血? 誰の? ……この状況では考えるまでもないか。私は脇腹の辺りに手を当ててみると、その手は血で真っ赤に濡れている。
私は素早く飛びのいてクラウンから距離を取るが、そのまま酷い動悸とめまいに襲われて立っていられなくなる。……これは、毒? やはりナイフに毒を仕込んでいたようね。
「……はぁ。はぁ」
意識が朦朧として動けない私の所に、クラウンが余裕たっぷりに歩いてくる。敢えてゆっくりと、焦らすように。
「苦しいですか? 苦しいでしょうねぇ。私が調合した特製の毒ですから。……安心してください。この毒は相手をすぐに死に至らしめる力はありません。ただし一度体内に入れば、しばらくの間意識が混濁してまともに動けなくなります。……も~っと苦しんでもらいますよ。混血風情が私に手間をかけさせるなんて、その分の償いをたっぷりとしてもらわないと……ねっ!!」
その言葉が終わるか終わらないかと言う時に、クラウンは私の身体を蹴り飛ばした。回避することも出来ず、私はその衝撃でゴロゴロと転がされる。口の中に砂が入り、ゴホゴホと軽く咳き込む。
「いやあ貴女のさっきの表情は見ものでしたよエプリ。必殺の一撃を決めたと思った瞬間、その相手がいなくなって呆然とする姿。そして私に脇腹を切られ、毒で苦悶する歪んだ表情。少しは留飲も下がるというものです」
クラウンは何とか耐えるべく丸まる私の身体に再び蹴りを入れながら、心底楽しそうにそう語る。何とか動く視線で周囲を探るが、またセプトはどこかの影に身を潜めたようだ。ゴホッと咳き込んだ中に血が混ざっている。……どうやら口の中を切ったらしい。
「ねぇ。どんな気分ですかぁ? わざわざ私にトドメを刺すチャンスを自分からふいにし、挙句の果てにその相手に逆に追い詰められているなんて。さぞ悔しいでしょうねぇ。屈辱でしょうねぇ。……クフッ。クフフフフ。クハハハハハハハ」
クラウンは聞くに堪えない嫌な高笑いをし始める。だがその間は蹴りが落ち着いているので好都合。今の内に何でこうなったのか整理する。
さっきのセプトが突然消えたのはよく考えればすぐに分かる。このクラウンの仕業だ。クラウンは“風壁”で押さえられてはいたが、空属性で移動するだけなら容易なのだ。
“微風”で出現先が分かるとはいえ、それはそちらにも注意を向けていればの話。あの時私は完全にセプトに向けて集中していた。そのためクラウンの動きを見過ごしたのだ。
さらに言えば、慣れない近距離戦をしようとしていたという事もある。相手の意表を突いて一気に仕留める作戦だったが、慣れない分こちらももろに影響を受けてしまったという事だろう。
「クハハハハ……さあて、留飲も大分下がったことですし、そろそろトドメと行きましょうか」
散々私を蹴り飛ばして少しは気も晴れたのか、最後に蹴りで私を仰向けにすると、クラウンは少し晴れやかな顔でナイフを逆手に持ち替えた。倒れている相手を刺すならこちらの方が確かにやりやすいだろうな。
……そう。この瞬間を待っていた。クラウンが蹴るのを止めて私にとどめを刺そうと
「……ニッ!」
「しまっ!?」
丸まりながらも必死に取り出して口に咥えていた逆転の一手。完全にとはいかずとも多少なりとも解毒出来そうな瓶型の飲み薬。俯せでは体勢的に吐き出しかねず、かと言って普通に仰向けになったのでは邪魔される。
あとはクラウンが驚いている間に飲み下すだけ……だったのだが。
「……くっ!?」
その瞬間、横から影の刃が薬の部分だけ打ち払った。薬はそのまま瓶ごとコロコロと転がり、一部にヒビでも入ったのかじわじわと地面に漏れ出していく。
「クフ。クハハハハ! 良いですねぇ! 実に良い仕事をしましたよぉセプト。……どうです? 一瞬でも逆転できるかもと脳裏にちらつきでもしましたかぁ? しかし残念。……結果はこれこの通りです」
まだ身体は酷くふらつき、立ち上がることも難しいこの状況。オリバーの昔言っていた様にギリギリまで足掻いてみたけど……どうやらここまでのようらしい。
ナイフを振り上げるクラウンを、せめてもの抵抗で睨みつける。腕も脚もまともに動かないけれど、最後までコイツに屈するつもりは無い。……傭兵を始めた時からいつ死んでも良いように覚悟はしてきた。元雇い主に殺されると言うのも傭兵らしいと言えばらしい最期だ。
……強いて言えば心残りは二つある。一つ目はオリバーのこと。あの憎たらしい老人に、遂に一度も魔法で勝つことは出来なかった。いずれ色々とお返ししてやろうと思っていたが……残念だ。
もう一つはトキヒサのこと。契約自体はあそこで終了しているけれど、一つだけまだ約束が残っていた。自分が何故トキヒサのことを護ろうとするのか。それについて少しだけ話すという約束。
……これに関しては、ある意味約束を守れない方がこちらにとって都合が良かったかもしれない。だって、それは決して
これはただの意地だ。以前私に「綺麗だ」と言って裏切った男への単なる当てつけだ。
……私は裏切られた。そして目の前には、その時の奴と同じ言葉を言う
……それじゃあ奴と同じだ。だから私はトキヒサを見捨てない。
あぁ。クラウンのナイフがギラリと月明かりを反射しながら、こちらに振り下ろされるのが見える。やけに動きがゆっくりに見えるのは、もうすぐ死ぬから感覚が非常に鋭くなっているからだろうか? 仰向けになってまともに動けない私の最期の景色は、どうやらこれと空に浮かぶ月だけのようだった。
……やはり最後に、直接トキヒサに別れを言っておくべきだったかな。これで最期だというのに、心残りが三つになってしまった。
「……どうせ死ぬなら、最期に、もう一度アナタの顔が見たかった」
そうぼそりと呟いて、丁度心臓の辺りに迫ってくるナイフを睨みつけていた私だが、ふと妙なことに気づく。クラウンの立っているあたりに変な影があるのだ。
最初はそんなに大きくなかったのだが、少しずつ大きくなってクラウンの半分くらいのものになっている。つまり月明かりを何かが遮っているという事なのだが、ここにはそんなものは無いはずだ。一体何が……。
「…………むっ!? 何です?」
クラウンも何かに気がついたようにナイフを止めて頭上に注意を向ける。そこにあったのは、
「…………ぁぁぁぁあああああっ!? ど~~い~~て~~く~~れ~~!?」
凄まじい勢いで空から降ってくるバカ。……もとい、最期の瞬間に一目見たいと思っていた男。契約も終わり、もう私とは関係のないはずの元雇い主。私が混血だと知っても一緒に行こうと言った変わり者。この世界とは違う世界から来た『勇者』。
トキヒサ・サクライが上空から降ってきて、
私もその次に近くにいたので衝撃が来るかと思ったのだが、運よくクラウンが盾になった形でそこまでダメージは無い。ちょっと服が砂まみれになって、口の中がじゃりじゃりする程度で済んだのはかなり幸運だった。
そして明らかに相当高いところから落ちたであろうトキヒサ本人はと言うと。
「…………アイタタタ。全身がメチャクチャ痛い。具体的に言うと、エプリに“竜巻”で錐もみ回転を食らって顔面ダイブした時より痛い」
それはそうだと思う。どうしてこうなったのかは知らないが、どう少なく見積もってもあの時の数倍以上の高さから、あの時以上の勢いで墜落したのだ。常人ならほぼ確実に命は無い。それなのに痛いで済んでいるトキヒサがおかしいのだ。
「…………フフッ」
こんな状態だというのに笑ってしまう。……まったく。月に願いを呟いたら、会いたいと想っていた相手が空から降ってくるなんて。まるでおとぎ話の世界のようで……私の最期にしては上出来過ぎるくらいのものだ。
そんな私達を、三つの月はただただ照らし続けていた。