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第30話「前田よしとの過去③」

2021年9月1日。夏休みが終わり、教室はいつもの面々が勢揃いしていた。新学期の教室で、前田よしとは、九州自転車一周の写真を神楽りおに見せていた。


りおは、


「凄いね。自転車で九州一周するなんて私には一生無理だな」


と言って喜んでいた。一枚一枚の写真を丁寧に、よしとの携帯電話で見ている。よしとは、タイミングを見計らって、


「もしも気に入った写真があれば、送ってあげます」


と言った。この一言には大変な緊張感が伴っていた。連絡先交換をしたいという期待が込められていたからだ。


りおは、おもむろに自分の携帯電話を出して、


「連絡先を交換しよう。まだだったよね」


と言った。りおとよしとが連絡先を交換すると、メッセージアプリを開いて、よしとは国道から撮った桜島の写真など、りおが気に入った写真を何枚も送信した。写真を撮った時の様子を丁寧に説明していると、りおが楽しそうに笑った。一緒に旅をしていると言ったら大袈裟かもしれないが、体験を共有するのは楽しい。


「前田君。私、小説家を目指しているの。九州には行った事が無かったから、すごく勉強になった。知識が増えた」


よしとは、


「神楽には小説家という夢があるんだな。神楽が大切にしているものなんだな」


と言った。予てから、りおに夢を打ち明けられた時のために用意していた台詞だ。これで、りおの心を掴めると思っていた。りおの大切なものを、大切にする。


りおは、この時初めて、よしとが、男性が、自分を守ろうとしている事を察したのだった。恋愛小説や少女漫画を読むことはあるから、男性が気に入った女性に抱く通常の感情を知識としては持っていた。よしとの口から「大切」という言葉があった。ここまで優しく丁寧に接して来たよしとが、りおが大切にしているものに興味がある理由は、一つしかないだろう。


りおは、この日、男子バレー部が終わるのを待っていた。いつも夜に終会するから、それまで自分の所属する文芸部の部室にいた。よしとに伝えなければならない事があると、確信していたから。部活が終わるまで待っていれば、自分からの返事の一環として、言いたい事も真っすぐに伝わると思った。


夜遅くに男子バレー部は終わった。終わる少し前から、体育館を出た辺りで制服姿で立って待っていた。りおは、よしとを待つ事が嫌ではなかった。自分のする事を、どんな些細な事でも笑って受け入れていたよしとだから、臆面なく立って待っていた。


よしとが気がついて、小走りで走り寄ってきた。


「神楽」


「前田君。終わったら少し話そう」


「待ってた?」


「いいよ」


「俺、今月の大会からレギュラーなんだ。さっき顧問の石黒先生から言われて」


よしとは部活動を本当に頑張っていた。体育館の出入り口から覗く他の男子部員達の熱気に混じって人一倍努力している。


りおは、心の底から、氷が氷解するような感覚で、


「おめでとう」


と言ってあげる事が出来た。いままで丁寧に自分との時間を過ごしてきたよしとへ、そんな大事な願いが叶って良かったねと思った。


よしとは、白と黒の異様にはっきりしたりおの顔に、


「ありがとう。すぐ着替えて来る」


と言った。そして他の部員達に挨拶をして、足早に着替えて、制服姿で出てきた。まだ少し暑い夏の夜に、学校の敷地内で、正門広場の電灯が光り、りおとよしとを照らす。


りおは立ち止まって、正門広場の石段に腰かけた。


りおは、当たり障りのない話から始めた。自分が中学時代にどんな生徒だったかなども話した。よしとも、そういった話をした。いま二人でいる事を互いに認め合って、成立する間合いと交わす言葉の数々。


よしとは、思えば、りおを好きになってから、いつかこんな日が来るだろうかと思っては、稚拙な好奇心で女の子と触れ合いたいだけの気持ちと向き合って、打ち負かして、やがて守りたいと思えるまで、心を錬成した。叶わなくても構わないと思える日もあった。


よしとは、


「9月26日に長空市花火大会があるよね」


と言った。一緒に行きたいと言っているのは、誰でもわかる。


「前田君。私は、女の子が好きなんだ」


りおは、自分が女性同性愛者である事を打ち明けた。よしとの事は、屈強で冗談も面白い素敵な人物だと思う事、幾ばくかの感謝も伝えた。しかし女性のパートナーが欲しくて、自分のセクシャリティと真剣に向き合いながら、交際というのであれば女性しか有り得ないと真っすぐに打ち明けたのだった。


「お、俺が嫌ならそう言ってくれよ!」


よしとは理解が追いつかなかった。


「ごめん。私は、前田君には割れた鏡のようなものなんだ。前田君の気持ちに応えられない」


りおは、哀しそうに言った。信念の強情ではなくセクシャリティの問題だ。自分の性で恋愛が出来ない事は、好きな女の子にデートを断られる事とは根本的に異質である。それでも今までの経緯を振り返って、よしとが可哀想だった。


言霊。


言霊というものがこの世に本当にあるとして、よしとは、次に出た言葉が言霊だった。


「神楽。俺、もっと理解できるようになるから。とにかく独りで悩んでいたのであれば、俺も悪かった。一緒に神楽が抱えている困難に立ち向かえたら、それは俺の気持ちがここまで育った事の意味だ」


言いたい事でよければ、なぜ突然フラれたのか問い詰めたかった。まだ連絡先交換したばかりだ。確かにデートの誘いみたいな事を今言ったのは事実だが、ノーファールだろうと思った。日頃デレデレしていたかもしれないが、拒絶するならもっと前から器用にやってくれないかと思った。その他、様々な言いたい事を押し殺して、りおに伝えたのは、女性同性愛などこれっぽちも知らず、理解以前の状態である自分への自責だった。


りおは、また氷解した自分の顔で、


「前田君。じゃあ友達になって」


と言った。


りおは、よしとの人となりを求めたのだった。男性である前に人であるよしとを、自分に必要な庇護者として、このままの距離でいてくれることを切に願ったのだ。


胸の奥に突き刺さったりおの笑顔は、よしとに、俺はこの子を選んだと思わせるのに十分だった。様々な雑念と言うべきか、自分の身の丈にあった雑音を振り払って腹の底から捻りだした言霊の答えが、この解けた氷の素顔であるならば、俺はもう手に入れたと思えたのだった。


その後は気持ちを落ち着けて、よしとは図書館で同性愛や性に関する本を借りて、こっそり自宅で読む日々を過ごした。りおは友達。自分はりおにとって貴重な男子の友達。俺はもうりおを手に入れていて、それはこの距離からセクシャリティの悩みと向き合う姿を応援するという事。デートも、恋人同士でする事も、自分達の世界観には不必要な儀式だと思えば何も不自由しなかった。そして男子バレー部の活動に全力全霊を尽くしていったのだった。

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