2022年10月。この日は泉岳きらりが、三栖じゅえりの教室を訪れていた。きらりは、じゅえりを廊下に呼び出すと、単刀直入に話し始めた。協力してくれたお陰で、浦川辺あやにかけられていた鬼道が取り除かれた。まずその御礼を言いに来た。
じゅえりは、
「いいですよ。何度でもやってあげます」
と言う。ただきらりの顔を覗き込んで、少し嫌な予感がした。言いにくい事を言いに来たと顔に書いてある。
「きらり先輩。またカラオケに行きませんか?」
「三栖。今日は大事な用件があったんだ」
「はい」
「二番手に置いておくというのは嘘だ」
じゅえりは「え?」という顔をして固まってしまった。確か以前にカラオケに行った時に、きらりから「二番手だ」と言われた。疑っていなかったのだが。りおが一番、じゅえりは二番。じゅえりは、りおと競争しているつもりだった。
「何か間違えましたか?」
「すまない。時間を巻き戻す魔法は本当にあるんだ。どうしても解除したかった。りおの事しか好きじゃないんだ。三栖の事は利用してしまった」
じゅえりは、残念そうな顔をしながら、
「でも、そうやって本当の事を言ってくれるのであれば、私はもう少しきらり先輩を見て居ようと思います。時間を巻き戻す魔法があるのは驚きです」
と言って、自分の髪の毛をいじり出した。
きらりがしばらく黙っていると、じゅえりは語り出した。長空北高校に入学して、そこまで日が経ってないうちに、きらりが教室にやって来て友達になってくれた日から、今日までの事を。こんなに高校生活とは楽しいのかと思ってやまなかったと。将棋の指し方を教えて欲しいと言われたら、嬉しいと思っていた事も打ち明けた。
「友達でいて貰えますか。きらり先輩に言われた通りにしていたら、あや様をはじめ友達も増えました」
きらりは正直に、りおとの関係が大事な時期に入ったと伝えた。りおが、昨今は難しい考え方をしてきらりと向き合っている。花火大会の夜にりおがきらりに言っていた事も話した。りおの言う「きらりの心に分け与える」とは何だろうなと。
じゅえりは、ボーっと聴いていると、突然、
「昔漫画で読みました。暴れん坊の巨大ロボットの胸に、扉があって、扉を開けて可愛い女の子が入ってジッとしていると『あれれ?』暴れなくなるんです」
と言う。
「そういう事だと思いますよ。きらり先輩は少しやんちゃな所があります」
きらりは、キョトーンとした顔でじゅえりを見ると、
「三栖は頭が良いな。たとえばそんなような話か」
と言った。
「でもりおの望みは『サッカー辞めるな』だったぞ」
「私がきらり先輩の胸の中に入ってあげてもいいですよ」
きらりは小さく頷いて、
「今日は邪魔した。友達は友達だ。りおにも言っておく」
「きらり先輩の力になれてよかったです。あや様に遊び半分で関わるなと言われた事もあって悩みました。たとえばきらり先輩が卒業するまでの間、こんな接点があるならそれで構わない気もします」
じゅえりは、嬉しそうに教室に引き上げて行った。
きらりは、話のわかる賢明な者ではなくて自分ような短慮な者を、りおに選ばせてしまったと思った。そして、自分のものの考え方に備わっていない部分を、たとえば前回の時間ループで、口論から勢いで女子サッカー部を退部した事実を思い起こした。じゅえりは自分の賢明さが他人の幸福になる事を喜べる。きらりは野心の塊で、無能を蹴とばして辞さない。有能な者を好み、敵であれば妬む。気が付けば相手と運任せ。満たされていれば険が取れたように穏やかな事も言える。
しかし、自分とはそれだけではないと言える。
たとえばりおを大切にできるだろう。
そのように巣くった愛が、変わっていく自分を待っているというのか。
きらりが教室に帰ると、りおが足早に寄って来た。
「修学旅行だね」
教室を見渡すと、女子達が微笑んで自分達を見ていた。前回の時間ループで行った修学旅行で、全てが始まった。あの日まで言い訳ばかりだった学業成績も、少しずつ改善された。誰かが「泉岳は神楽さんと同じ部屋だから」と言う。
「うん。わかった」
きらりは静かにそう言うと、りおの横をすり抜けて自分の席へ歩いて行った。
りおが周りを憚らず追いかけて来る。
もう一人の自分の幻影が目の前に立ちふさがって、
「もうこの子に冗談を言うな」
と言った。
戯れに触れあっても伝わらない、分け与えたものがきらりの心で大切にされている姿を、得意の冗談は上から塗り潰すような醜悪に思えてしまって。
そんな事は無いと思って振り返った時、目に映るりおの顔が二重に見えてしまった。
「きらり。楽しみにしてたんだよ」
きらりは、こみ上げて来る感情を、熱を、自分ごと椅子に座らせて、
「そっか」
と呟くと、りおならなんて言うか、悩んで、
「恋人だものね」
と穏やかな声で言った。その瞬間だった、背中から奪った恋の自覚が、よりによってこんな時に湧いて来たのだった。前回の時間ループで、修学旅行の夜に奪った恋が、ここまで育った。このような血の通った時間を、体温に憩う空間を、分け合っていた恋人達を引き裂いて、自分が今まさに取って代わった事を不意に知った。
りおは、ハッとして、きらりを見て、
「うん。そうだよ」
と頷いた。思えば、ずっと姉妹の関係を擬制して交際していた二人は、いつの間にか恋人同士だと認め合った。それが言葉になって何も疑わない。ただりおは知らない。前回の時間ループで浦川辺あやと恋人だった事を。
「横山と田原と中嶋でいいよね。班のメンバーは…」
りおは、
「2日目は大阪がいい」
と言う。
きらりは、大きく頷いて、
「一緒に見て回ろうね」
と、また穏やかな声で言った。
りおは嬉しそうに、穏やかな声で話すきらりに、
「3日目のバスツアーも楽しみだね」
と言う。
きらりは、打って変わって背筋が震えるような感覚が、駆け巡って来た。やはり、このような事をしていても自分を偽っているような疑念が生じる。このような真似をしてりおを喜ばせるのも醜悪な冗談の範疇かとも思えた。
きらりは突然、
「…なんだ?心に分け与えるって」
とりおを問い詰めた。前後の文脈を叩き切って、思わず問い詰めた。
そして乾いた声で笑った。
何も分からない自分が自然と顔に出て来て。
「ごめん。りお。全然わからん」
りおは、
「どうしたの?」
と言う。
「りおが花火の夜に言った事の意味が全然わからないよ」
「きらり。私は…」
「何かわかりかけた気がしたんだけどなぁ…」
「きらり。花火の日はつい難しい事を言ってしまって…」
きらりは、
「言わないでいいよ」
と言うと、席を立ちあがって、
「独りになってくる」
と言い、そのまま教室を出て行った。きらりが残して行った、わだかまりを、あえてりおは滞りない返事だと思って、不安を飲み干した。
また秋が来た。
心と心の凹凸が音を奏でるような季節が。
きらりは、廊下で顔を覆うと、熱が戻って来た。
「『何かきらりを構成するの』だったかな…難しい事ばかり言ってくれた…」
そう呟いて、自分の二つ縛りの髪の片方に触れた。
じゅえりの言っていた事の意味なら、よく分かる。ああやって自分の分かったような意味で納得して構わないのなら、一つ思いつくことがあった。
きらりが教室に戻ると、りおが精一杯笑って、
「ごめんね。きらりにも気持ちがあるのに」
と言った。りおは思想を植え付けたがっていると、きらりは思った。それを叶えてやろうと思った。前回の時間ループで交際していた浦川辺あやから奪った恋。きらりが真実の恋人であれば必要な事だろうと。
きらりは、修学旅行の前に、部活が休みの日曜日に髪を切りに行った。
美容院で、伸ばして縛っていた髪を、肩にかからない長さのボブにした。
翌日の学校で、りおにお披露目した。
「どうかな?」
「似合ってるよ。私より、少し長い髪」
たとえば美容院代の5000円か、その辺りの金額で手に入る個性でもって、りおを喜ばせる事。安易だとは思わなかった。そうやって擬制的に自分が変わっていく様子を恋人に伝える事もサインだと思ったし、喜んでもらえれば、それでもって完成すると思える。
少し時が流れて。
修学旅行は、班の仲間達と一緒に、それでいて、りおと二人で手を繋いで楽しそうにしていた。写真も何枚も撮った。
きらりは二度目の修学旅行だった。前回の時間ループで共に過ごした時間と、今とを比べて、改めてじゅえりが言っていた意味を思い知った。自分とは、もっと粗野な事を言ったり、やったりしていた気がした。
2日目の夜に、横山みずきから、
「髪はりおに言われて切ったのか?」
と聞かれた。
きらりが
「違うよ」
と答えると、みずきは本当にきらりが自分の意志で髪を切ったかしつこく聞いて来た。きらりが「どうしてしつこく聞くのか」と尋ねると、みずきは、
「恋人に言われて髪を切ると結ばれないんだ。自分の意志で切ったんじゃ良かった」
と言う。
「なんだそれは」
「古い言い伝えだよ」
「彼氏に言われたらどうする気なんだ?」
「てつやはそんな事言わない」
きらりは、フッと笑って、
「それが言いたかったのか」
と言い、呆れた顔をした。
みずきは、
「それを言うか~!」
と笑った。
3日目の京都駅で、きらりはりおに、
「さては修学旅行で好きな人が出来たかな?」
と聞いた。
りおは、
「きらり」
と言う。
きらりは、
「今日も好き?」
と言う。
「好き」
「じゃあ明日も好き」
「いいですよぉ~!」
りおは、とても嬉しそうだった。二人の心で、二人のシルエットを、包んで。
優しく包まれたままのりおが、
「きらりが男の子好きでも構わない」
と言う。
きらりは、
「言うな。そんなはずないだろう」
と優しく言ってあげる事が出来たのだった。りおの本当の不安に触れて、その先に進んで行く決意を言葉にして。前回の時間ループのあの日から、徐々に奪い取った恋。その経緯を何も知らない恋人。いつか真実と重ね合わせても壊れない今が、未来でありますように。罪悪感を背中で感じても、嘘偽りない優しさを正面に、触れあって分け合う良心を信じる事で、もしも訪れるかもしれない審判の日に、
「私が恋人なのです」
と叫ぶことができるのならば。
あらゆる結末も、ならば仕方あるまいと受け止められる世界に違いないと思った。りおが沢山の女性同性愛者の中から最愛の人を選ぶべきだという考え方は、二つ縛りの髪と一緒に切り捨てたから。