目次
ブックマーク
応援する
6
コメント
シェア
通報
2-2

【3】


「……ヤバいじゃん」

 粳部うるべは青い天井を見つめながらそう呟く。昼間の答弁の内容から考えられることはあまり多くないが、きっと今はまだそれが碌でもない話だという認識だけがあればそれでいいのだろう。入ったばかりの彼女には公開できない情報もある。まだ慌てるようなタイミングではないと、自分を納得させる粳部。

 空はまだ鈍い藍色のままであり、どうやら日の出は遥か先のようだ。

「……はあ」

 いつの間にか粳部は一人だ。いや、目覚めてから彼女はずっと一人だ。

 粳部が最初に見たものは白い空。精神病院の無機質な天井は患者を逆に狂わせてしまうことだろう。思考力を奪い社会と断絶させるあの場所は、正常な人間だとしても時間と共に壊していってしまう。まともな感性すらも蝕んで。粳部を担当していた医者がヤブ医者でなかった為に、すぐに外へ出させてもらえたのは幸運だった。

 窓の向こう側を眺める粳部。

「鈴先輩……寝たかな」

 藍川も一人で寝ているのだろうか。膝を抱える粳部のように、一人寂しく。

「……当たり前か」

 目覚める前、粳部は姉と寝ていた。彼女は一人ではなかった。側に誰かが居て、一人などではなかった。それが粳部にとって良かったか悪かったかは別の話だ。いつでも粳部に迫る姉を彼女は恐れ、憎んですらいた。だが、粳部はそれでもどこか愛していた。粳部は何だかんだ姉に居て欲しかったのだ。あれでも一応、姉妹だったのだから。

 本来であれば藍川と彼女の姉は結ばれ、今頃は二人で寝ている筈だっただろう。だが、そうはならなかった。そうはならなかったからこうなっているのだ。姉は失踪した。粳部が入院した日、何の前触れもなく失踪したのだ。

「……結局、私は一人か」

 今、藍川の隣に粳部は居ない、姉も居ないが粳部も居ない。これはチャンスだ。姉が知らなかったであろう領域に粳部は今、踏み込んでいる。本来粳部がどう足掻こうと進めなかった領域に、あの怪物の存在によって踏み入ることができるようになったのだ。粳部の空白を満たす為に必要なものが目の前にある。だというのに、手を伸ばさない選択肢はない。ただ欲望のままに手を伸ばせばいい。簡単なことだ。

 藍川の心の隙間につけ込むことは容易い。後は、誰かと深く関わる勇気さえあれば。藍川の隣の席にあるガランドウの空席は手に入る。

「くそっ!」

 今、何を考えた。粳部はおよそ姉を失った者とは思えないような、おぞましいことを考えて思考を濁らせていた。欲望のまま人として最低なことを考えていた。見えてしまった弱みを見なかったふりをして日々を過ごすことこそあるべき姿だ。だというのに、彼女はなまじ人の心が分かってしまう為にこんな手段を考えてしまう。

 粳部が怒りのままベッドを叩く。だが、木製のフレームの砕ける音が耳に飛び込んだ直後、予想外の大きな振動が寝転がる彼女を揺らす。突然の怪奇現象に粳部が飛び起きた瞬間、床が壊れて彼女とベッドは落ちていく。

「う、嘘!?」

 粳部はベッドと床を叩き壊してしまっていた。彼女が天井を見上げるとそこには大きな穴が開いており、粳部の部屋の天井が天井の先に見えている。当人は軽く叩いたつもりだったが、彼女の想定を超えたあり得ない力が出ていたのだ。本来ならば粳部に備わっている筈のない力が。

 粳部が起き上がって辺りをよく見ると、自分が落下した場所の床も歪んでしまっていることが分かる。下の階に誰も住んで居なくて本当に良かったが、管理人に説明して工事をする必要性が出てきてしまった。これはかなりの賠償金を請求される。何とかしてこの謎の力を制御する術を考えなければと考える粳部だが、一昨日まで一般人だった彼女に分かることはない。

「こ、こんな力……そんな」

 粳部はまた勝手に怪物が出ていたのではないかと辺りを見渡すも、黒い怪物は影も形もなかった。大気は昼間との落差が激しく、冷たく、ただ寂しい。この場に奴の気配はない。つまり、これは奴の仕業ではなく粳部の力がおかしいということになる。分かっていたことだが粳部は変わってしまった。望まない力程、無価値なものはない。しかも制御できないというのなら尚更だ。

「ど、どうしよう……ジャンプで行けないかな」

 この細腕で怪力を出せるというのなら、この細い足でも怪力を出すことができる筈だと考える粳部。彼女は九割方できないだろうと思いつつも、物は試しと思い切りジャンプする。すると彼女の体は一瞬で空に跳び、彼女自身にも制御できず天井に頭が激突した。激痛に悶えつつも自室の床に落下する粳部。

「いっでええ……本当にできちゃ駄目でしょ……」

 人間の脚力ではない。自分の体に何が起こっているのかが分からず、辺りを見渡して混乱する粳部。黒い怪物と不死身の力のことで手一杯だというのに、新たな情報は何も知らない彼女を更に混乱させる。

 試しに、粳部が砕けた木片を握る。

「え……」

 それは音を立てて軋み、形を歪ませる。粳部の手の中で力の通りに変わっていく。繊維方向の概念を無視し、原型を失いながら有り得ない力で圧縮されていく。彼女の手から落ちた異形の木片が床を転がった。まともではない。これは人の持っていい力ではない。だが、こんな常識離れした力でなければあの概怪をどうにかすることができない。藍川達のように。

 その時、暗く人気のない部屋に誰かの声が響く。

『大きな音でしたけど、大丈夫でしたか?」

「……心臓止まるかと思った」

『おっと、これは失礼』

 突然聞こえた声に驚愕した粳部だったが、すぐにそれが昼間の『ラジオ』であることに気が付いた。このノイズ混じりのレトロな声。あと少し気が付くことが遅れていればきっと叫んでいただろう。自分以外に誰も居ない筈の自室で唐突に話しかけられれば、普通の人間は叫ぶ。

 彼女が音のする方を向くと、部屋の隅に置かれたラジオからノイズが溢れていた。それは学生時代に聞いていた物で、捨てる気が湧かなかった為に持ち込んだものの使っていなかった代物。それは既に、電池が抜かれている物だというのに。これは昼間に言っていた司祭の力と関係があるのだろうかと考える粳部。

 粳部はラジオに問いかける。

「どういう仕組みなんですか、それ?」

『私は音が出る機械を支配下に置ける司祭です」

「こ、これも司祭の力なんですか?」

『私の場合はそうですね。人によって違いますが』

「非科学的過ぎる……」

 だが、そんなことを言う彼女自身が非科学の塊だ。藍川達ですらその正体を探ることができずにいる謎の塊。質量保存の法則を無視した身体の再生、エネルギーに見合わない力の出力。何もかもが人間の領域を超えている今の彼女は、科学の対極の位置に立っている。

 ラジオがペラペラと話を続ける。

『明日、貴女の検査の後に軽く訓練を行う予定です。藍川さんが先生ですよ』

「そうでないと困りますよ」

『……何でですか?』

「私、結構な人見知りですから」

 他人のことを愛し過ぎてしまうことは時として短所となる。だから距離を置く。自分を守る為の辛い選択肢、これは仕方のない犠牲。今粳部の目の前に居るラジオはどう見ても機械であり、その向こう側に人が居るという実感が湧いてこない。故に彼女はこうして普通に接することができているが、これでも何となく距離を置いている。

『これでも私、人間なんですけど』

「ラジオが人だと言い張っても……」

『差別発言ですよそれ。給料から引きますからね』

 粳部はふと思った、この仕事の給与体系はどうなっているのだろうか。バイト先であんなことが起きた以上、粳部はもう以前の職場には戻れない。タイミングよくスカウトによってこの『蓮向かい』に加入できたが、以前よりも給料は減るのだろうか増えるのか。不意に気になった粳部がラジオに問いかける。

「……給料ってこの仕事、どれくらいの額を貰えるんですか?」

『粳部さんは戦闘職員として採用されているので、月に百八十五万円ですね』

「うげっ!?何すかその高給!?」

 藍川があれだけの大きさの家に住めている理由に納得する粳部。これだけの金額を月に受け取っていればあんな家にも、どんな豪邸にも住めるだろう。それに連続事故物件である為に少しは安くされている。そうなると、今の藍川の手元にある金額は相当になっていることだろう。

 しかしその額の分、仕事の難易度は跳ね上がるわけだ。

『概怪の捕獲や任務は追加報酬でたんまり貰えますよ』

「鈴先輩はどれくらい貰えてるんですか?」

『その三倍ですかね』

「そんなアホな!?」

 その三倍、つまり月に五百五十万円を超えているとすると、藍川の年収は七千万円に達してしまう。それはもう富豪なんてレベルではない。金で解決できないことのない貴族の域だ。それでいて金持ちという雰囲気を少しも出さない藍川はどうなっているのかが気になる粳部。貯金しかしていないのか。

 ラジオは喋るのを止めない。

『明日、組織の本部に行けば分かると思いますよ。色々とね』

「色々って……何がですか?」

 沈黙をノイズが埋める。

『この高給の理由、彼があなたを止めた理由の一つですよ』

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?