2022年7月24日。夏休みに入った。神楽りおと泉岳きらりは、現代社会の課題レポートを書くために長空市立図書館に来ていた。テーマは社会福祉だったから、りおときらりは障碍者スポーツについて書くことにした。りおは、東京パラリンピックを取り上げ、スポーツ選手として活躍する障碍者の生活とそれを支える周囲について本で調べた。きらりは、身体障碍者の間で流行したボッチャというスポーツが健常者の間でも流行すれば、両者のタッチポイントが増えるなど思った事を書いた。
りおときらりは、午前中の涼しい時間帯に図書館にやって来た。まだいくらか穏やかな太陽の下を、時折吹く涼しい風を感じながら自転車をこいで。それがレポートを書き終えて、帰り足になる頃には蒸したフライパンの上のような地面にたじろぐ。
きらりは、
「1階の喫茶店で涼んで行かない?」
と言って、りおを誘った。
りおは、
「コーヒーくらいなら」
と言う。図書館1階にある喫茶店は高校生には価格が高く、敷居が高い。それでも、コーヒー1杯で3時間も粘れば、この熱波のような時間帯をやり過ごせる。7月下旬は午後3時頃になれば、またいくらか落ち着いた気温になる。
それから喫茶店で互いの事を沢山話した。この日はおでんの具について熱く語ったのだった。きらりは大根が一番好きだと言うが、りおはハンペンが一番好きだと言う。おにぎりの具についても、きらりは鮭が一番好きだと言うが、りおはシーチキンが一番好きだと言う。どちらが常識的かで少し言い合いになった。
日が陰って、帰る頃の時間帯になって、りおは、
「楽しいな」
と落ちついた声で言う。
きらりは、
「その言い方が面白い」
と言う。何か素っ気ない口調で言ったが、一人の人物を自分の為の存在にしていく感覚が最近はある。笑った顔も、カメラで撮影した一瞬の一枚絵というよりはむしろ、丹精込めて描き上げた絵画のように漸く描き終わるまで傍にいて貰う時間の産物だと自覚が湧いていた。きらりも、自分がりおの為の存在になっていかなければならないと思う。ただしエッチな事をするのは違うという事だった。それでも一瞬一瞬が愉しければ束になって、りおの中でもきらりという絵画が描かれるのだろうか。
きらりは、
「『ずっと一緒にいられるか?』とか、そんなような事をこの前、聞いたけれど、りおの事は分かって来たから、全然いいぜ」
と言った。
とっくに空になったアイスコーヒーのグラスに溶けた氷とストローが置き去りだ。
りおは、息を吸い込んで、
「なぁ~にを!言ってるの?!全然わかんないな!」
と冗談っぽく言って、大きく笑って見せた。きらりが、時折そうするように、冗談のように感情を詰め込んだ言葉をきらりにぶつけた。
喫茶店の空調のせいか、風のさんざめくような声が駆け抜けて、本当に少し困ったりおが、嬉しそうにきらりの眼に描かれていく。
きらりは、ページをめくるりおが決める心を、受け入れる事が出来たら、それで良いと思った。何枚も描かれていく為にいるりおが、自分の為にそうしている事を、足元に落ちている宝石を拾うのも億劫なくらい、柔らかな愛だと知る。気持ちとは別の心というものが、なんとなく浮き彫りになっていた。前回の時間ループで浦川辺あやからりおを奪った時に、あやから言われた事の意味に、追いつくような感覚は大嫌いだったが。りおは、その心に色があるとでも言うのか、りおは赤、きらりは青だと言うが。
きらりは、
「あぁ。それじゃサッカーの話でもするかな」
と言う。
りおは、
「きらりはエッチな事をするためにさっきから試行錯誤をしているの?」
と冗談を言う。きらりが「違う」と言って話し出すと、りおは楽しそうに話を聴いた。女子サッカー部は、夏休み中の練習試合で、7月下旬にインターハイを終えた高校と何校か練習試合が組めそうだった。そのうちの一つが、東京の文武創造学園だ。
きらりの話が終わると、今度はりおが書いている小説の途中原稿を鞄から取り出した。交通事故で一切の記憶を失った女の子が兄を恋人と勘違いする話である。以前にプロットをきらりに読んで貰ったものだ。
きらりは、
「出来上がったらコンクールに応募したらいいんじゃないのか?」
と言う。
りおは、コンクールへの応募は受験が終わって大学生になってからにしようと思っていた。高校生の間は、文芸部の活動の中で自分の実力を養成する期間だと位置づけていて。
「もしも結果が一次選考で落選だったら、落ち込んじゃうと思うから。実力がつくまで自分で修業していたい」
りおは素直に自分の気持ちを言った。半年や長い期間をかけて制作した作品に残酷な評価が下る事は確かに誰だって嫌だ。他の部活動の面々が大会等で自分の実力を他校とぶつけ合っている事を考えたら、弱気かもしれないが、実力から言って、まだそういう時期ではないと思っていた。今の実力を知ることに臆病だとも言える。
きらりは「ふーん」という顔でりおを見ていた。
りおは、
「きらりが読んでくれるだけでも嬉しいな」
と言う。
きらりは、
「作家を目指しているんだろう」
と言う。
りおは、
「そうだよ」
と言う。堂々とした表情は前回の時間ループでもそうだった。作家を目指す事自体は一切の恐れが無い様子だ。矛盾しているかもしれないが、目指すうえで臆病な所も堂々たる所も、要は夢という事なのだろう。たとえば男子バレー部の塩村や前田よしとが、高校生活の中で全国大会という目標や己の限界に挑む感覚とは全く違う。
きらりは、そこに優劣は無いと思えた。大切な夢を抱え続けるのも大変な事だ。きらりは前回の時間ループで自分のサッカーを途中で終わらせたからそう思う。
「読み終わるまで待ってて」
きらりは、一枚一枚の原稿を読みながら、読み終えたページに持っていた小さい猫のシールを一つひとつ貼った。
「猫のシールなんて持っているんだね」
「読んだ印」
きらりは、こうやって勇気づけていればいずれ「コンクールに応募したい」と言い出すのだろうかと思ったのだ。来年5月のコンクールへの応募は、この作品が順調に完成すれば間に合うかもしれない。きらりは、言葉ではなく、熱心に一つひとつ猫のシールを貼った。そこには夢を投げ出してしまう事が無いようにという願いも込められていた。
りおは、
「ありがとう」
と言う。
きらりは、りおの顔を見るのが少し照れくさかった。
りおは、
「練習試合も頑張ってね」
と言った。
きらりは、りおを見ると、両目をジッと見た。
りおは、胸を焼き尽くすような熱さを感じた。
きらりは、りおの夢を応援している。出会いと別れが帰責性の無い所でやって来るとして、将来の前に無力な今、出来る愛情とはその道を応援する事が一番分かりやすい。
炎のようだと、りおは言いたかった。きらりも女子サッカー部の活動を頑張って欲しい。