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【八塚の蟲・7】

荒瀬さんの妹というのは、かなりのおてんばだったという。幼いころから、兄である荒瀬さんの後ろにくっついて、草野球やら山登りやら、それはもう少年の様に遊び転げてきた。それは成長してからも変わらず、高校に上がっても、駅前のゲームセンターに友達とプリクラを取るよりかは荒瀬さんの後ろをくっついてきた。


そんな妹が、荒瀬さんは可愛くて堪らなかった。


いくらか年が離れているのも、それに拍車をかけた。


「妹が八塚の姫と成って、一度だけ会えたのです」


妹さんが、どうしてもと駄々をこね、そして実現したものだった。この時代に、携帯もネット環境も、それどころか手紙も電話も取り上げられていた妹さんは、直接会うことでしか会話ができなかったという。

それはきっと、八塚家が蟲のことを洩らさせないためにさせていたことだろう。

荒瀬さんと妹は、八塚家の本家から離れた、とある分家の屋敷で顔を合わせた。両親より、妹さんが望んだのは、兄である荒瀬さんとの面会。


「そこで、まあ、その。今の話を聞いてようやく合点がいったのです。あの時、妹が私に伝えたかったのは、どんなことだったのか」


妹さんとの、最期の会話。他愛もない、お互いを気づかう会話のその最後。これでもう帰るという妹さんと、これでもう会えないとは知らない荒瀬さん。

荒瀬さんの腕を掴み、しばらく会えないからと笑って、悪戯っぽく抱きついてきた妹。その唇が、彼の耳元で囁いた。


「あのね、兄さん」

「うん」

「私ね、歴代で一番、上手に捨てられたんだって」


一瞬、何の話だったのか、荒瀬さんはずっと分からなかったという。その時はただ曖昧に頷いて、これが別れだとも知らないで、名残惜しさを僅かに漂わせて、荒瀬さんはその場を去った。

妹さんは、笑っていたと言う。


「やっと分かりました」


荒瀬さんは、どこか呆れたような表情だった。


「あの子が、指を、捨ててしまったんだ」


「えっ、でも、指は壺に……」


私が言うと、荒瀬さんは返す。


「君のお母さんは、壺の中に指があることを知っていた。つまり、一度でも儀式に参加したことがある人なら、似たようなものを作ることは可能なのではないでしょうか? 形だけ、そっくりなものを作って、壺に入れてしまうのだって、難しくはないはずです」


なるほど、と言いたげに、荒木さんが笑った。柔和な皺が刻まれて、その皺に似あわない泥の煮えるような笑い声が、妙に耳に残る。


 そして彼が語りだしたことは、正直な話。母さんにとっては複雑極まりない、厄介な予想だった。


 先代の八塚の姫が死んだとき、誰かは思った。もう、これ以上、死人を出したくない。そう例えば、自らの娘を差し出すなんてことは、まっぴらごめんだ。


 どうすればいい。怪しまれずに、指を捨てるには、どうしたらいい。


 だれかは、考え付いた。姫となる年頃の娘たちに、そっと噂を流した。儀式で使われる道具は、手に入れたらすぐ捨てなくてはいけない。それも、だれにも見つからないように、こっそりと。それで、儀式は完了する。


「おそらく、それこそが、狙いだったのでしょうな」


荒木さんは、静かに言う。


「荒瀬君の妹さんは、自分が手にしたものの意味を知らなかった。儀式の完了のために、手に入れたそれを、どこかへ捨てた。結果、八塚の蟲は解き放たれ、八塚の姫は永劫に生まれなくなる。蟲はどこぞの誰かに憑くかもしれないが……八塚家とはもう関わらせない。それが、狙いだったんでしょうね」


蟲が消えれば、姫はもう生まれなくなる。八塚家の成長は止まるかもしれないが、その成長が無くなっても困らないほど、八塚家は大きい。


「春江、と言いましたか。彼女は、貴女方家族を巻き込んで、終わらせたのです。八塚の蟲と姫にかけられた、長きにわたる呪いをね」

「代わりにこの子が呪われてちゃ、意味はないわ」


厳しく言う母さんに、白い何かはぽつりと言った。


「そんなことはしない」


私は、不思議とそれを、信じてみたく思っていた。だって、私が視線を合わせるだけで、これほど幸せそうに笑う存在なのだ。私を害するつもりは、恐らく、ない。

それにとりつくことで必ず他者を害する存在になるとは、限らない。

だけど。


「なら、なぜ、荒瀬さんの妹さんは亡くなったの? 妹さんの持った指は、偽物だったのなら」

「偽物じゃなかったんでしょう」

「あ……」


 そうだ。違う、違うのだ。荒瀬さんの妹は、現に、死んでいる。


「偽物じゃなかったとしたら、途方もなく、私には、私たち家族には、屈辱的だ」


 獰猛に笑う荒瀬さんに、思わず冷たい汗が背中を伝う。

 ああ、そうだ。もし、もしも指が偽物だとして。もし、妹さんが、本当は20歳で死ななかったとして。もし、指をすり替えた誰かが、それが偽物の指だとわからないようにするため、最後の姫が死ぬように仕向けたとしたら、それは。


 私は、私たち家族は、みなまで言えなかった。


 荒瀬さんはただ、笑っていた。


 白いのは、いや。蟲は、揺れている。そして、いとしそうに、私の名を呼んだ。


「えみ」


 その優しい声に、涙がこぼれかけた。真相は、おそらく、わからないままだ。


 この何かが何なのかもきっと、正確には、わからない。ただ一つ確かなのは、ぞっとするほど静かな荒瀬さんと、楽しそうな荒木さんと、その間にいる私たち家族がこれからどうしていかないといけないのか。

 それをしっかり話し合う必要だけは、ありそうだった。

 一番年下の私の提案を、大人たちは受け入れてくれた。

 結果として、私たち家族は、荒木さんの家に厄介になることになった。あの時、祖父が私たちを逃がしたのは、せめて家族で暮らせるようにするためだ。八塚家にとって、私たちは、触れてはならない禁忌に等しい。

 だからこの先、徹底的に不干渉を貫くだろう。

 けれどその不干渉が、どんなことをしてくるかわからない。なにしろ、荒瀬さん一家が八塚家に関係ない存在だとしてしまえるくらい、彼らの影響力は強い。


「おそらく、家財の整理などを通して、最後の接触を試みてくるでしょう。私たち家族の時も、そうでした。父の働き先まで世話していましたから……きっと、徹底的に、縁切りをしてきますよ」


 荒瀬さんはそう言うと、どこか寂しそうに笑う。

 その目は、白いのを、すっと見つめていた。


「それが何なのか、わからない。それでも、そばにいて、いいのかい?」


 聞かれて私は、首を横に振る。わからなかった。

 構わないのだけど、もう無理なような気がした。


「離れる方が、きっと大変だから。それなら、近くで、ちょうどいい距離を、探したいと思います」


 それが本心で、とりあえずの策だった。

 しばらく黙った荒瀬さんが、小さくうなずく。傍らのしろいものは、相変わらず、私を愛しそうに呼ぶ。



「えみ」




 これが、なんなのか。理解する日は、おそらく訪れないと思う。




 耳を犯すような甘い声は、すっかり私にとり憑いて、とろりと融けてしまったようだった。

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