浦川辺あやは、自分が大泣きして『神様を頼る』と時間が巻き戻る現象を意識していた。長空北高校の教室棟の階段で大泣きして時間を巻き戻した体験を微かに覚えている。この記憶が、夜中や明け方に見る夢の類ではなくて、本物の記憶だったらどうだろうか。自分は時間を巻き戻すことができる。いま、かつて順調だった神楽りおとの交際が、泉岳きらりの介入で不安定になっている。もしかしたら、以前に時間を巻き戻した時も、りおと交際して、でも上手く行かなくて、泣き崩れて、時間が巻き戻ったのかもしれないと推理していた。であれば、もしやこのまま破局する運命にあるのだろうか。
しかし、雛菊さやも、前田よしとも、三栖じゅえりも、その他の友達も、全くこの『神様を頼る』現象について相談できる相手方はいなかった。ただ、時間を巻き戻してしまいたくなる出来事として類推できる事象が、りおと破局して失恋する事くらいしか思いつかなかった。
2023年1月15日夜。夜空には冬の大三角。浦川辺あやは、神楽りおと、神楽家の近所の公園に居た。あの日、月の下でキスをした場所に。りおがあやを呼び出したのだった。
あやは、
「大事な話って何かな?」
と、りおに言う。
りおは、
「好きな人ができた」
と言った。
あやは、
「今度は、はっきり言ってくれてありがとう」
と言い、落ち着いた声で、
「何がいけなかった?」
と言う。
りおは、
「好きな人が二人いても辛いだけだから。恋人は私が本当に心を癒せる人にしたい。同じ困難を乗り越える人がいいの」
と言う。
あやは、
「今までが嘘だとは思わない。私にはりおだけだとずっと証明してきた。情念が情念に攫われても、人間の根源が、心が、出す答えに座して待つ」
と言う。
りおは、
「そうだね」
と言った。
りおは、
「私を攫われたことにして許してくれるの?」
と言う。
あやは、歩いて、りおに近づいた。
そして、りおの前で立ち、
「私にはりおの本当の姿が見えている。私は王子様とお姫様の双子かもしれないし、りおは魔法使いと赤い鳥かもしれないが、私の心も私とりおを映し出す。そしていつか月がすべてを許す」
と言い、いつになく凛とした顔で、
「今日も、この気持ちを打ち明けるキッカケなんだよ。きっと長い時間の中で、必要な一つの通過点なんだよ」
と言った。
りおは、
「忘れないから」
と言った。
あやは、
「間違えちゃったかなと思うことはいっぱいあったけどな」
と言い、涙が出る前に帰ろうとして、
「ダメなのか。こんなに好きなのにな」
と、それだけ言い残して、去った。
りおは、文芸部の部長に推されていた。もっとも文芸部の3年生は春から受験勉強にほぼ専念して部室に来ないのが慣例だ。春から2年生の雛菊さやは、文芸部の来年のまとめ役に推されていた。文筆家としては、やはり高校から始めたレベルなのだが、現1年生の輪の中にいて、人間関係の部分で信頼されている。決まれば、さやは、りおの後任である。
さやは、あやが欲しかった。表向きは、その気持ちを断ち切って親友をまっとうしている。りおには今までの恩があると思ったが、一度ならず二度、泉岳きらりと関係を持つのであれば、その限りではないと考えていた。
2023年1月16日昼休み。
さやは、
「じゅえり♡毎週月曜の勉強会はどう?」
と言った。
三栖じゅえりは、
「2回出ました」
と言う。
「泉岳きらりはどんな様子なの?」
「神楽先輩と仲良さそうです」
「泉岳きらりに、りお先輩と外でどんな様子か聞けない?漫画の件で連絡先交換したんだよね?」
「あや様と神楽先輩を信じています」
「また肉体関係になっていないか気になるでしょ?」
「いいえ。信じています」
じゅえりは、
「さや助。私はあや様とさや助の輪に入れて、嬉しいのです。私は仲直りで泉岳先輩と友好を結んだのです。友達の友達なら、いつかさや助と泉岳先輩の亀裂も埋まると思ってのことです。神楽先輩の周りで人間関係が丸く収まって、落ち着けば、自ずと愛情を重ね合う所に結論が出ると思うのです」
と言う。
「そうなんだ♡」
「はい」
「それはつまり、あやとりお先輩の絆が勝つと思っているのね?」
「はい」
「そうなんだ♡でも一番強い絆が勝つと思っているのね?」
「はい」
「その通りだわ♡」
あやは、
「りおから聞いた」
と言う。
じゅえりは、嬉しそうに、
「はい」
と言う。
あやは、自分の顔の手で覆って、覗く眼球でじゅえりを見ながら、
「泉岳きらりを呼べ」
と言った。
じゅえりは、
「仲良しになるんですよね?」
と言う。
さやは
「じゅえりは悪くない♡」
と言う。
あやは、深く呼吸をしてから、
「そうじゃないね」
と言い、次に浅く呼吸をして、
「最低限確認だ」
と言った。
じゅえりは、
「あや様もさや助も大切な友達です」
と言う。
あやは、
「そうだよ」
と言った。
さやも、
「そうだよ♡」
と言う。
じゅえりは、きらりを教室棟1階の廊下に、メッセージで呼び出した。その際、りおも連れて来るように頼んだ。
それを三人で待ち構えた。
きらりは、
「『来てください』だけだったな。どうしてだ?」
と言う。
りおは、
「あや。喧嘩じゃないよね?」
と言う。
あやは、心の奥底から湧き上がってくる醜い感情は、自分ではないと思いたい。
「人間の根源はなんだ?」
ときらりに聞いた。
きらりの心は、出来たばかりの恋人、りおの事でいっぱいだった。
あやは、
「人間の根源を言ってみろ!」
と、怒鳴った。きらりが、情念だけの人物かどうかだけが気がかりだった。もとはと言えば肉体関係だった。あやにしてみれば、大切なりおを一時任せる認識なわけだから。
きらりは、顔が強張ってきた。きらりは、そんなようなことを問い詰めているのだろうと察したら、沸々と怒りが湧いて来た。りおは、お前のものではないと思った。そこで、ここぞとばかりに怒鳴りつけた。
「お前、『俺が』馬鹿だと思ってんだろお!」
噴火のような声を出した、腹の底から。
あやは、それを聞いて、瞳孔が揺れた。
きらりは、放たれた拳の引き金を引いてしまったのだった。
ドゴォッ
きらりは、顔面を殴打され、廊下に倒れた。
あやは、握り拳で殴打してしまった。
りおは、
「やめてよ!」
と言い、きらりの身体を庇うように、ゆする。
きらりは、目を閉じたまま、気を失って、返事をしない。
直ぐに教員が駆けつけてきて、床でぐったりするきらりを診た。
教員は、あやに「グーは見過ごせない」と言う。
二度目の暴行になってしまった。
「右手を上げて」
「名前を言って」
「今日が何日かわかりますか?」
保健室の先生が、きらりの意識を確認していると、野次馬が、集まってきた。
「どうして喧嘩になった?」という声があった。
きらりは、保健室に運ばれ。関係者は職員室に連行された。
あやは、厳しく注意された。原因となったりおも、事細かに顛末を説明させられた。呼び出したじゅえりも、正直に事の発端から自分の関与した部分を説明した。
りおのクラスメイト数名が、あやのクラスに来て、
「今回で二度目だが1年生は何をしたいのか?」
「一回目の暴行の後で1年生がクラスに出入りしていただろう。あれは何だった?」
と問い詰めた。
バレー部の1年生松岡が「前田先輩いますか?来てないですか?」と言うと、「バレー部だけで話をつけるな」と言い返され、ややこしくなってしまった。「一大事だと思ってくれないか」という声もあった。
教員が介入して、解散させるまで、2年生と1年生の口論は止まらなかった。結果として、りおときらりで付き合って、あやは金輪際関わってはいけないことになった。そしてりおは文芸部を退部になった。あやの母親、浦川辺みちよの強い要望もあって、そうなった。
自家用車で飛んできたみちよは、あやに、
「叩いちゃったんだ?」
と言った。
あやは、
「はい」
と暗い声で言った。
みちよは、
「本当なんだ?」
と哀しそうに言った。
保健室。
意識が戻り、保健室で休んでいるきらりの付き添いを、りおは許された。
きらりは、目を開けて、起き上がると、ベットの上で、
「全然いいぜ」
と、りおに言う。
りおは、
「よくない」
と言って、泣いていた。
りおは、声も絶え絶えに、
「きらり。私、『時間を巻き戻す』…」
「きらりのために時間を…」
「サッカー部も辞めちゃって…」
「だから『時間を巻き戻す』…」
と言った。
きらりは、言っている意味があまりよく分からなかったが、
「わかった。時間が巻き戻ったら、会いに来て欲しい」
と言った。そして、よくりおの顔を見て、
「上手くいかなかったり、誰かが傷ついたりして、そういうとき『時間を巻き戻す』っていうのをりおが望んでいるなら、何度でも時間を巻き戻せばいい」
と言う。このような大事になってしまって、嫌になったんだろうなという大雑把な共感もあった。
りおは、
「少し時間を置いてまた会うとか、そういう意味じゃないんだ」
と言い、
「じゃあ質問を変えるね。ここにスイッチがあったとします。押すと2022年4月8日に時間が巻き戻ります。押しますか?」
と言った。
きらりは、
「押さない」
と即答した。
「本当?」
「記憶も消えるのか?」
「消えちゃう」
「なら絶対押さない」
「サッカーは?」
「サッカーは、もう十分やった。未練がない。りおのせいじゃない」
りおは、
「じゃあ巻き戻さない」
と言った。
きらりは、目を見開いてりおを見て、笑った。
きらりは病院の診察を受けて、大分遅くなってから学校に戻ってきた。あやときらりは学校側の判断で、握手をさせられた。きらりにとって、もちろん不本意だが、あやが金輪際関わらないという意味なので、きらりは受け入れた。
きらりは、すっかり回復して、
「病院の医師の診断は打ち身って事だったから」
と言った。
りおは、自転車で一緒に帰るためだけに待っていた。何度も二人で歩いた、裏門の駐輪場までの道。自転車で裏門を出た後の道。きらりは「ついて来て」と言って、少しの間、夜道を自転車で走った。突然の出来事が続いて、驚いてばかりいるりおに、見せたいものがあった。
寒さをかいくぐって走る自転車の、胸の高鳴りが熱い。少しづつ熱が、りおの心を癒して、冒険心のような感情を連れて来る。
行った先には、夜空の星が、よく見える丘があった。
きらりは、
「オリオン!」
と言って、指さした。
赤いストロボのようなベテルギウス。
「シリウスとプロキオンも見えるね!」
りおは、
「そんなに星が好きなの?」
と言う。
何億光年も距離の離れた恒星と恒星とが、もしも地球の夜空を近くで輝いていれば、線で結ばれて星座と呼ばれる。星は地球の星空で結ばれたことを知らず、宇宙を旅する。
りおは、きらりが自分達のようだと言いたいのだろうと察して、
「私は小説を書かなきゃ」
と言った。
きらりは、
「私が読んでやるよ!」
と言った。
りおは、
「オリオン?」
と言う。
きらりは、
「そうだよ!」
と言った。
りおは、
「気持ちを分かち合うために、何度でも星空で結ばれる人、きらりはその人をオリオンと呼ぶのね」
と言い、
「私はきらりのオリオン?」
と言う。
きらりは、
「違いない!」
と言って冗談のように笑った。
りおは、相変わらずのきらりに、
「何度でもここに来よう。私達はオリオン。星空で結ばれるオリオンのように」
と言った。
きらりは、りおを励ましたかった。「時間を巻き戻す」などと言って、深く傷ついたに違いないと思った。何度時間を巻き戻しても、また会って絆が太くなるのならば、それが本当に大切な人だと、その時わかればいいのだと言いたかった。