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第68話「知恵の鬼道 前編」

2022年12月の日曜日。浦川辺あやは、母・みちよに連れられて、豊島区南大塚にある観音寺芸能プロダクションの事務所を訪れていた。従業員数一桁の小さなプロダクションだった。一度芸能界を離れると、子役時代に大河ドラマのキャスティングで声が掛かった事があろうと小さな事務所から出直す事になる。芸能界復帰の第一歩となる面談日だ。


母親のメルセデスベンツで住所の雑居ビルまで向かった。


雑居ビルの7階にある事務所のベルを鳴らして玄関ドアが開くと、スタッフが応対してくれた。省スペースな事務所でステージ衣装の地下アイドル達と思われる集団が何かを話し合っていた。廊下には段ボール箱が無造作に積まれていて倉庫と大して違わない。


あやとみちよが並んでソファーに腰掛けると、スタッフは地下アイドル達と打ち合わせをしていた社長・観音寺こはるを呼んできた。こはるは、母みちよと同い歳くらいの女性だ。


観音寺社長はあやと目が合うと真顔でジッと見つめた。


あやが自己紹介をすると、嬉しそうに笑い、


「貴方が浦川辺あやちゃんね。テレビに出てた頃より大きくなったわね」


と言って雑談を始めた。学校での様子や、家での様子などを話して、あやの人間性の一つひとつを確認してから、


「あやちゃんはボーカリストになりたいの?」


と聞いた。


「はい。俳優とは違った芸能活動をしたくて、歌に興味があって…」


「こんな事務所でいいの?」


「…えっと」


あやが、正直もっとマシな芸能プロダクションのお世話になりたいと思っていると、母みちよが深々と頭を下げたのだった。


観音寺社長は、


「あやちゃん。スタジオ行ってみる?」


と言う。


スタジオは事務所から徒歩5分の所にあった。そこには事務所にはいなかった俳優志望の大学生やソロ活動中のシンガーソングライター、子役など様々なキャストが談笑したり、大きな鏡に向かって自分の姿を確認したりしていた。ダンスレッスン中の者やボイストレーニング中の者もいた。


スタジオを見てあやは、少しホッとした。子役時代の大手プロダクションは自社ビルでスタジオと事務所が別の階にあった。小さなプロダクションだと事務所は雑居ビルにあるし、スタジオも少し離れた場所にある。


スタジオには、あやと同時期に活動した子役で今はシンガーソングライターの鈴木りかがいた。あやが最後にドラマ出演した昼帯のドラマで共演者だった。子役時代はあやのほうが断然売れていたが、鈴木はしぶとく芸能界に残って、歌手に転向していた。鈴木の芸名は「アイスマソ」と言う。


鈴木があやに気がついて、


「こんちは!」


と挨拶した。


「りかちゃん。浦川辺あやちゃんが芸能活動に復帰したがってるの。ボーカリストを目指しているの」


「どひゃ~!浦川辺あやが芸能界復帰なんてSNSに投稿したら万バズだ~!」


鈴木は、


「子役だった鈴木りかだよ!覚えてる?」


と言う。


あやは、


「うん。顔が変わってない」


と言って、懐かしそうに鈴木の顔を眺めた。鈴木は芸名も「アイスマソ」に変えて、渋谷の対バンライブに毎週出演している。「鈴木りか」ではどうにも行かなくなってしまった。鈴木は携帯電話で、自分のPRの為に制作した動画を見せてくれた。動画配信サイトに投稿した動画。


「アイスマンじゃなくて~!アイスマソ~!」


と言って鈴木が出てくる。その動画の内容は塩ラーメンRTAと言って、近所のスーパーで塩ラーメンを買って、帰って来て、調理して、食べ終わるまでの時間をタイムアタックする企画だった。夏なのに真冬に着るような白の厚手の長袖のパーカーを来て、熱中症警戒アラートの外を何度もダッシュする。動画のコメント欄にはシンパと思しきユーザ達の熱いコメントもあった。


鈴木は致命的な寒がりなのだと言う。確かに夏は暑いからと言って、半袖に半ズボン姿で出て来て「アイスマンじゃなくて」と言われても反応のしようが無い。寒がりだから真夏に雪だるまのような恰好をしていても汗一つ流さない。


あやは、


「いいね!凄くいいね!」


と言って鈴木を気に入った。


それから観音寺社長とよく話し合って、当面はレッスン生として、男子バレー部の活動と被らない時間帯に毎週日曜日の午後から夜までの間で歌と踊りのレッスンを専属コーチから受ける事になった。子役時代の実績を評価して、受講料は無料で交通費も支給される。


「本格的に決心がついたら、いつでも相談して頂戴」


観音寺社長は、芸能界復帰を考えるあやに親身になってくれた。あやは、一からまたやり直す感覚に浸って、今後が楽しみだと思った。同時期に子役だった鈴木が新参者のあやを直ぐに受け入れて明るく接したおかげでもある。


鈴木のマネージャーの晴男(はれお)という男性も、


「うん。なるほどね。あやちゃんは子役時代の知名度があるから歌をやってもすごく有利かな。鈴木も追い抜くつもりでいてくれたらいいかな」


と言って、あやが無料のレッスン生で入会する事を喜んでいた。晴男はあやの高校生活について根掘り葉掘り聞いては、楽しそうに相槌を打って笑った。


あやと母・みちよが、諸々の書類にサインをして帰路につくと、観音寺社長、鈴木と晴男が最後まで見送ってくれた。小さなプロダクションにしてみればブランクが4,5年あっても子役時代の知名度があるあやは金看板だ。民放企画のオーディション番組、これからプロデビューしたい歌手の卵に密着取材する系統のテレビ番組など。正しく売り込めば今すぐにでも可能性があると目論むのだ。


帰りの車内で、あやはみちよに、


「どうして観音寺社長の所にしたの?」


と聞いた。


みちよは、


「目で選んだのよ。人を育てる意志のある目。挫折した人がやり直そうと思ったら目をよく見て人を選ぶものだわ」


と言って、少し涙ぐんでいた。みちよにしてみれば、遂にこの日が来たという想いで一杯なのだ。スタジオに着いた瞬間のあやの明るい表情を見て、ひそかに安堵していた。そしてメルセデスベンツを器用に運転して帰った。




すっかり冬になった世界で、あやの時間が動き出した。あやは様々なきっかけを掴んで芸能界復帰を決断した。しかし、前田よしとが神楽りおにインストールした時空の鬼道によって万が一時間が巻き戻ったら、それもまたやり直しになる。鬼道は時空の鬼道以外にも様々だし、思わぬところに鬼道の使い手はいるかもしれない。


観音寺社長は人情味のある人物だが、何か表裏のありそうな感じがする人物だった。




その日の夜遅く。観音寺芸能プロダクションの事務所で、観音寺社長は、晴男を居残りさせて、


「晴男は気が付いたか?」


と聞いた。


あやを歓待していた時とは打って変わって、クールで重々しい空気を纏った観音寺社長。晴男に、倉庫同然の事務所のデスク越しに話しかけた。


晴男は、


「はい。そうですね。あやちゃんの脳天ですよね。鬼道が使われた痕跡です。目を疑いましたが間違いなく誰かがあやちゃんに鬼道を使いましたね」


と言う。


「誰かが時空の鬼道で悪戯を繰り返している事はとっくに気付いていたが、世界の何処で、誰が時空の鬼道を使っているのか見当もつかずお手上げだったな」


「はい。そうですね。こんな形で捜査が進展するとは思いませんでしたね。僭越ですが、観音寺社長は『知恵の鬼道』で確認しなかったのですか?」


観音寺社長は、ギロリと晴男を見てから、


「今日は浦川辺あやにとって特別な日だ。芸能活動を再開する第一歩。余計な話をして、今日という大切な日を濁らせたくない。あれは一度かけられた鬼道が解除された痕跡だ。痕跡が残る鬼道は一定期間鬼道がかけられたままになる系統の鬼道で、呪文も長く時間がかかる。時空の鬼道の可能性が高いが、それはつまり信頼する誰かに鬼道をかけられた事になる。全くそういう話をしなかったが鬼道使いの恋人でもいたのだろうか」


と言った。


晴男は、


「はい。そうですね。僕の『鏡の鬼道』より観音寺社長の『知恵の鬼道』の方が効率よく術者に辿りつけると思います。でも良かったですね。時空の鬼道の術者に辿り着けるんですね」


と言う。


「我々はプロだ。人から信用されるのが生業だ。次のレッスン日に事務所に呼んで、まず言葉で教えて貰う。その後、真偽を確認する目的であやちゃんに知恵の鬼道をかける。これで術者を特定する。術者がひよっこなら良いが、最悪の場合は凶悪犯で愉快犯だ。少し時間をかけた方がいいと思ったよ」


観音寺社長はそう言うと、晴男はニコっと笑って、


「はい。そうですね。でも時間ループ現象が解決するのであればよかったですね」


と言う。


観音寺社長は、晴男に、


「術者の悪性は晴男が鏡の鬼道で確かめろ」


と命じた。


あやは芸能界復帰の第一歩を踏んだ。観音寺芸能プロダクションには鬼道の使い手が2人いて、それぞれ知恵の鬼道と鏡の鬼道という。あやを芸能界に復帰させるべく尽力するのはもちろん、時間ループ現象の原因となった時空の鬼道の術者、つまり前田よしとを特定して世界の時間を正常にする事にも着手した。 

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