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1-3

【2】


 ここまで来る時はあれだけ暑く鬱陶しかったあの道が、今ではまるで湖面のように穏やかで静かだ。彼らの行先を照らす転々とした街灯の明かりはか細く、そして弱かった。街灯が途切れることなくそれが続いていても暗い。

 だが、この場で本当に暗いのは自分の心なのかもしれないと、粳部うるべは歩きながらそんなことを考えていた。暫くして藍川が開口する。

「粳部、このままバイト生活を続けるのか?」

「長く続きそうな予感はしませんね。生活に困らないだけのお金はありますけど」

「どうすんだよこれから」

 例の災害の補償のおかげで貯金に関しては当分心配ない。粳部は実家から一人立ちして暮らし続けているが、このまま何の目的もない退屈な生活を続けていくのは彼女にとって耐え難い。父からの多額の仕送りも受け取ることが嫌になってきているのだ。目的を見失ってどうすればいいのか分からなくなっている粳部に、仕送りなんて必要ない。

 彼女は何も起きない日常が最も尊いものであると自覚してはいるが、刺激も何もない生活は次第に毒に変じる。そして自分を壊す。心からやりたいと思えるような仕事か何かに出会えればいいのだが、今の粳部はまだどこかをさまよう身だ。メリハリがないと人生は空虚でしかない。

「時間はありますから、諦めた大学を目指すってのもありかもしれないですけど……」

「まあ、お前人間嫌いだからな」

 その言い方には語弊がある。粳部は人間が好きな上に誰かと積極的に関わりたいと思っているが、あまり自分を上手く守れないのだ。彼女は誰が何を考えているのかを考えることは凄く上手いと言っていい。しかし、相手がどうしても受け入れられない人間だったり、心の中で矛盾していたり、相手に対して共感し過ぎるあまり考え方が引っ張られてしまうことがある。そんな時は後悔して誰とも関わりたくないような気分になって、部屋の角でたった一人しゃがみ込んでしまうのが粳部なのだ。

 彼女は強い人間ではない、酷く脆いのだ。

 故に、粳部は変わった。そんなことを繰り返していたらいつか壊れてしまうから。

「人間は好きですよ。ただ、自分を守る為に距離を置いただけです」

「距離ね……他人の影響を受けやすいからか?」

「深く相手が分かるってことは、諸刃の剣ですからね」

 粳部は、できるのならば好きな物だけを選んでいたいと思っている。目の前の相手から逃げられないことの方が多い世の中なのだ。こんな小さなことくらい彼女の自由でもいいだろう。別に誰かを傷付けているわけではないのだから。人の多過ぎる場所はまだ、今の粳部には早いのだ。

「他人と自分を切り離せないと痛い目を見る」

「それは誰の名言っすか?」

「俺の経験だ」

 ふと粳部は気になった。藍川が話をする人の数は彼女と変わらないくらいだったが、彼女と比べて藍川とその友人の関係は浅いものだった。今の粳部は他人と自分を線引きすることで適切な距離を取ることを選んだが、彼女にとって藍川は誰と接する時も自然と深く干渉しないようにしている風に見えたのだ。それはどこか冷めているような、別の生き物を見るみたいな。粳部とその姉に接する時以外、藍川の表情は貼り付けられたような笑み一枚だけだった。

 藍川が笑い声を漏らす。

「お前って、我が強いように見えて実は弱い方だな」

「えーそうっすか?」

「でも、他人との線引きは上手い」

 褒められているのか笑われているのか、又はその両方か。他人との線引きをしなければいけなくなったのは、彼女が自分を維持できないような弱い人間だからだ。この線引きは決して他人に褒められるようなものではない。むしろ、これは彼女の弱さの象徴なのだ。彼女がいつか克服したい弱さの象徴だ。

 彼女からすれば彼の心は分かりにくい。それは生まれの差故か育ちの差故か。

 かすかな虫の鳴き声すらも聞こえなくなった夜道に、二人の硬質な足音だけが響く。弱い街灯の光は足下まで届かず、グラデーションのように光と闇は分かれていた。周辺に家の明かりは全くと言っていい程になく、もし大気が綺麗ならば星も見えたのかもしれない。ここは酷く静かだ。

 その時、藍川が沈黙を破って喋り始める。

「応急入院した日のこと……覚えてるのか?」

 それをここで聞くとは思っていなかったのか彼女は驚く。彼はそのことを避けていると思っていた為、別れ際に聞くというのは完全に予想外だったのだ。他人の頭の中を考えることは得意分野だが、彼に関する考えが当たることはあまり多くない。彼がどういう人間なのか彼女にもよく分からないのだ。

 彼女は嘘を吐かないように事実のみを話す。

「……実はサッパリないんですよね」

「え?」

「父が言うには、入院から半年以上は受け答えが成立していなかったとか」

 沈黙が再び始まる。言葉が消え時間だけが過ぎていく。やはり彼に言うべきではなかったのだろうかと焦る彼女。だが、彼はその場しのぎの嘘を吐いて騙せるような人間ではない。彼を本気で騙そうと考えた場合、あの瞬間では明らかに時間が足りなかった。ならば黙っていることが正解なのかと言うと、やはりそういうことではないだろう。

 彼女が入院したことに責任を感じているかのような視線の理由を、彼女は聞くことができない。

「……たった一年でよく退院できたな」

「そんなにヤワな人間じゃありませんから」

「ヤワじゃない奴が入院するかよ」

「あっ、ひどーい」

「冗談だよ」

 次第に足を早める彼。背中の向こう側にあるその表情は彼女には見えないが、彼には似合わないその速度から分かることはある。何か、得体の知れないものに追い詰められているような。背中を掴まれて、おびただしい程の何かを引きずっているような。彼女は今の彼からそんな嫌な感触を覚えていた。

 彼女の歩幅が縮んで足音が遠ざかった、その時だった。不意に、何かの足音が近付く。

「……水の音?」

 蛇口から水が溢れているにしては音が大きい。だが、水溜まりをぴちゃぴちゃと歩くような音が確かに聞こえる。雨どころか水気のないカラッとした夜に、その音は全くと言っていいほど似合っていない。これはどういうことなのかと疑問に思う彼女。大した理由ではないと思いたい彼女ではあったが、何か嫌な予感がしていた。

 意を決して後ろを振り向くものの、そこには水溜まりどころか誰も居なかった。




【3】


「気のせいか」

「いや、気のせいじゃない」

「え?」

 藍川の声に焦りが混じる。明確な不純物、日常的にあるありふれた焦りとは天と地ほど離れているそれは、明らかにその性質が異なっている。背中からではその表情は伺えないが、普段と明らかに違う様子の藍川がおかしいことに粳部は気が付いていた。それはまるで、命の危機のような。

 そのまま話し続ける藍川。

「すまん粳部、道を間違えたんだ。前の分かれ道まで戻ってくれ」

「いや鈴先ぱ……」

 粳部がその異様さを追及しようと前を向いた時、道の奥で点滅を繰り返す街灯の存在に気が付く。普通に考えれば街灯の寿命が近付いているのだろう。郊外だからなのか都心のように手が行き届いていないのか。人間の世界を支える人工の光が、その存在を主張でもするかのようにチカチカと点滅していた。まるで光信号の如く。

 しかし、それだけならば普通の光景だ。夜道を歩いていれば遭遇するかもしれない光景だ。意味も主張も人間の中にしかない。これはただのありふれた故障だと断言できる。

 だが、奇妙なのは。

「お知り合い……じゃないですよね」

「粳部、道を思い出すのに時間がかかる。先に戻っていてくれ」

 灯りの消えた街灯の下、藍色の暗闇に佇む高身長の男。粳部の見間違いか、街灯が光る度にその身体が消え、灯りが消えると現れる。その姿は常に暗がりの中にあり、灯りの下にはない。自分の目は遂に狂ってしまったのだろうか、私は夢でも見ているのだろうかと思う粳部。

 しかし、眼前の現実は決して揺るがない。すぐ側に藍川が居るのだから。

「どうしたんすか先輩、急に……」

「三回も言わせるな。早く……!」

 粳部を横目に見た藍川の眼光は、彼女が今まで感じたことのない刃物のような冷たさを喉元に突き付けていた。銀色に光る焦りと苛立ち。それはとても、かつての穏やかな日常には似合うことのない代物。彼女の中のイメージの藍川と、著しく乖離するモノ。今までの藍川は一体何処に行ってしまったのか。

 彼女は思わず怯み、弱々しく後退りする。

「え……え?」

「そのまま戻って、公衆電……」

 その時、奴の真上にある街灯の点滅が止まり煌々と光る。粳部の目を奪う不自然な現象が消え、暖かみを感じさせてくれる筈の光で満たされたというのに二人の懸念は消えない。涼しく心地良かった外気の感触すら、彼女にとっては不審だった。光の中にあの長身の男が居ないのだから。

 そして、二人の視界が点滅する。

「……え?」

「粳部!」

 違う、点滅しているのは二人の視界ではない。それは彼女の真上にある街灯だ。視線の先にあったあの街灯のように点滅を繰り返しているのだ。不自然に、その存在を示すように。

 瞬間、何かが粳部の背中に当たった。気配も音も殺して、理解を拒む何かがぶつかった。

「あの」

 見上げる前に粳部の体が動く。彼女が動かしたのではなく、藍川が彼女を抱き寄せて街灯から離れたのだ。ほんの一秒にも満たない時間。拡張された彼女のスローな認識ですら、刹那の彼を捉えることはできない。たった一瞬で十数メートルも移動する彼。それは人間では到底あり得ない動きだった。

 だが、それは街灯の下の『相手』も同じだ。

「ッ!?」

 いつの間にか彼女の背後に移動していた眼前の怪物は、既にその腕を振り下ろしていた。彼女が気が付くと彼は左肩から血を流している。目にも止まらぬ速さの攻撃だ。あの腕を避けることができないと悟っていたのだろう。彼のその表情に驚きはない。

 鋭利な手刀か何かで切り裂かれた彼の肩は、妙に現実味がない。

「す、鈴先輩!?」

「かすり傷だ!」

 彼女を小脇に抱えて走り出す彼。街灯の下の怪物に動く様子はなく、ただジッと二人を眺めている。黒く、全体像を掴み難いコートと帽子を着た怪物。彼女からすれば襲ってきた恐怖よりも、理解できない恐ろしさの方が強かった。あれはどう見ても人間ではない。

 全速力の彼は戻ることなどとうに辞め、ひたすら逃げるように前へ進む。そのあり得ない速度に彼女の目は追い付けず、目まぐるしく動く彼は既に車の速度のそれを超えていた。

「とにかく移動する!」

「あれ人間じゃな……」

「見間違いだ!」

 今更誤魔化せる筈がない。鬼気迫る状況であった為にまともな嘘を吐くことができず、逆に興味を引かせるようなことになってしまっていることに彼は気が付いていない。初めて見たあの怪物に、彼女が興味を抱かない筈はない。

 その時、その怪物が辺りの何処にも居ないことに彼女が気が付く。

「……ア、アイツは?」

「っ!?」

 彼の息を呑む音に言い知れぬ焦りが見えた、その時だった。飛び乗った塀を駆け抜けて別の道路へ飛び込む二人の先、連立する街灯の中に一つだけ異常な街灯がある。点滅しているのだ。ただ暗闇で瞬いて、そこに居る筈のないその怪物を照らしているのだ。彼があんなにも高速で移動したというのに、その怪物に先回りされていたのだ。異常過ぎる速度、または瞬間移動。それは彼女が今まで築き上げた常識が崩れた瞬間だった。

 彼が声を上げる。

「なるほど、仕掛けはそれか」

「何言ってるんですか!」

 道路で急停止した彼が、暗闇に佇む黒い奴を見つめる。お互いがお互いを牽制しているようにも見えるが、人間ではない相手にそれが通じることはない。この様子では言語も通じないだろうと考える彼女。それに、どちらかと言うとその逆の挑発のようにも思える。彼女を地面に降ろす彼。

 彼が大きく息を吐くと不意に大気が揺れる。ピリッとした電流のような感覚が彼女の肌に流れ、心に誰かが指を触れるようなおぞましい何かを感じさせた。轟く恐怖が彼女の身を揺らす。敵を見据えて構える彼の動作を見た瞬間、悪寒が彼女を襲うと溢れる息が白くなっていることに気が付いた。彼が何をしようとしているのか、彼女は知らない。

 鋭い眼差しが彼女を掠った。

祭具奉納さいぐほうのう、崇めたてるは筒路つつじの此岸』

 突然周囲が不自然に輝き、何かが起きた。だが、粳部にはそれが何かが分からない。

 認識を凌駕する速度が突撃しようと牙を剥く。構えた怪物が再び彼らを襲おうと、静止した状態から予備動作なしで加速する。それは常識の外の攻撃。予備動作なく最高速度を叩き出した怪物は、その豪腕を振り下ろそうと彼らに直進してきた。

 だが、藍川は静かに何かを読み上げる。

搦目心中からめしんじゅう

 怪物が接近し腕が振り下ろされたその瞬間、藍川の目と鼻の先でそれは静止する。破壊的な威力を震えて止める不自然な怪物。藍川は冷静にその胴体に重い拳を叩き込み、追い打ちとばかりに足を払う。そして、姿勢を崩した奴を回し蹴りで蹴り飛ばした。崩れたブロック塀から起き上がる敵を見ながら距離を詰める藍川。あの怪物が動きを止めたのは自分の意思なのか、それとも彼が何かをしたからか。

 ふと粳部は、藍川の指にさっきまでなかった指輪があることに気が付く。

『自害』

 藍川が小さく呟いた途端、怪物はその腕を振るわせながら自分の腹に突き刺す。臓物に似た何かを腹から引っ張り出しながら、悲鳴にも似た声らしきものを発する怪物。彼女には理解できない。どうして自分達を殺そうとした怪物が突然自殺しようとしたのか、今一体何が起きているのか。

 走り出した彼が地面を跳ね、なおも臓物を引っ張り出そうとする怪物に跳び蹴りを叩き込む。彼女の近くの街灯が点滅すると奴が消えた。

「ま、また消えた!?」

「逃がすか」

 突然、明かりが消えた街灯の暗がりに現れた怪物が飛び出し、彼女に襲い掛かろうとする。だが、またも直前でその動きを止めて硬直し、戻って来た彼の肘うちを腹に打ち込まれた。しかし、やられてばかりではいられないのか怪物も彼に肘落としを当てて隙を作り、彼の首へと手を伸ばす。

 直前で手が止まった。

『トラウマ』

 その言葉が聞こえた途端、怪物は頭を抱えて悶え苦しむような動きをする。先程からまるで彼によって心を操られているかのような状態だが、彼女にはそれが何だか分からない。彼はそんな怪物の頭に拳を突き上げると、がら空きの胴体を何度も何度も殴りつける。奴の体が空に浮き上がった瞬間、彼は怪物を遠くまで殴り飛ばした。奴の体がアスファルトにぶつかると砕けバウンドしながら転がっていった。

「せ、先輩!……何がどうなって!」

「説明はまだだ!終わりじゃないぞ!」

 粳部が彼から怪物に視線を戻すと、そこに怪物の姿はなかった。

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