2022年6月下旬。梅雨明けしたある日の晩。神楽家の食卓では公共放送のニュースが流れていた。神楽りおの父親は都内のIT企業で働くサラリーマンだ。50歳を過ぎても役職もない。20代から30代の半ば頃まで様々な企業を転々としてしまった。ただIT業界に拘っていたおかげで今の会社に就職できた。仕事場では若い上司に頭を下げて、周りからもあまり相手にされていない。年に数人やって来る中途入社の女性社員が何かと気を遣ってくれるが、それも最初のうちだけで、時間が経つと周囲がそうするように雑に扱う。毎年4月に入って来る新入社員のうち、会社に残らない系統のダメな新人と気楽な時間を過ごしては、やがて転職して去って行く別れを惜しんでいる。
「お父さんは大学だけはちゃんとした所を出たからお母さんに出会えた」
とりおに言う。全く他意はないのだが、りおにプレッシャーをかけてしまう事も多かった。そしてそれ以外の人生は自由だと言う。
この日のニュースでは、今年イギリスの大英博物館で行われるミイラ展のPRが放送された。エジプト考古学は、古代エジプトの象形文字「ヒエログリフ(聖刻文字あるいは神聖文字)」の解読から始まったといわれ、フランスの言語学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンがヒエログリフを解読したのが1822年のこと。ちょうど200年目にあたる今年はエジプトイヤーなのだという。
熱心にテレビを見つめる父親の小さな背中を見て育ったりおは、
「面白そうだね」
とつぶやく。父親はそそくさと食べ終わった食器を片付けると、
「少し飲みますよ」
と言って、ビールを開けた。この日はりおの学校の様子を聴きながら楽しそうに酒を飲んでいた。こうやってりおの機嫌が良さそうな日に、娘の現状を確認するようにしていた。
後日、学校でりおは、交際中の泉岳きらりから、
「行きたい所はないか?」
と聞かれた。きらりはニヤニヤしながら、りおに話しかける。きらりは前回の時間ループで湯島天神に行ったきりデートらしいデートをしていないと感じていた。フットサルだったり、部活の大会だったり、何かとサッカー絡みだった。また思い切りデートがしたい。
りおは、そんなきらりの心境は他所に、
「イギリスの大英博物館に行きたい。ミイラ展を見たい」
と言う。ミイラ展は凄く興味があった。
「どうしてだ?」
「神秘的だから」
きらりは悩んだ。イギリスの大英博物館など行けるはずないから、これはつまりデートがしたくないという意味なのではないのか。交際相手の自分(きらり)から、この質問をされたら意味は一つしかない気がするのだが。
りおは、
「きらりは行きたい所があるの?」
ときらりの悩みにダメ押しを加える。嬉しそうに笑って、きらりの顔を見る。もちろん海外とか、そういうスケールで言っている。
「エジプトに興味が沸いたんだな。エジプトにちなんだ場所がいいな」
きらりがそう言うと、やっと意味が分かったのか、りおは、
「そうだね!エジプトっぽい所に行ってみよう」
と言う。携帯電話のメッセージアプリを開くと、
「アプリだとテレビで見たお笑い芸人の話ばっかりだから、ライブを見に行くのかなと思っていた」
と言って、デートの話だとわかったら楽しそうにどこへ行くか話し出す。きらりは笑いながら、
「どこへ行こうか」
と言う。
きらりは、前回の時間ループの10月にあった修学旅行の一件を、最近よく思い出していた。修学旅行の夜にエッチな事をし合ったのが事の発端である。その後、時間が巻き戻っても記憶を失わない呪術をかけられ、そして現に時間が巻き戻って、高校2年生を春からやり直している。りおと再び交際の関係になれて、順風満帆に夏を迎えた。
「芸人は録画を見ればいいだろう。現地に行くのは熱心なファンだ」
きらりは、家に録画があるから見においでと言おうかと思った。お泊りをさせるには最も尤もらしい口実だ。深夜まで好きなだけお笑いの録画を見せて、一緒にまた風呂にでも入ろうと思う。そう思うと興奮して来た。
りおは、
「一緒に選ぼう」
と言って、携帯電話で検索をはじめた。そして見つける飲食店やイベントがエジプトっぽいか判定する遊びのような時間になった。
「これは?」
「エジプトっぽいね!」
「これは?」
「ややエジプトですね!」
「はははは」
りおときらりは楽しそうに、エジプト風のものを探した。ハラル料理など現実的にエジプトのものではなく、りおは古代風に神秘的かどうかだけで判定していた。たとえば「黄金」とかそういう要素があれば「エジプトっぽい」と判定される。もちろん冗談で言っている。
「吉祥寺ラーメン店・ツタンカー麺?」
「あ!これはわかりやすくエジプトですね!」
「え?こんなものは駄洒落もいいとこだろう。全くツタンカーメンではない」
「お店の外観がエジプトですね!」
りおはそう言うと、店舗の外装がピラミッド風の金色にこしらえてある事を指摘した。内装も、ミイラを安置する棺のようなテーブルがあって気に入った。
「きたねぇ店って言うんだよこういうのは!なんも知らねぇんだな!」
きらりは、写真を撮った後で修正して綺麗に見せているだけで、実際はかなりボロい店だろうと主張する。確かに修正しきれなかった柱の汚れ具合がリアルだ。
りおはムスっとして、
「ここに行こう!」
と言う。
きらりは、
「既にやってねぇと思う」
と言って、話を流した。デートでどこへ行くかは、いつでも話し合える。りおときらりの作る空気の間隙をついて、中嶋ゆずや田原えみかが会話に混じって来る。
横山みずきは、
「お二人さん。部活に恋に結構ですが、学生の本分を忘れるなよ」
と言って、きらりを上から見下ろしてくる。学校の成績は時間の巻き戻しと記憶の引継ぎが功を奏して真ん中あたりまで登って来たきらりと、上の下くらいのみずき。
えみかも、
「泉岳さ~ん。勉強を教えて貰ったらよくないですか~」
と言う。
放課後。きらりは部活で、なんとなく蠍屋を捕まえて吉祥寺ラーメン店・ツタンカー麺を知っているかと聞いてみた。蠍屋は、
「美味しいですよ」
と言う。
「適当な事を言うとためにならんぞ」
「ああ、例の妹さんですね。ツタンカーメン麺は美味しいですよ。汚いけど」
「本当か?麵通なのか?」
「麵通じゃないですけど、家系なんで平気だと思いますよ」
「なんだ要するに家系か。二郎系は確かにキツイな」
きらりは行く事にした。
翌日、きらりがりおに、
「吉祥寺のツタンカー麺に行くぞ」
と言うと、りおは、
「え、本当に行くの?」
と言う。
「家系だから大丈夫だ」
「そのためにわざわざバスに乗るの?」
きらりは、
「困らせんなよ!」
と言って、次の日曜日の午後に無理矢理予定を取り付けた。
来る日曜日、りおときらりは、長空駅前に集合してバスに乗る。揺れるバスの最後部座席に座った。梅雨が明ければ夏同然だ。汗ばんだ肩が隣同士になって、きらりの二つ縛りの髪が揺れる。
吉祥寺までのバスは、そこまで時間がかからない。
りおは、
「髪を解いたらどうなるの?」
と言う。
きらりは、一緒に風呂に入りたかった事を突然思い出した。そういえばりおの裸体も見てみたい。前回の時間ループでは修学旅行というある種の強制が働いていたから見る事ができた。
きらりは、少し情動を抑える事が苦手かもしれない。それは一緒にいればなんとなく相手方のりおに伝わる。
きらりは、淫猥な笑顔で、
「見たいか?」
と言う。
りおは、きらりの表情が可笑しくて、笑ってしまった。
「見たいな!」
それでも、きらりの姿形には興味があって、素直に気持ちを言う。
「じゃあ今度家に来い!」
「え?」
「お笑いのビデオを見に来い!」
りおは、いま解けばいいのにと思った。
吉祥寺ラーメン・ツタンカー麵は意外にも混んでいた。日曜日は家族連れもいるようだった。吉祥寺の汚くて美味しい有名店で、店内も賑やかだった。
「りおは、チャーシューを崩して食べるんだよな?」
「なんで知っているの?・・・あ、そっか。前に一緒にラーメン食べた事があるんだね」
少し並んでから、店内に入って、注文をした。
しばらくしてやってきたラーメンの匂いが、食事である事を強烈にわからせる。
箸を割って食べる。
「美味しいですね!」
「プロレベル!」
お店の人は嬉しそうに、
「プロだよ」
と言う。
食べ終わって店を出ると、りおときらりは、
「せっかくだから三鷹まで歩くぞ」
と言って、散歩をした。
梅雨明けした夏の、少し暑い散歩道。
りおにとっても、きらりにとっても、二人で過ごす夏は初めてだ。
井の頭恩賜公園の中を歩く、りおときらりは、手と手を繋いで少女のようだ。
「りお。迷惑じゃなかったら一緒に勉強しないか?受験勉強」
「いいよ」
「なんでも『いいよ』なんだな。私だったら少し嫌かな」
りおは、少し考えてから、
「きらりのほうが勉強出来たら、きらりは『自分でやるものだろう』とか言いそう」
と言う。
きらりは、「悪かったな」という顔で、
「そう言うかい?」
と言った。
それでも解けない指先を感じ取る事ができる。りおも、きらりも些細な言葉が、それこそ散歩道の砂利のような感覚だ。言葉の凹凸を踏みつけて前進する先にあるものもなんとなくわかる。ただその一つひとつの中に、埋没してしまう大切な気持ちがあったら、私達は気が付かないのかと思った。
きらりは、散歩道の木漏れ日の中でキュッと足を止める。
りおは、きらりを見て立ち止まる。
きらりが、真剣な眼差しでりおを見ると、りおは照れくさそうに微笑む。きらりがりおの唇をジッと見る。
りおは、
「好き」
と言って、きらりを抱きしめた。
キスをするでも、裸を見せ合うでもなく、ただ抱きしめた。
りおの腕の中で、きらりは思い出した。前回の時間ループで湯島天神に行った時、その少し身勝手な所が好きだと言われた。
りおは、
「少しずつ一緒に歩いて行ける道が、立ち止まった時は、どうしてかゴールに思えるよ」
と言った。
きらりは無言だった。りおは、互いの気持ちが通じ合う時間以外に行き先が、もしかしたら無いのではないかとなんとなく感じている。きらりは、りおの肉体に関心がある。きらりは、りおが受け入れるであろう事が、かえって困難に思えるのだった。きらりが強く求めれば、りおは受け入れるだろうか。もしかすると気持ちが少し不揃いなまま、きらりが要求するものとして応えるかもしれない。しかし、それで良いのだろうかと思うと、たとえば唇を重ねて良いとはなかなか思えなかった。
りおは腕をほどいて、きらりを見ると、
「きらりが好き」
と言う。
きらりは、跳ね返ってくる感情で自分の行いを知る。時折願っては、それが叶う幸福を、生み出しただけの優しさでりおと触れ合っている事。
「優しい人」
りおがそう言うと、きらりは、りおの胸元をギュッと握り込んだ。りおはギクッとして、驚きながら、
「どうしたの?」
と言って、しかし溶けるような感触に襲われたのだった。今度はきらりがりおに寄りかかるように胸を、りおの胸に押しつけて、押しつぶそうとする。
りおは、落ち着いた声で、
「そっか。きらりはもっと長い間私を好きだったんだ」
と言う。
きらりは、下を向いて、
「りお。私は『そういう事』がしたくなる」
と言う。
りおは、
「少しだけ待って欲しいな」
と言う。りおは、きらりがこの服を脱ぎ捨てて、したい事があるのだろうと思う。りおは、やっと決心のついた女性同性愛者という道で、いま大切なきらりと清らかな風の中をさまよう少女のようでいたい。これから過ごす長い時間を大切にしたい。たとえばまた来年草木が茂るような空間を寄り添っていたい。互いの感情を言葉でぶつけ合っても、性の衝動をぶつけ合う事には不安もある。
きらりは、動かなかった。立ち止まって、行き先が違うかのように立ち尽くして。
それでもりおは、きらりがまた歩き出すまで立って待っていた。そして優しくもう一度言うのだ。
「少しずつ一緒に歩いて行ける道が、立ち止まった時は、どうしてかゴールに思えるよ」
それを聞いて、きらりはホッとして、りおとまた手を繋いだ。互いの顔を見合わせて、三鷹駅まで歩いた。りおは、きらりを失うイメージが湧かない。
きらりは、一度ちゃんと話そうと思った。りおは、沢山交際して、その中からパートナーを選ぼうと思っているのか。もっとずっと先の話だと思って今は楽しく交際しているのか。その辺りで現段階の考えがあれば聞いておこうと思った。りおは、鬼道という時間の魔法を駆け抜けて「私は姉だ」と言ったきらりを、全く疑っていない。
ただし鬼道と言えば、浦川辺あやにかけられた鬼道のアンインストールに向けた作戦を、そろそろまた動かさなければいけないだろう。きらりは、親しくなった三栖じゅえりを上手く懐柔して作戦を成功に導きたい。