2022年11月。浦川辺あやは、男子バレー部の休養日に原宿に来ていた。友達や、誰かを誘って遊びに来たわけではなく。独りで、かつて芸能活動に忙しかった頃に好きだった街へやって来た。長空市からは電車で30分程かかる。
池袋、新宿、渋谷あたりと比べれば落ち着いた街並みに、ブティックが立ち並んで、人通りも激しいが、混雑というよりは賑わいという感覚の空間だ。10代くらいの女の子や、20代くらいのカップルが多い印象を受ける。
あやは秋の風の中を、住み慣れた街のように歩く。何か買い物をするわけでもなく、ただ街の空気に浸っていた。ゆったりとした歩調で、一歩一歩、旋風のような胸の内を運んでいた。
芸能活動に復帰したい。あやが最後にドラマ出演したのは11歳の時だ。夏休みの小学生達が、海に行ったり、夏祭りに行ったり、恋をしたり、喧嘩をしたりする昼帯のドラマ。あの頃に出会った他の子役俳優達と自分とで、芝居にかける情熱に少し意識が違ったかもしれない。
あやが芸能界を離れるきっかけとなったのは、その収録前の、翌々年の大河ドラマのキャスティングで主人公の幼少期役に選ばれた際の出来事だ。オーディションで決まった後の監督との打ち合わせで、
「君じゃない」
と監督からはっきり言われて降ろされた。監督は、オーディションの裏で当時所属していた芸能プロダクションのゴリ推しや、民放で流れるコマーシャルにあやを起用したスポンサーの利権関係があった事を苦々しく思っていた。実際に会ってみて、演技の微妙なズレ、良く言えばあやの個性が、大人になった主人公役の俳優と不連続すぎると指摘し、ギリギリのタイミングでキャストを、あやから別の子役俳優に切り替えた。
それはそれで大抜擢と話題になった。ただ裏でプロダクションがテレビ局と揉めてしまい、あやは公共放送の仕事から次々降ろされていった。それを自分の実力のせいにしたり、大人達のせいにしたり、悩んでいるうちに、芸能界自体が好きではなくなってしまった。中学は惰性で、私立の堀川学園中学に進んだが、その頃になると心が完全に離れていた。それが中学入学までのあやの精神だ。
朝ドラの主人公は演じてみたかった。
ドレスを着て海外の賞を受賞してみたかった。
そんな脚光の少し手前で自分の階段が折れ曲がって、もう上に登れない感覚の挫折。
子役として希少価値があっただけかもしれない。大人になったら、せいぜいサスペンスドラマで犯人役でもやるのだろうか。あるいはそれすら滑り落ちるのだろうか。数ある役者の中に埋没していくのにも血の滲むような努力を重ねる必要がある。それを自分のプロフィールを残念にするために誰が頑張るのだろうか。子どものあやにわかるはずもない。
浦川辺あやという人物に、非凡な役者という能力の高い自我があって、その一方で他の同級生と何も変わらない歳相応の自我がある。周囲の人物を、凡庸な同級生達を、群れの中で友達と受け入れて暮らしていられる構造だ。いつかどちらかを選んで生きて行かなければならないとして、能力の高い方の自我を選ぶことができない。怖い、辛い、報われない。能力の低い方の自我を育てて、それが身の丈だと思って、そのレベルで暮らしていくほうが懸命ではないのか。長空北高校は進学校だから、ありふれた大卒者の一人として、平凡な幸せを求めて。それが長空北高校に入学した当初のあやの精神だった。その平凡な幸せが、女性同性愛者のあやには、たとえば神楽りおのような人物を恋人にしたいという事なのだ。
神楽りおは、小説家を目指している。別に幼少期に周囲から才能をもてはやされていたわけでもなく、たとえばあやが手に入れたような高い能力の自我を持たない。自分自身を年齢と共に育てた単一の自我が、歳相応の夢と目標を掲げて、これから登る小説家という階段に期待と希望がある。
あやは、中学生くらいの女の子が通行人にビラを配っているのを見つけた。近くで新曲のリリースイベントを、あと小一時間したら行う予定のアイドルグループだと言う。
「見に来てください!」
アイドルグループと言っても、所謂地下アイドルというものだ。インターネット上のSNSや動画配信サイトでPR活動を行って、ファンからしたら直接繋がる事のできる存在として、歌ったり、踊ったりしている。CDを一枚買ったら握手が出来るとか、そういうビジネスで、芸能人だった頃のあやに言わせれば「ろくでもない商売」だったが。
あやは、
「有名?」
と聞いてみた。
ビラ配りの女の子は、
「5月の新曲は初動売上が週間でTOP10入りしました!7月にはワンマンライブも行って、これからもっと有名になれたらいいなと思っています!」
と笑顔だった。
「それが自分らしいと思える?」
「はい!いつか公共放送の朝のドラマでヒロインをやりたいんです!」
「それが自分らしいの?」
「はい!そうです!憧れてたんです!日々一歩一歩近づいている気がして!」
リリースイベントは無料だったし、別にCDを買わなければいけないという事もない様子だったが、あやは結局素通りして歩いて行った。
この原宿という街にも大勢の人が往来して、それぞれに歴史と言い分がある。そういう感覚で他人の話を聴きながら自分の進路を考えた事も、高校入学まではなかったなと思った。男子バレー部の仲間達の話も、もっと詳細に打ち明け合って話せたらいいかなと思った。今日偶然出会ったビラ配りの少女が、またほんの少しあやの背中を押して、あやはそう思えた。