将棋部1年生の三栖じゅえりは、5月の連休中に開催された高校将棋竜王戦東京都大会でベスト8に入る大健闘だった。女子は女子の部に出場できるが、じゅえりはレベルの高い男子の部に出場した。長空北高校将棋部の中でも女子部員という事で、一目置かれ、丁重に扱われていた。
将棋部の大会は4月に選手権、5月に竜王戦、9月に王将戦があり、11月に新人戦がある。活動は自由参加で特に決まりは無い。
教室棟では、浦川辺あやと雛菊さやと同じクラスだ。前回の時間ループでは、暴力の無い関係性を目指したことが仇となって、かえって暴行事件を招いてしまった。しかし時間の巻き戻しに際して、バックアップの鬼道をかけられた泉岳きらりと異なり、全くそのあたりの記憶が無い。記憶が無いのは大多数の者がそうなのであるが、あや、さやと友人になったことも忘れていて、教室では少し浮いた存在だった。
じゅえりは、女子だが、女子の群れの中にいると不意に独りになるたくなる気質だった。男子とも仲良く話すが、やはり不意に距離を取りたくなって、独りになる気質だった。クラス全体として、じゅえりの居場所は確保されているが、所属するサブグループは存在しない生徒だった。
きらりは、神楽りおと交際の関係性を再び勝ち取っていて、次の目標はあやの鬼道をアンインストールする事だった。あやが『神楽りおを愛して、しかしそのことで深く傷つき、自分の行いを後悔する』と時間が巻き戻る。この仕組みを解除(アンインストール)する事が、次の目標なのだ。あやが、この時間の巻き戻しの条件を正確に知っているかどうか分からないし、たとえば「大泣きすると時間が巻き戻る」くらいに把握していて、それを便利な魔法だと思って大事にしている可能性もある。術者である前田よしとは、アンインストールをしようとしても拒否されたり、はぐらかされたりする可能性がある。その辺りをクリアにするために、あやが鬼道をどのように把握しているかを事前に突き止めたい。その段取りはよしとも承知していた。
5月中旬のある日の昼休み。きらりは、1年生のじゅえりのクラスに堂々と上がり込んだ。クラス外の者が、自由に出入りする事は滅多にないから「誰だろう?」という空気もあった。きらりのスカートが迷うことなく揺れて、読書中のじゅえりを目掛けて歩いて行く。あやもさやも、じゅえりも、前回の時間ループできらりとの間で起きた事を覚えていないから、そもそも面識が無い。
「三栖さん。はじめまして、私の名前は泉岳きらり」
きらりは、まだ3人組の関係が構築されていないうちに、じゅえりを懐柔しておこうと考えた。じゅえりが、人見知りだが社交的な性格であることは前回の時間ループで把握している。こうやって堂々と初対面の挨拶をすれば一切粗野にしない人物だ。
「はい、はじめまして。私の名前は三栖じゅえり。泉岳さん、何か御用ですか?」
「私は女子サッカー部の2年生だが『氷のエンブレム』の読者がいると聞いて来た」
「え?泉岳先輩は『氷のエンブレム』をお好きなんですか?」
「そうだ。布教している子がいると聞いて一目見に来た」
きらりはじゅえりが『氷のエンブレム』の熱心な読者だと知っていた。前回の時間ループでじゅえりに直接教えてもらった漫画である。必ず食いつくと思って立てた作戦だ。
じゅえりは、急に立ち上がると、
「何人かに布教したんですけれど、同じファンの方の耳に届いたようで嬉しいです」
と言って、屈託なく笑った。じゅえりの長い黒髪と、えんじ色のゴム紐で結んだツインテールが揺れる。きらりより高い身長で無邪気に笑う。漫画の布教が順調なくらいで、心を開く。
「ついて来い」
きらりはそう言うと、じゅえりを教室の外に連れ出して、廊下の人気の無い所まで歩いた。じゅえりは、何処へ向かうのかも知らずに嬉しそうについて行った。終始ニコニコししているじゅえりに、きらりは本題に入る。
「三栖さんは、彼氏作らないのか?」
「彼氏は要らないです」
「どうしてだ?」
じゅえりは、突然そのような話になって、あたふたしながら、
「私にはまだ殿方は早いです」
と言う。そして首を傾げてすまなそうにする。
きらりは、ここぞとばかりに、
「女が好きか?」
と舐めるような目でじゅえりを見て言った。
じゅえりはドキッとした。
親し気な夏服が、じゅえりの心に触れようとする刹那。なぜ自分を狙うのかと疑問を持つよりも、むしろ先程から好意を持たれた事の喜びが覆ってあって、逃げようとしない。じゅえりは、突然教室にやって来て、廊下に自分を連れ出した『泉岳先輩』は漫画に興味があるお客さんで、自分と仲良くなろうとしていると思う。
「『氷のエンブレム』がお好きなんですよね?」
きらりは、もちろん事前の作戦通り、
「好きだぞ」
と言って、ニヤニヤしながら、じゅえりの肩をポンと叩いた。前回の時間ループの経験から、じゅえりも女性同性愛を歓待する気質がある事は見抜いていた。こうやって接近するのが一番手っ取り早いと思っての事だった。
「しかし『俺の』パイオツに関心があるならいつでも味方してやる」
そう言って、かつてりおを誘惑したように、今度はじゅえりを、自分(きらり)の大きな胸を見せつけて誘惑した。じゅえりは、りおときらりが交際し始めた事など全く知らない。言われるがままに『泉岳先輩』の姿形を目に焼き付けていく。
「友達になりたいならそう言ってください」
じゅえりは、冷静に返事をした。しかし嬉しかった。突然の事だが、何故か自分に熱烈な関心を寄せるきらりが平静な日常を切り裂いて淫猥な光を放っている。じゅえりは照れくさそうに下を向くと、それ以上言わずに黙っていた。あまり他人にからかわれる事も無くここまで生きて来て、平静な日常に埋没するように淡々と高校生活を送る事も苦では無かった。そのせいか突然やって来た『泉岳先輩』があっという間に心に巣くってしまった。
「よし。じゃあセンパイが愛しくなった時のために連絡先を交換だな」
じゅえりは、少しムッとして上目使いできらりを見たが、きらりの冗談に満ち溢れた顔が完全に二人の間を制していた。
「そうやって沢山の女の子を狙っていますか?」
じゅえりは、ここに来て突然頭が働いて、そう言った。携帯電話を差し出すと、きらりとメッセージアプリの連絡先を交換した。じゅえりはアブナイ先輩と交遊を持ってしまったかなと思いつつ、この人物(きらり)をよく知っておくべきだと思った。何か、前から一方的に知られているような感じが独特だった。
「いいや。三栖には用があった」
「私の何が気に入りましたか?」
「その髪型」
得意の冗談だった。
その後じゅえりは、応援団のPRで女子サッカー部の試合の存在を知った。学校でちょっとした話題だから観戦に行こうかと思った。きらりを応援しようと、交換したメッセージアプリの連絡先に一言、
「応援に行きます」
と伝えた。既読スルーだった。