼が祝詞のりとを流れるように歌い上げ、指輪がその指に宿った。

搦目心中からめしんじゅう

 瞬間、奥へと逃げていた奴の動きがピタリと止まる。時間が止まったかのような完全な静止の後、体を引っ張られているように動かす。先程とは対極に、逃げずに向かってくる。その動きには意思のようなものがあまり感じられず、藍川によって操られた概怪は自ら死地に向かっていくのだ。

 これは、まともな力ではない。

『停止』

 まるで藍川が飼い主かのように大人しく止まる概怪。静止し、壁のように聳え立つ。

 そして藍川は容赦なくそれに蹴りかかった。体を揺らす強烈な一撃をゴングに、戦闘が再開する。倒れかかってようやく動き始めた概怪、しかしどう足掻いても既に遅い。周囲に伸ばした腕を張り巡らせる概怪だったが、藍川が腕を払うような仕草をするとそれら全てが元に戻っていく。粳部はその隙を突いて奴に肘鉄を打ち込んだものの、あまり怯んでいるようには見えない。

「何が、起きて……!?」

 口を開き、こちらを圧死させようと突進する概怪。だが藍川にジャンプで回避されただけでなく、冷静に踵落としまで入れられてしまう。体中に腕があるというのに怯んで動かせないのであれば意味がない。

 加勢しようと駆け出した粳部だったが、突如として黒い怪物に片足を掴まれる。

「嘘っ!?」

「粳部!?」

 唐突に邪魔をしてきた黒い怪物は粳部を思い切り後ろに投げ飛ばす。自身に完全に従っているわけでないのだからこういうことが起きてもおかしくないというのに、また油断してしまっていた。しかも粳部の意思に関係なく出現している。どうしてこうなったのかは分からない粳部だが、今は藍川を助ける他ない。

 彼女は空中で姿勢を変えて着地する。怪物に大分遠くまで投げ飛ばされてしまったが、粳部は慌てて駆け出す。

「あの役立たずめ!」

 反撃とばかりに概怪の体から無数の腕が飛び出し、目にも止まらぬ貫手が藍川の脇腹を裂く。一瞬何が起きたのか分からなかった粳部だが、あれが奴の全力のスピードだということは確かに分かった。貫手が藍川の胸にも刺さるが、彼はすんででそれを掴んで横に流し深傷にはならない。そしてそれを好機とし、藍川は貫手のお返しを喰らわせた。

 彼が着地すると震える足で粳部の方に向き、何かを伝えてくる。

「粳部、任せる!」

「え!?」

『自滅!』

 暴れていた概怪が止まり先程のように無数の腕を伸ばすと、目にも止まらぬ貫手の攻撃を弧線を描いて自分にぶつける。全身に高速の貫手が突き刺さり、概怪の叫びのような声がトンネルに響いた瞬間に粳部は藍川の意図を理解した。この現象がどういうことなのかは彼女には分からない、どんな理屈なのかも分からない。だが、藍川がそれを操っていることは分かる。そして、生まれたこの大きな隙。

 突然、力が抜けたように藍川が倒れる。概怪が再び暴れ始めるまで時間はないだろう。

「あーもう!」

 粳部は選択を強要されている。だが、彼女はやるしかない。どうなっているのか知らないが、倒すチャンスであることには変わりない。粳部の速度がトップスピードになった瞬間、足の骨が砕ける勢いのドロップキックが概怪に向かう。

「どうにでもなれええ!」

 そして、それは叩き込まれた。両脚に残る衝撃の余韻が粳部の体へと流れ、均一化され消えていく。反動として足の筋肉が限界を迎えて裂け、目の前の概怪に叩き込んだ一撃がそれを倒すに十分だったことを教えてくれる。身動きできない粳部が地面に落ちると、概怪からの攻撃はもう来なかった。

 倒れている藍川の元に這うようにして駆け寄る。脚が壊れてしまったせいでまだ粳部は歩けないのだ。概怪が力なく壁に倒れるが優先事項は藍川だ。彼が目を瞑って何かに悶え苦しんでいるのが見える。

「鈴先輩!」

「ま、まだだ!」

 概怪の方に振り向いたその時、倒れていた概怪が口から何かを吐き出す。黒い、口だらけの謎の塊。それをよく見るとどういうわけか腕が生えていた。そして粳部がそれに呆気に取られていた隙を突いて、萎んだ概怪が逃げていく。二人を無視して奥へ奥へと逃げていく。

 流石に今度は止められない。粳部の脚はまだ片脚しか治っていないのだ。

「な、何で!?」

「妙だと思っていたが……やはりか」

「一人で納得しないでください!」

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