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1-6

「仕込みさーん、えんがわ予備二です」

「はーい」

 昼時の回転寿司の厨房は混雑しており、店内の客の人数に対して圧倒的な少なさであった。運悪く臨時でバイトが入ってしまった粳部だが、平日とは思えない忙しさに困惑している。何故平日の昼間から回転寿司に行こうと考えるのだろう。愚痴の一つも漏らしたくなる程に忙しい。サーモンフェアの人気が想像の斜め上を行っている。

 彼女はバイトの先輩に話しかける。

「注文が多すぎて嫌になるっすね……」

「流れてる皿が見えないのかね。眼科行けよ」

 結局、昨夜に自宅へ帰った粳部うるべに変なことは起きなかった。あの黒い怪物をまた出せるかどうかは試しておらず、またあの街灯の怪物のようなものに襲われるのではないかという懸念が粳部の頭から離れない。全ては夢であったと思いたいのだが、脳裏に焼き付いた痛みの記憶が粳部にそれを許してくれないのだ。体に傷一つないというのに。

「というか私臨時で来たんですから、もう少し優しくしてくれてもいいと思うんですけど」

「今人手不足だからさー仕方ないよ」

「仕方ないの一言で納得できるわけないっすよ。まあ、嫌々納得してますけど」

「いやしてるじゃん」

 この仕事も随分と慣れてきた。最初は色々なミスを重ねて周囲の視線に耐えきれず辞めようかと悩んでいた粳部だったが、半年近くも続けていくと次第に体が慣れてくる。継続は力なりという言葉があるが本当にその通りなのかもしれない。最初は魚を捌くだけでうわうわと言っていたが、今は見る影もない。

 粳部が魚を捌きながらふと時計を見ると、いつの間にか自分の勤務時間を過ぎてしまっていた。

「やば……」

「どうしたの?」

「もう時間とっくに過ぎてますよ」

「うわ、本当じゃん」

 隣に立っているバイトの先輩が時計の方を見る。今やっていることを終えたらすぐに厨房を出なければならない。粳部はここで働いてはいるが今日は元々臨時で入っていたのだ。長居してやる義理などない。夕方から閉店までのシフトが基本の為に、朝から働いている今日は異常事態だ。

 昨日のことがあって殆ど眠ることができなかったというのに、追い打ちをかけるように精神的な疲労がしがみついている。不思議と肉体的な疲労はないのだが。とにかく、粳部はもう家に帰って色々と考えたかったのだ。藍川の家に再び行くかどうかも、行って何を話すかも決まっていないのだから。

「今やってるの終わったら上がっていいよ」

「本当っすか?ありがとうございます」

「うん。おーい京君」

 交代要員を呼びつけて話を進める先輩。どうやら彼女の抜けた穴は彼が担当してくれるらしい。変則的なことが多いことは悪くないのだが、そろそろこの忙し過ぎるバイトも辞めたいと考える彼女だった。長かったこのシフトもようやく終わると開放感を覚えながら、足元の冷蔵庫の扉を開きその中に手を伸ばす。だがそこにあったのは魚を入れたバットなどではなかった。

「ぐあっ!?ああああ!!」

 腕が千切れた。いや、誰かに千切られた。冷蔵庫の中に居た何者かによって。溢れ出る血と激しい痛みの感覚がねじ切られた断面から彼女に伝わり、全身を痺れさせる。だがこの痛みは初めての経験というわけではなく、どういうわけか体がこれを覚えている。それはきっと昨夜の腹部の痛みに似た、死に通ずる感覚。

 そのまま床に倒れる彼女。

「う、粳部さん!?」

「店長!粳部さんが!」

「あっああああ!!」

 周りの声すらも痛みに変わる苦痛。一度経験したことがあるからといって痛みが軽減されるわけではないのだ。千切られた腕の断面が熱くて冷たい。異常事態に駆け寄ったバイト仲間も、彼女の腕の断面を見るとあまりの異常さに思考が停止して何もできなくなってしまう。それもそうだ、急に腕が切断されてすぐに対処ができるような人間がここに居る筈がない。そんなことができるのはきっと、藍川くらいだ。

 彼女が痛みに床をのたうち回ったその時、冷蔵庫の中に居た誰かが偶然目に入る。それは、あの時の怪物だった。冷蔵庫の暗闇の中にギチギチに詰まっている黒い体。光を完全に吸収するような黒色のあの怪物が、彼女を助けたあの時の怪物がそこに居たのだ。そして、彼女を見つめている。

「うぐっ……あ、あいつ……!」

「粳部さん落ち着い……」

 その刹那、奴が掴んでいた千切れた腕が断面に吸い寄せられ、くっ付く。パズルのピースを嵌め込むかのように、マグネットが引かれ合ってくっ付くように、人の腕が玩具のようにくっ付いたのだ。床に溢れ出た筈の多量の血液はどこかに消え、何事もなかったかのように現場は元に戻る。同様に周囲の同僚も静まり返るが、元に戻らない事もある。

 傷は治っても怪我があったという事実は消せないように。

「えっ」

「……あんた、人間じゃ」

 そう言われそうになった瞬間、彼女は厨房を飛び出して控室に飛び込んだ。彼女の様子に驚いているバイト達の横を通り過ぎて店の外に出ると、誰も居ない場所を目指して逃げ出した。もうあそこには居られない。居ることを皆が許してくれない。

 涙が零れそうになりながらも走り続ける彼女。何故か、疲れる気配がない。

「何で……何でこうなるの」

 一人、電話ボックスに飛び込んだ。




【7】


 現在の室温は三十度を超えており、暑さに弱い一般人からすると中々堪えることだろう。風鈴の音が鳴っても室温は少しも変わらない。藍川は特に暑さに悩んでいるわけでもないが風情が出る為、客の為にと置いていた。夏真っ只中では無力な代物、訪れる客も居ないこの店には必要ない。

「来ないな」

 一日に客が二人来ることが大半のこの店は基本的に過疎だ。利益度外視の経営の為に別に来なくてもいいのだが、誰も居ない時は藍川が寂しくて仕方がない。子連れの親が来た時は和んだりするものの、こんな退屈な時間が延々と続くと流石に耐えられない。たまには刺激が欲しくなるのが人間という生き物の性なのだ。

 藍川が蝉に押し負けつつある風鈴の音に耳を澄ませた、その時だ。

「昨日も和服でしたけど、暑くないんですか?」

「ああ、このままキムチ鍋食べるぞ」

 逆光が、入り口の粳部を照らしている。今日は昼頃に粳部から連絡を受けて待っていたのだ。おかしいことがあれば連絡して欲しいとは言ったが、まさかここまで早いとは藍川も思わなかった。眩みそうな光の先に居た粳部が店内に足を踏み入れると、店内の駄菓子を見渡す。

「本当に駄菓子屋なんですね」

「おお、アイスも売ってるぞ」

「……棒アイスあります?」

「あるぞ」

 アイスケースから二本取り出し、近寄った粳部に一本手渡した。藍川は残った一本の袋を破り、暑さで溶ける前にとあずきバーを噛み砕く。よく冷えた小豆が少し硬いものの夏らしい感覚だった。冬場に食べた時とは違う感覚を覚える。

 粳部もアイスに口を付け、そのまま本題に入り始めた。

「私、どうなってるんですか」

「……」

 何とも言えない。部外者の彼女に暫定の情報を話すことはできないものの、彼は過去の記録から色々と見繕ってはいる。不死身の怪物の記録、人に擬態する怪物の記録、人に取り憑く怪物の記録。そのどれもが彼女の状態と異なっている。今の彼女が何なのか、正直なところ誰にも分からないのだ。

 それを知らない彼女は自分の腕を握る。

「あの怪物に腕を千切られました」

 唐突な報告に彼は思わずアイスの棒を噛み千切ってしまった。うっかり飲み込んで少し焦ってしまう。だが、気にするべきはそんなことではなく彼女の方だ。

「制御できなかったのか!?」

「勝手に出てきて……突然、腕を……」

 強く握っているその腕は確かに繋がっている。昨日と同様に、壊れた状態から傷も残さず元に戻ったのだ。時間を巻き戻すように、なかったことにするように。常識と理解を超えて。生物としてのラインを超えてしまった彼女が何をしようと、もうおかしいことは何もない。

 彼女が責めるように彼を見つめる。

「昨日の怪物はどうしたんすか、先輩とあの男の人は何なんですか」

「それは答えられない」

「何かあれば電話しろって……言ったのは鈴先輩ですよ?」

 ああ、言った。彼女を巻き込まないように、これ以上苦しめないように彼はそう言った。だが、結局それで何ができたというのだ。ただこうして彼女の話を聞いただけではないか。あれはただの気休めでしかなかったのだ。彼は分かっている。自分がやっていることはただの自己満足でしかないことを。

 彼女を巻き込まないことは彼女を救うことと同義ではない。

「腕が繋がってるなら……俺にできることはない」

「先輩!」

「……望んで地獄を見る奴なんて居ないだろ」

 保護観察を受けている現在の彼女に彼ができることと言えば、緊急時にその身を守ることだけだ。まあ、彼女の腕が千切られたという連絡が来ていなかったのはどう考えても監視役の不手際だ。しかし、彼女が『こちら側』に足を踏み込んだ時は彼にもできることがある。だが、それは彼女を苦しめる選択だ。

 強い目で彼を見る彼女。

「元の体に戻れるなら幾らでも見ますよ」

「それは現実を見ていない馬鹿の論理だ」

「なら見せてくださいよ!現実とやらを!」

 それを見せたくないから、今彼はこうしている。

 今起こっている一件について話せば、彼女をこちらに引き込むことになってしまう。足を踏み入れてはいけない場所に彼女を手招きしてしまう。故に彼は嫌なのだ、だから嫌なのだ。

 彼女であればそれなりに高い地位実力を手に入れて何とかやっていけるかもしれない。彼は彼女とそれなりの付き合いがある為に何となくそういうことが分かってしまう。だが、地位が上れば上るだけ対処するべきことはおぞましく、そしては残酷になっていく。それだけ致死率も上がるのだ。

「……会うべきじゃなかったんだ」

 高校生活が終わった時点で、彼はもう彼女に関わるべきではなかった。そこで区切りを付けて二度と会わないように、違う世界の住人だと思うべきだったのだ。彼が彼女を呼ばなければこんなことにはならなかったのかもしれない。まだ何も分かっていないがあの接触が事の発端となった可能性はあるのだ。そうでない可能性もあるが。

 その時、誰かが店内に足を踏み入れる。

「自由に出せるのか?あの怪物を」

谷口たにぐち……来たのか」

 仮面を付けた男、谷口が粳部に近寄る。このタイミングで彼がやって来たということはどこかで話を盗み聞きしていたのだろう。流石は元諜報部の人間なだけはある。どう見ても不審な仮面を付けた男を恐れて彼女は後退りするが、すぐに彼が誰なのかを思い出して嫌そうな顔をする。それもそうだ、記憶に新しい昨夜に自分を殺そうとしてきた男なのだから。

「昨日の仮面の……」

 出る瞬間を見計らっていたということは、下手をすれば昨夜から監視していたのかもしれない。彼女の腕に関する報告が来ていないのは彼が止めていたからとも考えられる。しかし、彼が痕跡を残す筈はない為に追求することはできない。藍川の『権能』を使わなければ無理な話だ。

 彼女の監視レベルは昨夜に引き上げられたとはいえ、それはあまり気持ちのいい話ではない。だが、昨夜よりも穏やかである為に即殺害という考えはないようだ。

「出せるのかと聞いている」

「谷口、俺達が出る幕は……」

「出せる」

 そう断言する粳部。決意を秘めているかのように、執念を灯すかのように、その口から溢れた言葉には熱がある。それは藍川が彼女に求めていなかったことだ。彼からすれば一生、こんな風にはなって欲しくなかった。強かろうと弱かろうと構わない。藍川はただ粳部に何事もない平和な日常を過ごして欲しいだけだったのだ。

 強くなっても、砕け散るのは一瞬なのだから。

「なら、ここでやって見せろ」

 そう藍川が言うと、粳部が目を閉じて意識を集中する。昨夜にあの黒い怪物を操作した時のように、自分の手足のように操り始める。その次の瞬間、棚の影からヌッと奴が顔を出した。黒い、何とも形容し難いその姿。不定形で肌が波打ってるが一応の形を保っている。影から歩き出した怪物が足を止め、粳部が差し出した食べかけのアイスをそのまま飲み込む。

 完全に制御下に置いている。

「ほら、バッチリっすよね」

「……なら、何で腕を千切られたんだ」

「それは……」

 理由が分からない。粳部が制御しているというのに何故彼女に逆らって攻撃するのか。そして、何故完全に再生するのか。粳部を殺すことが目的ならばわざわざ再生させる必要はない。この怪物は何をしたいのかがその動向からさっぱり分からないのだ。藍川の権能を以てしても、その心を読むことはできない。

 黒い怪物をまじまじと観察し、肩の力を抜く谷口。

「やれやれ、予定が狂うがスカウトには十分だな」

「谷口、保護観察で検査に協力させればそれでいい筈だ」

「本人がそれを望んでいると、お前が一番分かっている筈だが?」

 嫌な返しをしてくる。どうやらこの状況で一番余裕がないのは藍川のようだ。困惑してばかりの粳部にすら負けそうな始末である。彼には歯痒い話ではあるがこの状況で彼女の加入を防ぐ方法はもう殆どない。彼が彼女の推薦を拒んだとしても谷口が他の職員に推薦させようとするだろう。合理的な判断を前にしては俺の個人的な事情は消し飛ぶ。

「それは……」

「俺にあれだけのダメージを与えられたのなら、軽く見積もって等級はγガンマ以上だ」

「粳部はそんなに優秀な奴じゃない」

「それに不死身だ。こんな怪物聞いたことがない」

「お前も似たようなもんだろ」

 仮面の奥に隠している感情を何となく読み取る藍川。確かに戦力としては申し分がないのは事実だ。流石に谷口と比較すれば彼に軍配が上がるものの、同じ土俵には辛うじて上がっている。完全に怪物だ。

 粳部が口を開く。

「……こいつを消して、普通の人間に戻りたいんです」

 それは藍川の唯一の言い訳が完全に消え失せる瞬間だった。

 やはり、どうしようもないのだ。誰がこの運命を仕組んだのかは分からない。誰がこの先に起きうる地獄を願ったのかも分からない。それでも彼女はこの道を進まなければならなかった。どうあろうと選ばなければならなかった。いつまでも少女のままではいられないのだから。

「元の体に戻る為なら何だってやってやりますよ!汚い手だって使います!」

「お前、それでいいのか?」

「仕方ないの一言で済む話です」

 その時、何故かラジオの電源が入る。このラジオはコンセントに電源コードを挿していないのだが、一体どういう原理で動いているのか。細かいところはいつか本人に聞こうと考える藍川。静観していた筈だった彼女がこの場に介入してきたことだけは、確かに分かっていた。

ラジオ特有のノイズが流れた後、そこから女の声が流れる。

『良いんじゃないですか?粳部さんであれば、戦力としても申し分ない』

「うわああ!?ら、ラジオが喋った!?」

「ラジオは喋るだろ」

「そういう意味じゃなくて!意思を持って話に入ってきてるじゃないですか!」

 どうやら、ラジオは粳部の加入を歓迎しているようだ。昨夜の出来事に関しては藍川が徹夜して報告書を提出していた為に、その時の情報とここに彼女が来てからの情報で判断したのだろう。抜け目がない彼女のことだ、人手不足を改善できるまたとない機会を逃す筈がない。

「……仕事がやけに早いじゃないか」

『重症とは言え、等級がΩオメガの谷口さんに傷付けられる人はそう居ませんよ』

「と、等級っすか……」

『おまけに不死身。このレベルの人材はお二方くらいです』

 やけにうるさいノイズが辺りを包み、怪しい悪寒が藍川の心を乱す。

「で、この人は誰っすか?」

『ああ私、ラジオです。以後お見知りおきを』

 ふざけた言い方をしているが彼女がラジオという名前であることは事実だ。藍川よりも下の階級でありながら各方面へのコネクションを持っており、その凶悪な能力によって組織内での存在価値を高めた女。そして、藍川のチームのリーダーを担っている。実際、優秀な人材だろう。

 谷口がラジオの方を向く。

「ラジオ、良いだろう?三人の推薦であればスカウトは可能だ」

『ええ、私と貴方……三人目の藍川さんも推薦すれば可能ですとも』

 粳部が小さく手を挙げる。何故ただのラジオで会話ができるのかは後回しにしようという顔をしていた。

「えーっと、そうすると何か教えてくれるんですか?」

『知る権利を行使できる内容であれば、知ることはできる』

 知る権利、というところが嫌らしい言い方だ。確かに職員は閲覧が許可されている情報の量が多い。一般に公にされてないような情報まで知ることができることは、この仕事の確かなメリットと言えるだろう。だがしかし、組織内でも等級という壁がある。機密を維持する為には等級による制限を設けて流出を防ぐ以外に手はない。

 知りたければ上まで来いということだ。

「何を知ってるんですか?あなた達って」

『持っている知識に限り、知っていますよ」

 ラジオは右も左も分からない粳部をダークホースとして手元に置いておきたいのだ。不死身の肉体に黒い怪物の運動能力。それらを解き明かして組織に貢献させるという手もあるが、解き明かせずとも未知数の戦闘能力を持った粳部を部下に置くことは大きな利点だ。

 しかし、粳部を使い潰させはしない。

「粳部、話がある」

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