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2-5

【7】


 シャッターの多い通りを歩いて藍川と粳部うるべは先へ進む。今日も都内の気温はかなり高い。司祭である藍川は暑さを特に感じないがこの眩しさは何とも慣れないのだ。司祭は概念防御によって環境に対して耐性を持っている為に暑かろうと寒かろうと無問題なのだが、この光だけはどうしようもない。

 だが、この状況で一番げんなりしているのは彼の隣を歩く粳部だ。

「あっつい……都内って本当に暑いですよね」

「湿度もあるから砂漠より酷いって聞くな」

「よくそんな涼しい顔ができますね……」

「司祭は環境に強いからな」

 概念防御サマサマだ。ただ、万能と思われている概念防御にも欠点はある。薬物を拒絶するその体は治療も受け付けないというわけであり、麻酔も軟膏も効果がない。針が体に刺さらない為に傷口を縫えず、自然に再生するのを待つ他ないのだ。温度を感じない為にサウナやお風呂で何も感じなくなり、概念防御の影響で味覚も弱くなってくる。

 親知らずを気合いで抜いたことを思い出す藍川。

「ところで……昨日あれだけ戦ってよくピンピンしてますよね」

「お前だって司祭でもないのによくやってるよ」

「睡眠時間足りてないんですけど、なんか元気なんすよ」

 正体不明の再生能力、概怪でなければ生き物でもないあの黒い怪物。全てがまともではない。あれから粳部はシャワーを浴びてから一旦自宅に戻り、少しだけ気分転換をした後に迎えに来た藍川とここまでやって来た。粳部はまだ食事を摂っていない。流石の司祭も食事を取らなければ死ぬこともある為、それすらも彼女が克服していたとなるといよいよ完全な生命体だ。司祭と違い、弱点のない。

「……これでいいのか?」

「いいんですよ、これで」

「来春は……こんなこと望んじゃいなかったと思うがな」

 粳部来春、かつて藍川の恋人で粳部の姉だった女性。どこをどう探そうと見つからない失踪した人物。粳部はあることを考えていた。多くの情報を把握している諜報機関である蓮向かいに所属する藍川だが、高い地位にある彼が失踪について把握していないのであれば本当に姉は消えたのだろうと。そのことについて一切話さないのは、何も把握していないからなのだ。

 だが、粳部は少し安心していた。来春が荒事に巻き込まれたことはまだ確定していないのだから。

「ほら、居たぞ」

 遠くに見えた地下道への入り口、その脇に谷口が立っている。

「……頑張りますか」

 覚悟を秘めた粳部の瞳は僅かな震えを覗かせる。それはそうだ、粳部は自殺しに来たわけではない。ただ、自分の体を元に戻す為にここに居るのだ。藍川は付け焼き刃的に粳部を鍛えた為にまだその才能は引き出されていないものの、無意味に傷付かないようには育てた。ならば粳部はもう目的まで止まらない。

 だが、必要ならば粳部は目的の為に傷付くことも厭わない人間だということを、藍川は知っている。

「遅いぞ粳部、藍川。もう予定の五分前だ」

「それじゃ駄目なんですか……」

「こいつ神経質なんだよ」

 二人に気が付いた谷口が話しかけてくる。本日の仕事の場である地下道のその入口、谷口は既に準備を済ませていたようだった。経験があるが故の準備の良さか、それとも性格故なのか。後者のような気もするがどちらだろうと考える粳部。

 谷口が腰に手を当てる。

「俺は時間にはうるさい男だ」

「そんなんじゃモテませんよ」

「……藍川の後輩なだけはある」

 それは果たして褒めているのか、貶しているのか。

 メンバーが揃い、これでようやく行動を開始することができる。今回の案件は藍川単独では不安要素が多く、状況を詳細に記録しなければならない為にも複数人でなければならない。その方が確実性が高いのだ。ついでに粳部の慣らしを行い、報告書の中身を埋める為のテストも行う。

 藍川が確認を行おうかと思った途端、谷口が粳部に話しかける。

「一応報告は来ているが……この間の黒い怪物、本当に出せるのか?」

「まあできますよ。どういう原理かはさっぱりですけどね……」

「試しに出してみてくれ」

「……いいっすけど」

 粳部が険しい表情をした瞬間、彼女の隣に黒い怪物が現れる。現れる度に違う姿をしているが奴であることに変わりはない。正体不明な、概怪かも生物かも分からない何か。この間は人型だったものの、今回は手足のないナマコのような見た目をしている。気味の悪いことだ。

「殴ったりできるのか?」

「そりゃできますとも」

 そう言うと怪物は鋭い殴りを前に繰り出す。正確なパワーも分からない上に最高速度も分からない。持久力も耐久性も分からない。昨日の訓練でもランダム過ぎるが故に正確な値を求められなかったが、人間以上の力を持った者は常に不足している。こんな早くに粳部を駆り出さねばならなくなったのは嫌な話だと思う藍川。

 ただの人の職員ならば山のように居るというのに。

「もう良いぞ」

 谷口が言うと怪物はビシャっと地面に消えていく。まるでバケツから水を溢した時のように一瞬で消えてしまったが、一体どこにあの質量が消えているのだろうと藍川は疑問に思う。また日を決めて精密検査を行うべきなように思えるが、上層部はどう判断するだろう。

 谷口が隣にある暗い入り口を見つめる。

「二週間前から、この地下道付近で失踪事件が五件出ている」

「失踪?」

「夜間、帰宅中に付近を通った五人が失踪した」

 影も形もなくただ消える。先日、この地下通路を通った男女の内、女の方が忽然と消えてしまった。連絡は取れず、いくら周囲を捜索してもその人物は影も形もなかったらしい。警察に通報して発覚し、一通りの捜査の後に蓮向かいへとお鉢が回った。概怪の可能性が高いからだ。

「報告曰く、一般職員と警官が空間に違和感を覚えた。概怪が居てもおかしくはない」

「あの……違和感って何ですか?」

「概怪は存在が不安定だから居るだけで空間が乱れてしまう」

 物静かであまり語らなそうだった谷口が喋り続ける。

「物が消えたり迷子になりやすい場所は奴らが居る可能性が高いとされる」

「勉強になるっすね。いや、何となくですけど……」

「決まりだと思うんだが。谷口、念の為に地下道を封鎖するよう手配してくれ」

「……了解した。だがまだ実態は確認していないぞ」

 概怪はただの害獣とはわけが違う。常識と、物理法則を無視した規格外の怪物。ただ見つけることすらも困難な理解できない化け物。職員が何回もこの通路に入って調査をしたわけだが一度として被害者のようにはならなかった。結果、何が起きるか分からない為に司祭に任されたわけだ。

「職員が何度も調査して見つけられず、俺達にお鉢が回ったか」

「つまり見えない敵ってことっすか?」

「あり得なくはない話だな。相手は概怪、常識なんて関係ない」

「しかし、それでは襲ってこない理由が分からん。奴らに我々を思いやる心はない」

 空間に違和感を覚えているということは概怪の攻撃範囲に近付いているということ。だというのに、職員には手を出してこないのは何故なのか。それはこちらが見えていないからなのか、それとも耳が悪いからなのか。

 命を奪う以外の生き方をできない概怪に優しさが備わっていない以上、この場所にはまだ危険が残置されている。それを取り除き、できる限り犠牲者を減らすことが蓮向かいの仕事なのだ。

「拐う人間にも条件があるってことですか」

「……谷口はここで待機、俺と粳部で探る」

「こちとら怪我人なんでな、許せ」

 拝むように粳部に手を見せる谷口。粳部の加入以前にΩ+オメガプラス相当の概怪と戦闘を繰り広げた結果、藍川と谷口は体に深い傷を負ってしまっていた。権能抜きの単純な戦闘能力であれば最も高い実力であった谷口が特に重傷を負い、全力を出せないでいる。藍川の怪我は治りつつあるというのに、無理をしたからか谷口は依然として本調子ではなかったのだ。谷口に無理をさせるわけにはいかず、今日は外の警戒を担当してもらう。

「怪我人がこの前あんなにアグレッシブに動いてたんですか……」

「あれで怪我がぶり返したんだ。元はといえばお前のせいだろ」

「私悪くないでしょあれは!」

「冗談だ」

 本来、クラスΩオメガに相当する職員は伝説と言ってもいい強さを誇る。例えギリギリΩオメガに分類されるΩ-オメガマイナスでも、γ+ガンマプラスでは太刀打ちできない程の差があるのだ。しかし、藍川と谷口が歴代最悪の概怪との戦闘を繰り広げた結果、その後遺症と負傷で遥かに弱体化してしまっていた。奥の手はまだ残っているものの、奥の手は使いにくいが故に奥の手なのだ。特に本調子ではない谷口は留守番が妥当な判断だった。

「全身の骨と内臓がボロボロだ。今回は勘弁してくれ」

「……それ入院しないと駄目じゃないですか!?」

「休むのは性に合わん。次回はよろしく頼む」

 藍川と粳部は階段を降りて下へと向かう。谷口の顔が段々と遠ざかって見えなくなっていき、踊り場に降りてからは何も見えなくなってしまった。冷たい暗闇だけが悠々と辺りを漂う。地下道は酷く静かだ。

「大丈夫ですかね……」

 人気の一切ないこの地下道は薄暗く、とても今が昼間だとは思えない。時代に取り残された古い通路、今では通る者が殆どいないというのも納得できる。誰だって、避けられる障害ならば避けたいだろう。こんな異質で耐え難い不安、皆が感じ取って自然と離れることだろう。

 二人は階段を降りて先を進む。

「老朽化等で潰れた駅なんだと。消えた五人も前はここが最寄駅だったとか」

 天井の電灯は昼間だからか消えており、奥の曲がり角は完全な闇だ。粳部はこの危険さではただの誘拐事件ではないかと疑いたくなっていた。人の目もなく暗い、近隣の住民も通りたくないことだろう。今ではもう閉店しているであろう店の古い看板が壁に設置されている。かつて、ここにも人通りがあったのだ。

 藍川は自分の後ろをくっついて歩く粳部に気を配りつつ、薄暗い周囲を捜査する。

「空間の違和感がなかったら、誘拐か失踪で終わってたな……この事件」

「こりゃ人も居なくなりますよ……」

「ボロいから廃れたのか、廃れたからボロくなったのか」

「駅は寿命で潰れたんでしょう?」

「荒れ具合の話をしてるんだ。汚すぎるんだよ」

 二人は奥へ奥へと足を運ぶ。この地下道の長さはそれ程でもない上に、今では出口は一つだけ。中で迷子になることは基本ない。しかし、空間が不安定になっているからか二人は距離感がイマイチ掴めていなかった。十メートル歩いたつもりが五メートルだったり、またはその逆が起きたり。まともな場所ではない。

 藍川は粳部の位置を確認し、辺りを見渡す。

「どうやら、まだ近くには居ないらしい」

「あれって出口の階段ですか?」

 二人が入ってきた地下道の入り口の反対側、別の方面に出ることのできる階段が数十メートル先にある。どうやら報告通りこれ以外は何もない簡素な通路なようだ。簡素過ぎるあまり調べることがない。粳部は職員達が頭を悩ませていた理由がよく分かった。

「これで終わりなのか」

「えっ、概怪なんて居ましたか?」

「どこにも居ない……と断言したいんだが、居るような感覚はある」

 現に空間はこうして不安定になっているのだ。何かが居るような気配、景色が変わっているような違和感。今は何が起きてもおかしくはない開戦前夜、敵は二人の喉元まで迫ってきている。しかし、二人はその姿を確認することができていない。どうすることも、できない。

 前へ前へと進む。

「被害者は概怪を目撃していない。となれば、いつ現れてもおかしくはない」

「あの怪物を出して暴れさせます?」

「藪を突付いてるわけじゃないんだぞ」

 もう出口の階段がすぐ近くまで来てしまっている。どこかで見落としてしまっていると思うのだがどこで間違えたのかが分からないのだ。まるで期末試験のよう。灯台下暗しとは言うが、灯台どころかこの空間には光が一切ない。二人には何も見えない。

 権能を使って周囲を探ろうかと考える藍川だが、あれを粳部の近くでは使用したくないと考え直す。

「案外、地下道の外に居るのかも……なんか最近動いてるそうじゃないですか」

「……奴らは生まれた場所から離れない。しかし、この町の概怪は動き出している」

 既にここから居なくなっている可能性も、あり得ないわけではない。現在の特異な状況では少しの予想外も受け入れざるを得ないだろう。分からないことが多いのが概怪の特徴だ。何者かによってどこかに移動していたとしても妙ではない。

 閉じたシャッターの横を通り過ぎる。

「もう出口ですけど……」

「粳部、概怪が近くに居るかもしれないんだ。気を抜いたり……粳部?」

 不意に足音が一人分減った。そんな些細な出来事が藍川に最悪の異常事態を伝えている。血の気が引き、彼は咄嗟に粳部の方へと振り向いた。だが、引っ付くようにして彼の背中に居た粳部はもうそこには居なかった。

 複数の手に掴まれて、開いたシャッターの奥へと引き込まれていたからだ。

「粳部!」

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