目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第79話「将棋」

2023年4月の日曜日。神楽りおは、恋人の泉岳きらりと一緒に、長空市内にある予備校の説明会に参加していた。本気で合格したいのなら予備校に通うのが良い。二人で話し合って決めた。きらりは夏期講習から、りおは今月から。


泉岳家は互いに良い影響があるうちは二人の交際を容認したかった。優秀な者と共にいて腐らないのは良い傾向だと思う。


神楽家も同様だった。


説明会の後、りおの父親は、きらりの父親をランチに誘った。娘二人はどこかへ遊びに行かせて。きらりの父親は、娘が泊まりに遊びに行く相手方の御家だから断らなかった。


りおの父親は、拙速に娘達を議論などせず、自分の人柄を伝えたのだった。きらりの父親は卒なく大手に就職して、20代で結婚して、もう10年以上課長をしている。平社員の長いりおの父親の人物像は直ぐにわかった。


「可愛い子に旅をさせています…」


そう言って、喫茶店のナポリタンを口に運ぶきらりの父親に、りおの父親は、


「今に魚が一番美味しくなります」


と言った。自分の事なのか、娘の事なのか、思わず笑ってしまった。




まだ桜の散っていない大通りを歩いていると、りおときらりは長空市将棋センターの前で偶然、三栖じゅえりに会った。


「こんにちは。大会前の特訓で長空市将棋センターに来ました」


じゅえりが挨拶すると、きらりが、


「こんにちは。ご苦労さんだね」


と言う。


「デート中失礼しました」


じゅえりは、挨拶だけしてビルの2階の長空市将棋センターに吸い込まれていった。りおは、きらりと腕を組んで歩き出した。桜の花がヒラヒラと舞う宙を頭上に、足でアスファルトを踏みつけて一歩一歩。


「りお。昼は何がいい」


「…麺類」


きらりは、陽だまりの交差点に一軒あったかなと思った。過去の時間ループでは部活動と勉強とのバランスを取り損ねる二人だったが、時間の巻き戻しの無くなった世界で、予備校に通うなど万全の対策を立てるのだった。




じゅえりは2年生に上がったばかりで部活動も一番楽しい時期だろう。将棋部の大会は1年生の頃から都大会ベスト8の常連だった。次の目標として堅実にベスト4を目指す。


長空市将棋センターで、三栖じゅえりは席主に挨拶をした。


「お久しぶりです。また対局に来ました」


「毎週来てくれるね。早く三段になれるといいね」


小学生が多い将棋センターでじゅえりは人気者だった。小学校低学年の女の子が、


「5級に上がりました。一局教えてください。飛車落ちがいいです。二枚落ちは嫌です」


と言う。


席主は、


「それじゃ三栖さんの練習にならないでしょ。二枚落ちにしなさい」


と言うのだった。


そして二枚落ちで対局をする。


静かな将棋センターで駒音が鳴る。


対局中は無言で指していた女の子は、終わって感想戦をしていると、


「三栖さんは彼氏作らないの?」


と言う。


じゅえりは微笑んで、


「好きな女の子がいるのよ」


と言う。


「私と一緒だよ。三栖さん好きだよ」


「手が届かないのも一緒だね」


女の子はウフフフと笑って、嬉しそうに感想戦の続きをした。感想戦でよく棋譜を覚えている女の子だった。きっと強くなるだろう。


その日は将棋センターで何局も指して、帰宅した。


学校では相変わらず将棋の本を熟読しているか、浦川辺あやと雛菊さやの会話に交ざるか、いずれかが多かった。


あやは、


「将棋部の大会が近いんだよね。三段を目指しているんだよね」


と言う。


「あれ?そういう話をしましたっけ?」


「あぁ…ちょっと小耳に挟んだんだよ」


「あや様も将棋に興味があるんですか?」


「そうだね!楽しそう!」


「ルールを覚えましょうよ」


「ルールなら知ってるよ。銀が横に動けないんだよね」


じゅえりは、鞄から折り畳み式の将棋盤を出すと、


「まだお昼休みも時間があるので一局指しませんか?」


と言って机に置き、駒を箱から出した。


あやは、


「並べ方がうろ覚えだね」


と言って、笑った。




将棋部は4月16日に高校将棋選手権大会の東京大会、その予選会があった。予選会は2連勝で勝ち抜きが決まる。試合は2試合で負けが許されない。昨年11月の大会で東京都ベスト8だったじゅえりは予選免除で本戦シードだった。


長空市は長空北高校で予選会が行われた。市内の高校から将棋部員が予選会に来た。じゅえりも他の部員達の応援で長空北高校の学生会館に来た。


「あ、三栖氏も応援に来てくださいましたね」


予選会は午前中に行われた。


春の木漏れ日で日当たりのよい学生会館2階の窓際。静寂と鳴る駒音で眠りに誘われた。応援のじゅえりは思わず椅子に腰かけたまま居眠りをしてしまった。将棋を通じて他者と接点がある。この日も大勢の高校生が目の前で将棋を指している。日曜日の午前中は、つい眠くなる。せっかく他校の将棋部員も来ているのだから、友達作りをすればいいのに。ただ空間に大勢いる事で満足して居眠りなどしてしまうのだった。夢の中では学校の友達との時間が思い出された。


「折り畳み式の将棋盤を持ち歩いているんだね!いいね!」


あやとはすっかり仲良くなった。あやは好事家のじゅえりを気に入っていた。パチパチと鳴っていた駒音が次第に止んで、対局を終えた者が他の対局を観戦し始めた。じゅえりが目を覚ます頃には、2連勝した者と、そうでない者の明暗がはっきりしていた。


長空北高校は部長だけが2連勝した。


部長は、


「あ、三栖氏は昨年度中学竜王の椿氏が、今年は新1年生として選手権大会に出る姿を瞑想していらっしゃった」


と言う。




翌週4月22日の土曜日は、じゅえりと将棋部部長で本戦に出場した。じゅえりは女子の部ではなく男子の出場した。昨年度中学竜王の椿とは、昨年に行われた中学将棋竜王戦で全国優勝した椿という女子だ。今年か高校将棋選手権大会の東京都大会に出場するという事だ。新1年生で予選免除ではない椿は、杉並区の予選会をぶっち切りで通過して本戦出場した。アマチュア五段だという。


会場は練馬区の文化施設だった。


部長は本戦2回戦で敗れてベスト32だった。3回戦を勝てばベスト8という対局で、じゅえりは相手の右四間飛車を三間飛車穴熊で粉砕して快勝した。


準々決勝はベスト4進出がかかった一局だった。対戦相手は、振り飛車穴熊が得意なじゅえりに対して中飛車の超急戦で挑んだ。最新の定跡をマスターしていた対局相手と一進一退の攻防の末、


ビシッ


と指した後手9一玉が間に合った。中盤で指した後手5一金が絶妙で対戦相手は寄せきれず敗れた。


準決勝は居飛車穴熊相手に、序盤で運よく駒得をして逃げ切った。準優勝以上が確定したじゅえりに、対戦相手は、


「また自滅してしまった」


と呟いて、悔しがっていた。じゅえりは快進撃だった。顧問の先生は「強くなったね」と褒めていた。決勝の相手は椿だった。


下馬評では椿の圧勝だった。二段と五段では、五段が勝つだろうと。


その事を椿に言うと、椿は、


「準決勝で三段に勝っている」


と呟いて、終わり。椿はベスト8以降の対局はよく観戦していた。準決勝で椿と同門対決だった同じ高校の部長は、


「駒得しても三段の寄せを躱して、三段を寄せるのは三段だよ。強くなったんだ…」


と言っていた。




決勝戦でじゅえりと椿が対局する。じゅえりが椅子に座って待っていると、女子同士の対決という事で注目が集まった。3位決定戦、5位決定戦と7位決定戦も同時に行われた。部長も、応援でやって来た長空北高校の部員達も固唾を飲んで見守っていた。


少し遅れて、椿が来て、


「…よいしょ。よろしくお願いします」


と言う。


じゅえりが、


「よろしくお願いします」


と言うと、振り駒をして対局が始まった。椿の先手だった。椿は先手5七銀の形にして急戦を匂わせてから、6六歩~6五歩と突いてきた。この戦形は六筋位取りという。振り飛車の変則的な指し回しに対して好んで使うアマチュアの高段者はいる。椿がじゅえりに下した判断は「トリックアートのような指し方をする人」だった。


特に準々決勝で、駒と駒がぶつかってから後手3三桂と跳ねた手でそう判断していた。安全に勝ちたかったら通常やらない手をあえて指した理由が、別に終盤が非力だからというわけではないという事で、要警戒だった。


対局が進み、後手が6二飛車と回って激しい攻防が予想された時、ここで初めて椿は時間を使って悩み出した。じゅえりは椿をジッと見ていたが、椿はじゅえりに目もくれない。何を悩んでいるのか。


ビシッ


と指した次の一手が9八玉だった。戦場から取られてはいけない駒を遠ざける手。じゅえりは少し悩んで時間を使ってから、6筋の攻防を開始した。銀冠が間に合わないのだろうと思った。


次第に形勢が傾き、やはり椿が有利かと思われた。じゅえりは終盤に大きく時間を使い守りの手を指した。難しい局面で最善手と思われる。これでどうだというじゅえり。これに対局中初めて椿は、


「…うん」


と声を唸らせると、ビシバシと次の手を指していき後手玉を寄せ切った。


じゅえりが、


「参りました。投了です」


と言うと、観戦者達も「おぉ…」とどよめいた。椿は、この日はじめて笑った。しかしすぐムスッとして駒を並べ直した。じゅえりが、


「どこが悪かったですか?」


と言うと、椿は、


「中盤から終盤に入る際の形成判断を間違えたね。不利な変化に自分から突入したね。終盤は最善手が多かったからむしろ読み通りだった」


と言いながら、少しだけ解説してくれた。最後に礼をして全ての対局が終わった。




夕方の表彰式前に会場の2階ロビーでお茶を飲んでいると、


「三栖さん。写真を撮りましょう」


と声がした。


椿はじゅえりを探して2階ロビーで話しかけた。


「女の子同士で決勝戦が出来てよかったです」


椿がそう言うと、じゅえりは、一緒に椿の自撮りに映った。椿は、対局中とは打って変わって嬉しそうに笑うと世間話をしだした。本当はよく喋る子だった。


じゅえりは大会から帰宅すると、携帯電話のメッセージアプリにきらりからメッセージが届いていた。


「大会、お疲れ様」


じゅえりは、何かあったのかなと思いつつ、


「準優勝でした」


と送ると、


「やったね」


と返事が来た。じゅえりはアプリを閉じると、次は5月の高校将棋竜王戦だなと思って意気込んだ。


きらりはインターハイの予選が始まったばかりだった。 

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?