昇進試験前日。
何? これまで一日ずつだったのに二日前はどうしたかって? そこは特筆するような内容もなかったし飛ばす。強いて言うなら、
『ひょえ~っ!? おた、お助けっ!? 三種類になったら急に難しくなりましたよぉっ!?』
『いや、充分筋が良いぞピーター君。昨日始めて二日で三種類に挑めるようになったんなら上等だ』
『本当ですかぁ? ……だって』
『やった~っ! 遂に五色目をクリアしたよっ! どうよオジサン!』
『いやアレは比較対象がおかしいだけだ。というかどういうセンスをしてるんだアイツっ!?』
また逃げきれずに捕まったピーター君と一緒に前回と同じ訓練に挑戦し、例によって天才っぷりを発揮したネルが昨日に続いて二日で六色目に挑むくらいになってしまったことぐらいだ。
これに関してはピーター君のペースが大体平均値より少し早いくらい。本来
他に有った事と言ったら、
『これで……上がりです』
『あ~っ!? また負けたっ!? ……もう一回っ!』
『もう勘弁してください』
『そうだぞクソガキ。もうすぐ夕飯だからトランプを片付けろ。……よ~し出来たぞ! 今日は野菜たっぷり山菜鍋だ!』
実家で獲れた野菜が大量に送られてきたのでどうぞと、ピーター君がお裾分けしてきた野菜で鍋パーティーをしたくらいだな。
中々質の良い野菜だったが、ピーター君はどこか複雑そうな顔だった。毎月嫌というほど送られてくるらしい。これだけあれば色々と新作に試せるので実に羨ましい限りだ。
ちなみにネルとピーター君でやっていたのは、常時邪因子を流し続けないと絵柄が消えてしまうトランプ。この前
……何度もやってピーター君が邪因子切れ寸前になっていたのはご愛敬だが。
そして今日。
流石に試験前日という事で講義関係もお休み。十分に身体を休め、明日に備えようという訳だ。ピーター君も「流石に今日ばっかりはのんびりさせてください」と書置きを残してトンズラしたらしい。だというのに、
「ねえ。また訓練しようよぉ。昨日の続きで六色目をやるのでも良いし、オジサンと一対一で戦うのでも良いからさぁ」
「ダメだ。何度も言っただろ? 今日はしっかり体を休めて明日に備えろって。軽くストレッチをする程度なら良いが、それ以上はなし。ガキらしくたまには家でのんびりしな」
「む~っ」
やたらとせがんでくるクソガキをトレーナー(代理)として何とか抑え込み、時折おやつを作ったりトランプに付き合ったり(よく顔に出るネルなのでほぼ全勝)して宥めすかし、夕飯も食べてキッチンで後片付けをしていた時の事。
ピー! ピー!
「何だ? この音は?」
どこからともなく聞こえてくるアラーム。しかし聞き覚えがないな。一体何の?
「はいっ! はいお父様!」
そこへネルのどこか背筋の引き締まった声が響く。何だ通信か。しかしこれがネルが時折話題に出していたお父様か。少しだけ興味がある。
「はい! 体調は万全です。邪因子も……問題ありません。明日の幹部昇進試験。必ず合格して幹部になってみせます」
肩越しに振り返ってみると、ネルの声はいつもより少し明るく弾んでいた。それだけこのお父様の事が好きなんだろう。ただ、話している間に少しずつその顔が曇っていく。
「はい……はい。それでですねお父様…………いえ。何でもないです。はい……では、失礼します」
そうして通信を終えると、ネルは大きなため息を吐いてどさりとその場に座り込んだ。
「何か……あったか?」
「……オジサン。女の子の通話を盗み聞きするなんて、やっぱりロリコンヘンタイストーカーオジサンじゃん」
口ではそう言っているが、ネルはどこか寂しそうな顔をしていた。コイツ感情が割と表情に出る所があるからな。
「今のが……前言ってたお前のお父様って奴か?」
「そうだよ。オジサンよりよっぽど立派で強くて優しくて頼りになるあたしのお父様」
「そっか。……じゃあ何でそんな浮かない顔をしてんだ?」
ネルはそれを聞くなり自分の顔を手で触れて確認する。そういうトコがガキなんだ。
「オジサンには……関係ない話だし」
「嘘言え。本当に関係ないってんなら、なんで自分の部屋じゃなく
コイツはアラームが鳴ってからずっとキッチンの隣の居間で話していた。俺がキッチンで片づけをしているのにもかかわらずだ。
「聞いてほしかったんなら素直に言いな。何かそのお父様に言われたか?」
「……逆だよ。
ネルは肩を落として座り込んだままそう答えた。
たったそれだけと言われるかもしれないが、おそらくコイツにとっては重要な事なのだろう。なら、
「
「……えっ?」
「言わなきゃ伝わんねえことだってある。父親なんだろ? ガキが親に期待してねって、応援してほしいって頼むのは間違ってやしない。頑張るから期待してねって言えば良かったんだ」
そう当然の事を諭すと、ネルは何故か目をパチクリさせる。そんなに不思議な事か?
「でも……お父様にそんな事」
「……はぁぁっ。お前な、何遠慮してんだよ」
「ちょっ!? オジサンっ!?」
俺は大きくため息を吐くと、サッサとエプロンを外してネルに近づき、その髪を上からグシグシと乱暴にかき回す。
最初は抵抗していたネルだったが、すぐにおとなしくなって今はされるがままだ。しばらく続けると、俺は手を離してネルの前に膝を突いて目を合わせる。
「これまでもお父様に色々してもらってんだろうが。なら今更遠慮なんてせずにもっと欲張れよ。……それにな、
「……うん。ありがとう。オジサン」
ネルはそう言ってにっこり笑った。
「礼なんて言われる筋合いはないな。これも仕事の内だ。試験が終わるまで、お前が試験に合格できるよう手伝うってな」
「またまた照れちゃって! もう正直に言っちゃいなよ! あたしのこの魅力にメロメロになっちゃったんでしょ? オジサンったらもぉ! ……試験が終わっても、あたしの世話係をやりたいんでしょ?」
ふざけんじゃないってのと軽く返そうとした時、ネルの表情に真剣さが混じっているのに気が付いた。なので、俺も真剣に答える。
「いいや。試験が終わったら合否に関わらず仕事は終わりだ。俺はまた第9支部に戻る。それは曲げるつもりはない」
「……そっか。ざ~んねん」
ネルはゆっくりと立ち上がると、頭の後ろに両手を回してすっと自室に歩いていく。そして部屋に入る直前、
「じゃあオジサン。あたしが幹部になるのは当然だけど、試験に合格したらご褒美ちょうだいっ!」
「ご褒美? それこそお父様に頼めよ。まあ一応聞くだけ聞こう」
「あたしが試験に合格して幹部になったら……
そうだったか? 確かに内心では名前で呼んでても、実際は名前で呼ぶ事はあまりなかった気がする。
「そう言えば……そうかもしれないな。なんだかんだ初対面がアレだったし、何となくクソガキ呼びが定着してた。だが良いのか? それくらいなら今からでも言ってやるぞ」
それにご褒美と言うからには、ネルなら専属の下僕になれとか言ってくるかと思ったんだが。そう疑問に思うと、ネルはふふんと得意げに振り返る。
「分かってないなぁ。名前で呼ばせるだけなら簡単だけど、ご褒美としてあった方がよりやる気が出るでしょ? あとオジサンを専属下僕にするのをご褒美にしたら、
「……何だよその謎のこだわりは」
「良いから。どうオジサン? このご褒美で受けてくれる?」
上目遣いにキラキラした目でこちらを見つめるネル。つい一週間前の自分を追い詰め過ぎて飢餓状態にまでなっていた頃とは大違いだ。……仕方ない。ついさっき遠慮せずに欲張れって言っちゃったしな。
「良いだろう。お前みたいなクソガキがそう簡単に試験に受かるとは思えないが、もしもだぞ。もしも受かるような事があったら、次からちゃんと名前で呼んでやるよ」
「ホント? ホントにホント? やったぁっ! じゃあ、約束ね!」
ネルははしゃぎながらこちらに小指を出してくる。これは、
「この前買ったマンガで見たのっ! こうやって約束するんでしょ? オジサンも早く小指出して」
「え~やるのか? 別に口約束だけでも破ったりは……分かった分かったって。そんな目で見るなよ。形から入るんだな? ……ほらっ」
俺達は小指を絡ませ合う。そして、
「「指切りげんまん噓ついたら針千本の~ます」」
勢いよく宣言し、ネルはそのまま指を離す。
「へへっ! 約束だよ!」
「……ああ。約束だ」
離したその指には、どこか温かみが残っていた。
まるで約束の証のように、ほんのりと、だけどしっかりと。