黒い怪物は『もう一体』居た。何処に居たのかは分からない、どうやって来たのかも分からない。何者なのかも分からない。分かることはたった一つ、それはただ粳部も怪物も貫いたのだ。その腕で、両者に攻撃したのだ。
起き上がり叫ぶ藍川。
「粳部ぇ!」
腹から滴り落ちる血の量が増える、その時が粳部の最期だ。そう思って彼女が自分へと駆け出した藍川を見たその瞬間、彼女の腹を貫いていた怪物が消えた。塵も影も残さず、ただ消えた。藍川は支えを失った粳部をすぐさま受け止め、そのまま棒立ちする奴の側面へと移動する。彼女の腹を貫いた怪物は消えた為にどうしようもないが、せめて一体でも仕留めなければならない。確実に処理していく必要がある。
怪物に囁く藍川。
『停止』
構えようとした奴の動きが硬直する。無様なその格好は蹴ってくれとでも言っているようで、藍川はその望み通りに回し蹴りを叩き付ける。受け身の取れない奴だけでは衝撃を吸収できず、ブロック塀を壊して民家にまで被害が及んでしまった。だが奴は動きを完全に止め、これで全てが終わったのだ。
「お、終わった……」
鈍い痛みと激しい痛みが交互に粳部へやってくる。自身に迫る死が、最後の衝動を味わえと言っている。苦しい。普段感じている熱さや冷たさがこんなにも死に近いものだなんて、きっと誰も想像しないのだろうと思う粳部。温度の感覚が狂い始め、彼女は脱力とやり場のない苦痛へのもがきでまともに動けない。
藍川が粳部を地面に降ろす。
「粳部!よく耐えた!」
「……鈴、先輩」
藍川は生きている。粳部もまだ生きている。だが、彼女がその目を閉じたら藍川が死んでいるかもしれない。彼女が死んだ後藍川が生きている保証はない。まだ死ねないのだ。生物の本能と自分の強い意思で粳部はここに残っている。
藍川がぎこちなく腕を動かす。
「……流石にしつこいぞ……!」
彼がよく分からないことを口走ったその時。不意に、街灯が点滅する。
「……あ」
彼が点滅に気が付いた瞬間、街灯の暗闇に奴が現れる。腹に穴が開いたとしても、胸を開いたとしても、首が折れたとしても、あの怪物を止めるにはまだ足りなかった。そこに傷は残っていなかった。彼女は邪魔にしかならなかったのだ。動きが鈍い今の彼は奴に反応できるのか、何とかなるのかと思う彼女。
遂に怪物が動き、彼女は目を塞ぐ。
「気の毒なことだ」
誰か、知らない声がした。その刹那、激しい熱と轟音が空間を震わせる。彼女には見えていなくても、その体が瞬間的にそれを理解していた。彼女が遅れて目を見開くと纏わりつくような炎が奴の体を駆け巡る。冗談みたいに暴れる体は謎の男に蹴飛ばされて吹き飛び、アスファルトを転がって動きを止める。静かに炎は燃え続け遂に、完全に静止したのだ。
先程まで怪物が立っていた場所に、仮面の男が立っている。
「すまんな藍川、網を張っていたが当てが外れた」
「
「相分かった」
仮面を付けた謎の男性、彼は谷口と呼んでいたが明らかに常人ではない。彼女が思うに恐らく、あれは人間離れした藍川の同類なのだろう。先の爆炎もそうだが、藍川の体がどうなっているのかも彼女には分からなかった。その当然のように今までの常識を乖離している原理が、彼女の頭を酷く混乱させていたのだ。今の彼女にはまだ理解できそうにない。
歩み寄る男の手が彼女に近付いた。
「……ッ!?こいつ!」
「え?」
何かに気が付いた谷口が反射的に後ろに下がる。一体何に反応したのか。彼女か、それとも彼女の背後に何か居たのか。だが、彼女の背後には誰も居ない。彼女の腹を貫いた怪物は突然現れることのできる怪物だったが、今は居ないということを彼女も直感的に分かっていた。
彼女が困惑した瞬間、藍川までもが驚いた。
「粳部……体が!?」
「な、何ですか?」
彼女は自然過ぎて一度も考えていなかった。当たり前のように考えていたことが最大の異常だった。腹を腕が貫通したことを忘れていたからなのか、暴れる怪物で思考が圧迫されていたからなのか。理由は定かではない。だが、現にその異常の正体はすぐ近くにあったのだ。
普通、重症の人間がこんなに喋ることはない。彼女の体は何故か自然に再生していたのだ。傷口が完全に塞がり、骨も再生し、大量出血による意識の混濁も終わり、穴が開いた服までもが直っていた。先程までの負傷の証拠は今となっては服に着いたあの血痕だけだ。
仮面の男が迫る。
【5】
「……そいつは
「いや……違うが」
「……
「待て谷口!こいつは別に……」
表情は仮面で見えないが明らかに粳部に対して敵意を持っている。谷口は腕まくりすると粳部を見下ろし、藍川は粳部と谷口の間に割って入った。さっきは粳部を助けてくれたというのに現実は実に非情である。
恐怖で彼女の声が震えた。
「わ、私人間ですけど!」
そう叫んだ瞬間、粳部の影が伸びたかと思うとそこからあの怪物が現れる。粳部を腕で貫いたあの黒い怪物、粳部にはどこか見覚えのある謎の怪物。眼前に現れたそれは谷口の肩を殴り抜けた。怪物を粳部の腹ごと貫いたあの黒い怪物が、まるで彼女を助けるかのように動いたのだ。霧のように怪物が消えると、よろけた仮面の男が距離を取る。
「その女が操っているのか!?」
「知るか!こいつは人間だ!」
「腹の穴を再生できる奴が人間だと?組織の人間なら処分しろ!」
粳部が操っている、この怪物を。その発想がなかったのか驚く粳部。黒い怪物は彼女の腹ごと突き刺してはいたが、見方を変えれば街灯の怪物に攻撃していたことは確かだ。谷口が彼女に近付いて来た時はその腕で彼女を守っていた。ピンチの時にはいつも奴が居たのだ。
自分にできるのかと思い始める粳部。
「そいつの正体は何だ!お前が心を読めば分かる筈だ!」
「何で少しも信じないの!?」
「怪物を信じることは予定にない」
彼女を抱えて離れようとする藍川。だが地面から現れた光の鎖が彼の片腕を捕らえたかと思うと、側面から谷口が距離を詰める。藍川は動きを制限された状態で谷口の拳を避け、鎖を引き千切って飛び上がり距離を取ろうと試みる。しかし、地上に居た谷口は腕から電撃を放ち二人を襲う。全身を電撃が駆け巡り、あまりの衝撃と威力に思考も文字通りショートしそうになる粳部。だが藍川は生きており、粳部も体を再生させて生きている。地面に撃ち落とされるが彼女を手放さない藍川。
「互いに病み上がりだぞ……大人しくしろ藍川」
「生憎だが、この仕事は手加減してると死ぬんでな!」
「……俺は全力を出すと死ぬのだがな」
彼女が眼前の谷口をよく見てみると、袖を捲くった腕に何枚ものお札が貼り付けられている。先程の電流にはあれを使っていたのか、時たま電流が腕の周囲を迸っていた。藍川よりも早く動き、原理の分からない超能力染みた謎の力を使う谷口。当然、彼女を抱えたままで戦えるような相手ではない。
「結鎖!」
「病み上がりで法術なんて使うな!」
地面からいくつも光る鎖が飛び出し、彼は彼女を抱えたままそれを避けつつも後退する。絡みつこうとする鎖を拳で砕いて跳び上がる彼だったが、そこを狙い撃ちするように電撃がこちらに飛んでくる。彼が身をよじって電撃を躱すも、それすらも読んでいたかのように電撃がもう一度飛んでくる。これは避けられない。
だが、目の前に再び『アレ』が現れる。
「なっ!?これって……!」
あの黒い怪物が目の前に現れ、電撃を受け止めて霧散していった。誰が頼んだわけでもないのに彼らを守って、そして再びどこかへ消えていったのだ。その目的は未だに分からない。しかし、こうなれば彼女も一か八か出てみるべきか。
怪物のおかげで彼らは安全に着地する。
「鈴先輩!」
「粳部!?」
暴れて藍川の腕から飛び出し、奴の前に出る彼女。粳部からすれば不調な彼にこれ以上の無理をさせるのは心苦しかったのだ。さっきと同様にあれを出現させることができなければ、彼女の体はただでは済まないだろう。藍川が彼女を逃がすことに成功したとしても彼は殺され、彼女はその後に無防備な状態で殺される。ならば、ここであの黒い怪物を出現させてあの男にぶつけることができれば少しは役に立つ筈だ。
彼女があの怪物を操っているという仮説が正しいかどうかは分からない。彼女の体に穴を開けたのは確かに奴で、彼女を助けたのは奴だ。もう、選択肢は他にない。
「血迷ったか!」
とんでもない速度でこちらに迫る仮面の男が視界に溢れ、選択肢を奪われる。もうやるしかないのだ。ダメージを受け止めてようやく立ち上がった藍川が止めようとするよりも早く、敵が迫る。彼女は自分が正気でないことは分かっていたが、ここで彼を失うわけにも彼女が死ぬわけにもいかなかった。終わるくらいならば無駄な足掻きをしたいのだ。
彼女はあの、黒い怪物が出る時の感覚を思い出す。
「やれっ!」
瞬間、彼女は何かと心が繋がった。
叫んだその刹那、怪物が彼女の目の前に現れる。黒い泥のような鉄のような、見た目で質感を判断しきれない特異な姿。肌が波打ち形が一定でないその怪物はどう見ても生物の枠には入らない。彼女が至近距離で見ると、彼女を襲ってきたあの街灯の怪物とは全く別の存在だと分かる。だがこれが、こんな怪物が彼女の味方だと言うのか。藍川が叫ぶ。
『停止!』
唐突に足を止め急ブレーキを掛けた谷口。流石に、あの怪物に驚いて足を止めたというわけではないだろう。藍川が持つ心を操作する力によって足を止めさせられたのだ。そして、彼女は生まれたこの隙を逃すわけにはいかない。すぐさま無我夢中で相手を殴るイメージを想像し、相手に仕掛けようとする彼女。
次の瞬間、黒い怪物はとんでもない速度で谷口に拳を叩き込んだ。
「ぐえっ!?」
彼女が傷付くことも藍川が傷付くこともない。彼女はやった、やってみせた。数メートルも吹き飛んだ男は地面を転がり、辺りは途端に静寂に包まれる。何とか着地してゆっくりと立ち上がった仮面の男は状況を理解しようと辺りを見渡し、自分を殴り飛ばしたのはあの黒い怪物だという事実を噛みしめる。
「で、できた……?」
「何だ……こいつ何をした!」
そのまま立ち尽くす怪物に谷口が火の塊のような物を投擲する。火が弾けて散弾のようばらけるものの、彼女の引き伸ばされた感覚が飛び散る炎の塊を瞳で捉えた。ゆっくりとそれが飛ぶ軌道を見つめると、彼女は怪物が自分を抱えて塀に飛び乗る光景をイメージする。そして、怪物はイメージの通りに彼女を抱えて塀に飛び乗った。
炎の散弾が地面に落ちる。
「どうなってる……言うことを聞くのか?」
「谷口、何だか分からないが現に奴は助けたぞ。粳部をな」
「処分の必要性はないと……?」
彼女は自分を抱えて佇む怪物を見つめると、同様に怪物も彼女を見つめてきた。吸い込まれそうな白と黒の瞳、光のない底なしの暗い穴。この至近距離で見てもそれが何なのか彼女にはよく分からず、彼女が首を傾げると奴も首を傾げる。
彼女はふと疑問に思った。パッと見でそう判断したのだが、本当に自分はこの怪物を操作できているのか。
「粳部、操れるんだよな?」
「た、多分……」
塀から飛び降りて抱えられていた奴の腕から降りる。彼女に危害を加えるような行動をしてくる予兆は今のところないが、先程のように不意打ちを仕掛けてくる可能性は消えはしない。彼女は離れた場所から奴を見つめるが何も分かることはない。これは一体何なのだろうか。
藍川が彼女に近寄ってくる。
「何かやらせてみてくれ」
「何かと言われましても……」
まだ完全に操作できる自信があるわけではない。取り敢えず、彼女は目に付いた空き缶を拾わせようと意識する。すると、奴はそれを理解したのか歩き出し、道端に落ちている空き缶をすぐに拾った。どうやら、想像しているよりも簡単らしい。ついでにその空き缶を空に掲げさせる。
「ほら!持ちましたよ!」
誇らしげにそれを示すが二人の表情はあまり変わらない。そもそも仮面の男である谷口は表情が見えていないのだが。訝しむように、空き缶を掲げる怪物を見つめて何かを考えている。分からないことが多すぎるこの状況で、彼らは何を分かっているのだろうかと彼女は疑問に思った。
怪物が指示していないというのに空き缶を指の上で転がし始める。まるで、自分の意思があるかのように見えた。
「……粳部も俺達のように司祭になったと思うか?」
「いや、
「だが概怪の感じはしない……」
先程まで殴り合っていたというのに、突然落ち着いて何か彼女には分からないことを話している。ここまで関わったというのに、彼女を置いてけぼりにしている。そもそも二人はどういう付き合いなのかを彼女は知らない。谷口は仮面以外どこかで見たような風貌をしているが、彼女には誰なのか思い出せない上に何処で会ったのかも分からない。
「だが藍川、彼女が何かの力に目覚めたことは確かだぞ」
「……どうなってるんだ」
藍川の視線が黒い怪物から彼女へと移り、疑問気だった表情が普通の表情に塗り変わった。
「怪我は治ったのか?」
「あっ……治ってます」
「……そうか」
おかしい、何もかもがおかしい。あれ程の重症が治っていることも彼女には納得がいかず、体でもない服が直る原理が分からない。あの怪物を操れたことと関係しているのか。彼女は腕で貫かれた箇所を触ってみるが何ともなく、そこには怪我をしたという事実すらもない。傷跡すらもないのだ。
彼女は怪物の方を向く。
「あれ、居ない?」
「自分で消したんじゃないのか?」
「いえ……ひと段落ついて、帰ったんすかね?」
気付くと既に奴は居なかった。影も形もなく、気配すらも残さずに消えていた。分からないことの多さに彼女の不安は消えない、自分が無知でスタートラインにすら立っていないような存在だと思い知らされている。彼女に味方したあの黒い怪物も街灯の怪物も、二人の謎の力すらも分かっていない。一人ぼっちの疎外感を覚える彼女。
藍川が彼女の方を向いて歩み寄ると、ポケットから紙を取り出して渡してくる。彼女が何だろうかと書かれていた数字を読むと、それが電話番号だということに気が付いた。
「うちの電話番号だ。何かあれば電話しろ」
「は、はい」
「駅まで送るが、少しアイツと話すことがある」
「待ちますよ」
急に悲しげな表情を浮かべる彼。そこには嘘の色が混じっていない、純粋なものがあった。
「……今日はすまなかったな」
そう言って谷口の下に歩いていく彼。こうした荒事に詳しそうな素振りを見せているが、二人がどういう知り合いなのかを彼女は気になっていた。人間とは思えないことをやってのける二人だが、ただの友人ということはない筈だ。この治安の悪い街にわざわざ引っ越して稼げない駄菓子屋なんてやっている藍川は、一体何者なのか。
それに、街灯の怪物や彼女が操った怪物もどういう存在なのか。彼女の疑問は尽きない。
「奴の拘束と護送の手配を」
「すぐやる。だが、彼女はどうする?」
「……保護観察はさせておく」
彼女は気になって藍川に声を掛けてしまった。
「あの……あの怪物、何だったんですか?」
「……忘れろ、他言もするな」
そう言った彼の顔は今まで彼女が見たことがない程、悲し気な表情だった。彼女がしたことに悲しんでいるわけではなく、彼女の体がおかしくなったことに悲しんでいるというわけでもない。いや、欠片もそんな情がないわけではなさそうなのだが、彼にとっては彼女を巻き込んでしまったことの方が辛いようだ。
正常になった街灯はただ夜道を照らしている。