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 吹き荒ぶ青い風が少女、粳部音夏うるべおとかを横切る。陽射しの中には海から運ばれた塩の匂いが満ちて、彼女の影はただイタズラに揺れている。寄せては返す波打ち際を、白と青の境界線を綱渡りのように歩いていく粳部。視界の先で揺れなびく陽炎、それはいつかの夢の如く。

 ふと、姉の呼ぶ声で彼女の意識が戻る。

「おーい音夏おとかー」

「……どうしたのお姉ちゃん?」

 海になる夢、見た少女。彼女の姉が酷く焦った顔をする。

「音夏!後ろだ逃げろ!」

「え?」

 何処までも、褪せた苔色に染まった果てない水底をただ漂う。少女は海になっていた。空っぽな世界の中心、空の涙が集まる場所で。寂しい寂しい夢を見た。

 振り向いた場所に居た真っ黒な人影は人間ではない。白と黒の吸い込まれるような瞳に吸われて、彼女の意識は消えていく。

 そして、彼女はがらんどうの夢を見た。



「……あれ、終点か」

 うつらうつらとしていた内に粳部は眠ってしまっていた。その目に映るのは終着駅の看板、耳に入るのは旅が終わりであることを告げるアナウンス。いつの間にか電車の快適な空調に寝かし付けられ、目的地に辿り着いていたようだ。

 閑散とした終着駅に降りる。蝉の声が東から西へ、小うるさい合唱が夏を告げていた。

「えっと……先輩の家は」

 粳部は鞄から葉書を取り出し、何度も見直した文章を上から下まで確認する。ボールペンで描かれた駅から家までの簡易的な地図を指でなぞりつつ、彼女の先輩の藍川鈴が書いた文を目に入れた。

『粳部へ、お前が退院した後も話しかけにくく二年も経った。引っ越した為に現住所はここだ』

 何とも彼らしい簡素な文章だと思う粳部。藍川は学生時代からあまり自分から話すことがなく、文章でも多くを語らない。その代わりに質問すれば多くを答えてくれる人だ。芯がしっかりしている人だからか、粳部と歳が一つしか変わらないというのに落ち着きのある男性である。先輩と呼ぶに相応しい人だろう。

 しかし、多少個性的なところが玉に瑕なのだが。

『気が向いたら来てくれ。藍川鈴あいかわすずより』

 葉書を鞄にしまい込み、刺すような陽射しから逃げるように歩き出す。ここから彼の家まではそこそこの距離ではあるが、この暑さでは永遠にも等しい苦痛の距離である。都内の最高気温を更新したであろう今日は、今まででトップレベルのやっていられない暑さだ。

 改札機に切符を放り込み、スタートラインを踏み越える。

「安そうな土地っすね……ホント」

 逃げ出したくなるような日差しの中を歩き、頭の中の地図に従って進んでいく。粳部の想像では治安が悪く不安要素ばかりのイメージがあったこの町だが、別に荒れているようなことはなく人通りもない。それどころか蝉の鳴き声以外は人の気配を感じず、まるで異界に迷い込んだかのような感覚を覚えさせる。

 日陰に飛び込む靴音が響く。古びたガードレールの内側、車道の向こう側を見つめながら歩き続ける。その先で大きく聳え立つ入道雲は、彼女に夏の訪れを改めて教えてくれていた。先程から歩き続けているというのに車一つ来ない。別に治安が比較的悪いからといって道に穴が開いていたりするわけではないというのに、何故こうも車が来ないのかと粳部は疑問に思っていた。

「平和だなあ」

 既に駅から十分以上は歩いただろう。夏場には絶対に行きたくない場所だと、彼女は今確信した。そもそも夏場は家の外から出たくない季節だ。この国の夏の気温と湿度はあまりにも高い。冷房のなかった時代の人間とは異なり、文明に甘やかされた現代っ子の粳部ではやっていられない。

 古い街並みを尻目に小さな日陰を踏んで行く。報われることを信じていいのかと不安に思う彼女。

「これか……でか」

 表札の名を見るにこれが藍川の家で間違いないだろう。古めかしく、普通の家よりも大きな一軒家。それは彼のイメージとかけ離れているような、どこかおどろおどろしい雰囲気を秘めている。見たところ随分と高価な家だ。粳部を呼んだ彼は二十一歳の筈だが、一体何の仕事をすればこの家に住めるのかと彼女は疑問に思う。

 緊張を胸に、そのインターホンを押す粳部。

「……」

 暫く待っても出なかった為、もう一度しっかりとそれを押す。

「……ん?」

 しかし、やはり誰も出ない。丁度藍川が家を出てしまっている可能性がある。または気楽に寝ているか。流石に引っ越してまだ日も経っていない為に、荷物の片付けに追われている可能性も十分にあり得るだろう。

 彼女が諦め気味にもう一度押そうとした、その時。

「そのインターホンは壊れてるんだ」

「……あっ!鈴先輩じゃないっすか!」

 夏の日差しをその身に浴びて、懐かしい人がそこに立っている。夏だというのに暑苦しい服を着て、昔と変わらない涼しい表情を浮かべていた。そんな様を見ていると周囲の気温が下がっていくかのような感覚を覚える粳部だが、それは錯覚だった。ここは暑い。

 藍川がこちらに歩み寄ってくる。

「久しぶりだな、田部」

「粳部です」

「川部」

「う、る、べ」

 そういえば、彼は昔からこんな人だったと思う粳部。名前に関してもボケているのか真面目なのかがイマイチ判断できない。どこかおっとりしている愛すべき変人。粳部にとっては高校時代の自慢の先輩。あの頃と変わらない雰囲気で藍川はそこに居る。懐かしいようで、極めていつも通りの彼。

 粳部と藍川は高校の同好会で二年間の付き合いがある。都市伝説同好会というお遊び集団、都市伝説と銘打っておきながら数か月でネタが切れ、実際の未解決事件について調べることが大半であったが。他にもちょっとしたエピソードがあり、親しい人物と言えるだろう。粳部の数少ない親しい人。

「丁度買い出しに行ってたんだ。待ったか?」

「そこまで待ってないですけど……暑いです」

「だろうな。早く上がれ」

 そう言うと藍川は鍵で扉を開け、暗がりの中へ粳部を招いた。日光の当たらないひんやりとした空気の室内は、日陰の素晴らしさを彼女に教えてくれる。玄関には冷房がないが、それでもこの日向の数倍は過ごしやすいことだろう。しかし、どこか薄気味悪い印象もある。何者かが潜んでいそうな、そんな影。

 彼女は藍川を追って中に入り、後ろ手に扉を閉めた。

「先輩と会うの三年ぶりですねえ」

「いや、『入院』を含めれば四年ぶりだ」

「まあまあ、細かいことは良いんですよ」

 そう言う粳部は入院していた一年をよく覚えていない。心が空っぽに、空洞になっていたあの頃の事どころか、精神病院に入院した日の事もよく覚えていない。不自然な空白の時間は彼女に不可解さと違和感だけを残し、今も心の片隅を漂っている。色んなことがあった筈だというのに。こうして再起した彼女の心は、ガランドウだ。

 藍川は靴を脱いで上がると前を向いたまま話しかけてくる。

「にしても、よく来てくれたな」

「来ないと思ったんですか?」

「五分五分と見てたからな」

「私を舐めてもらっちゃ困りますよ。先輩に呼ばれたら来ますって」

「そりゃ頼もしいことで」

 どこか懐かしいやりとりだと思う粳部。高校時代もこんな風に話をしていた。粳部の姉が居た時はこうではなかったが、部室に二人きりの時はこうだった。彼女は頭でも体でもそれを覚えている。喜びから手を握ったり開いたりを繰り返す粳部。

 しかし、彼女はあの時と比較するとその背中に違和感を覚えることを疑問に思っていた。何も変わらない筈だというのに。時間の流れが、少しだけ早くなっただけだというのに。彼女が大人になったからなのだろうか。昔には戻れないとでも伝えたいのだろうかと考える粳部。

 意識をシャッキリと切り替える。

「鈴先輩って今何の仕事してるんですか?」

「駄菓子屋を営んでる。奥行けば店だぞ」

 このご時世で駄菓子屋を経営する者は少ない。随分と危うい仕事を選んだものだと思う彼女。彼らしいと言えばまあ彼らしい職ではあるのだが、収入に難がありそうな職を選んでこの家に引っ越すというのは良い選択肢ではない。そこまで金銭的に余裕がある人だっただろうかと、彼女は疑問に思う。

「今時儲かりますかね?」

「勿論、売れない」

「……よくこんな家住めましたね」

 藍川が案内した客間は随分と広い。宴会を開くのであれば十分に人が座れる広さだ。玄関の靴が一足である以上、彼が一人で住んでいることは確定している。そんなイメージはないものの、もしかして実家が裕福だったりするのだろうかと考える粳部。それとも、この家が特別格安なのか。

「まあ、探せば掘り出し物はあるものさ」

 彼女は低めの机の前に置かれた座布団に乗り部屋を眺めた。この家の内装も外装もまるで和という概念が形になったかのようなデザインをしている。現代人の自分でも落ち着く感覚を与えるこの家はきっと何か特別なのだろうと彼女は物思いにふけっていた。便利かどうかは別として心は安らぐだろう。

 彼がどこかへ行こうとする。

「なんかつまみでも持ってくるよ」

「えっ?何かわざわざすいません」

「店に客が来ても個人的な来客は来ないからな」

「ぼっちっすねー!」

 彼はそう言われて微笑みで返すと、台所がある方へと歩いて行った。障子から見える庭はあまり整備されていないものの、侘び寂びを覚える自然が残っている。お寺のような静かで冷たい空気が流れているが、彼の家であるという安心感からか彼女に緊張はなかった。蝉の喧騒がもう遠くに聞こえる。

 その時、彼女は壁に掛けられていた掛け軸が気になる。

「……掛け軸の裏に、お札とかありますかね?」

 旅館やホテルは稀に、掛け軸や額縁の裏にお札が貼られていることがある。あれは何か過去に事件か何かが起きたからか、何か危険なものへの予防の為にあるか、それともただのデザインかの三択だ。彼女はそれを噂で聞いたことはあったのだが実物を見たことはなかった。もしかすると、この古めかしい家ならばそのお札があるかもしれないと思う彼女。

 彼女は昔の血が騒いでしまい、立ち上がると掛け軸の側に近寄ってその裏を覗いてしまう。

「わっ!本物じゃん!」

 そこには正真正銘のお札が貼り付けられていた。どう見ても年代物であり数十年前に貼られていたことは確かである。彼女の都市伝説同好会時代の感覚が戻ってきた。好奇心で胸が高まり、彼女はそれをチラチラと覗いて確かめる。

 その時、不意に背後から話しかけられる彼女。

「それ本物だぜ」

「うわあびっくりした!?音出して歩いてくださいよ!」

「それじゃ不意打ちにならんだろ」

「性格悪いっすね先輩……」

 お盆にクラッカーを並べた皿を乗せて彼が障子の前に立っている。素直に来てくれれば驚かなくて済んだというのに、意地の悪い人だと思う彼女。彼のそれはいたずら心というか何というか。まあ、勝手に掛け軸の裏を覗いて緊張していた彼女が悪いのだが。

「本物ってどういうことですか?」

「マジのモノホンってこと」

 そうなると、これは何か悪いものを封じる為のお札であることは確定する。だが、そうなるとこの穏やかな家で過去に事件が起きたということになる。事件か事故か、何なのかは分からないがそんなことあり得るのだろうかと思う彼女。

 彼が皿を机の上に乗せる。

「この家、五連続で事故物件なんだ」

「あんた正気じゃないっすよ!」

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