【8】
退室する藍川を追い炎天下の外に出る
店から少し離れ、小川の上に架かっている橋の真ん中で藍川はその足を止めた。振り返ることもなく、その前だけを見据えて。
「具体的な話はまだしてない。今なら、引き返してなかったことにできる」
「どうして露骨に止めるんすか!」
「俺が経験者だからだ」
藍川が何を経験したのか、粳部には分からない。酷く怯えているような弱々しい藍川になってしまった理由があの謎のラジオや谷口と呼ばれた人にあるのか、それとも昨夜の怪物なのか。そのどちらとも取れる交錯した現状で答えを見出すことはできないが、今の藍川が恐れていることだけは粳部にも分かる。学生の頃にも見せたことがなかった、藍川の弱い部分の一つ。
彼を見据えたまま眉をひそめ呟く彼女。
「そんなに私のことが嫌いですか」
「……何故そう見える?」
ゆっくりと粳部の方を振り向く藍川。その表情は最早、どこか泣きそうだった。
正直なところ粳部には分からない。愚かな彼女には何も、何も分からない。長いこと連絡を取っていなかった藍川が家への誘いを送ってきた時は、粳部はその以外さと唐突さに驚かされたものだ。しかし、今思えばそれが異常だっただけで藍川が彼女のことを嫌っていないという証拠はない。
粳部は今、彼に発破をかける為にわざと強い口調で話しているものの、彼がこちらの意図を汲み取れていない可能性もある。藍川に限ってそんなことはあり得ないが、可能性だけであればいくらでも存在するのだ。可能性だけであれば。
「お前が怖いだけだ。目を離した隙に壊れてしまっていたら、姉に何て言えばいい」
「……お姉ちゃんは関係ないでしょう」
「そうか?……そうかもな」
粳部からすれば、このタイミングで彼女の存在がチラつくとは思わなかったことだろう。
だが、居ない人のことはどうだっていい。彼女の人生は彼女が決める。誰が外からどう謀略を練ろうと彼女を盤上の駒としようと、何があっても彼女のすることは変わらないのだ。
彼の瞳をジッと見つめる。
「私は!自分の体を知らぬ間に滅茶苦茶にされて、泣き寝入りなんてしませんから!」
この不死身の体は死なないという点では便利かもしれない。今までにできなかった不可能も多少は可能となり、考え方によっては面白い生き方ができることだろう。だが、死なずに常識を外れて再生する彼女を見て一般人が何を思うのかは別だ。どう考えてもアレは化け物にしか見えない。当事者である彼女だって怖いのだから。
「その強さは利用されるし、時には折れる。その強度故にな」
「鈴先輩は私にどうなって欲しいんすか」
「……お前に、俺が見たものを見て欲しくないだけだ」
ただ俯く彼。止めるのは経験故かそれとも私情故か。彼女は前者であれば受け流すだろうが、後者であれば少し嬉しく思うだろう。だが、どうだろうと彼女を止めることはできない。会わなかった数年に藍川が経験したことが、碌でもないことだという察しは彼女にもつき始めている。だが、まだ確定したわけではないのだ。
藍川に近付く。
「鈴先輩、私が見たいのは真実です。現実です」
「なら目を逸らさないか?打ちひしがれないか?そんな心がお前にあると?」
「……どうっすかね」
それは少し分からない。彼女は自分のことに完全な自信を持てるわけではないのだ。人の心の鏡は不完全であるが故、ハッキリと映らないその姿に迷わされることもある。昔からそうだ。他人に合理性なんて求めてはいけない、過信してはいけない。
距離感を把握し難い人の心という特大の地雷、彼女が向き合うことなく逃げた人の道。今になって、彼女はこうして彼と面と向かって戦う羽目になっている。これもまた自業自得だ。きっと今までのツケを払っているのだろう。
だがそれでも、こんな彼女でも知っていることがある。
「でも、胸の内にあるものが……執念染みてることは分かります」
彼女は他人と距離を置きがちな人間だが、時には詰めることもある。詰めたいと思う人と出会うことがある。そう思うことのできた彼らが今どうしているのかは分からない。連絡の取れなくなった彼らがどうなったのかは知らないが、彼だけは目の前に居る。彼女の目の前に。
彼が顔を上げ、彼女を見つめた。
「自分の心に誓えるか?」
「自分の神に誓います」
「仕事の中には戦闘もあるが、不死身も怪物を呼ぶ力も……ずっとある保証はないぞ」
「そんな保証、ない方が良いんすけどね。元の体に戻りたいんすから」
鋭い視線が彼女の心を貫く。想いを見抜くかのように、彼女の体を貫く。これからどうなってしまうのかはやはり彼女には分からないし、彼女が元に戻れる保証もない。もし戦いの最中に力を喪失し傷を再生できなくなってしまった時、彼女は間違いなく死に至る。昨夜のようには行かないのだ。
それでも、彼女を前に進ませるのは秘めた執念かそれとも狂気か。どちらにしろ、彼女がおかしいことには変わりない。だが、少しおかしいくらいでなければ、あの怪物を制してやっていくことなどできないのだ。喜んでそれを認めよう。
「……蛮勇も勇気の仲間である」
「誰の言葉ですか?」
「俺の経験だ」
粳部をジッと見つめていた藍川の瞳がそっぽを向き、小川の方へと視線が下りていく。チロチロと少ない水量で流れるその小川は、今している大層な話と対照的で酷くちっぽけだ。あんな化け物が潜む街だというのに、ここはやけに静かな場所だ。
藍川が肩から力を抜くと、覚悟を決めたような瞳を粳部に向けてきた。その口が動く。
「……決まりだ」
遂に藍川も溜飲を下げた。やけに頑固だった先の彼は消え去り、比較的いつもの彼に近い穏やかそうな顔が現れる。これで落ち着かなかった粳部の気分も少しはマシになりそうである。まあ、彼女の懸念は未だ消えていないのだが。
その時、誰かが背後から彼らに呼びかける。
「長いぞ、予想より一分長い」
「……人を待つのが下手くそだな」
「待たせる方に問題があるだろう」
谷口と言われた仮面の男性、彼が片手に例のラジオを持ってこちらに近付いてくる。彼らの話が終わるのを今か今かと待っていたのだろう。何故ラジオを持っているのかと疑問に思う粳部だったが、その謎はこれからすぐに解けることになる。
谷口が粳部の前に立つ。
「谷口だ。昨日の非礼を謝罪しよう」
「ああ、粳部音夏です……どうも」
彼女はやはり彼の風貌をどこかで見たような気がしていたのだが、どうしても肝心なところが思い出せない。それは俗に言うデジャブ、既視感。いつかにこんな感じでこの名前を彼女に自己紹介していた気がするのだが、一体それはいつのことだっただろう。
彼女が考えを巡らせていたその時、彼の手にあったラジオがノイズ混じりに喋り始める。
『これで三人の同意が得られました。ようこそ『
「……
距離を詰めてきた藍川が説明する。
「
『そしてそれは私達三人みたいな超人、司祭と呼ばれる存在で構成されています』
「し、司祭……へっ?」
超人、司祭。唐突に出てきた謎の単語に困惑する粳部。繋がらないこれらの言葉の意味を、今の彼女は理解できない。
「司祭と言っても、祈りはしないがな」