2022年12月12日。泉岳きらりは、神楽りおを浦川辺あやから引き離して自分のものにする決意を、確固たるものにしていた。雛菊さやに殴打されて以来、大人しくなったと見せかけて、タイミングを見計らった。要は、あやとりおが元の鞘に収まった直後を狙っても勝算はないということだ。感情に逸っても、関係が強いのは、あやとりおの結び目だろうと。
「りお」
「きらり。どうしたの?」
「なんでもない。風邪ひくなよ」
「わかった。心配してくれて、ありがとう」
このような会話に留めて、虎視眈々と狙っている。きらりは、一瞬の隙をつけばまた手に入ると思っていた。
昼休みに、園崎が
「泉岳さん」
と言う。
「なんだよ?」
「1年生の『あのクラス』からお客さんです」
「またあの『殴打魔』か?」
「いや。『殴打魔』でも『女帝』でもなく」
きらりが廊下に出ると、三栖じゅえりが立って待っていた。
「こんにちは。私の名前は三栖じゅえり。泉岳先輩はお噂もかねがね」
きらりは無言で、じゅえりを見ていた。
「神楽先輩の件で、雛菊さん、浦川辺さんと喧嘩になってしまったのですが、その後は…」
きらりは、次第に顔が強張ってきた。
「特に揉め事もなく平和な時間が続いていて…」
きらりは、眉間にしわを寄せたまま目を閉じて考えた。コイツは、その後しばらく平和だったから「水に流して欲しい」とか、そういう事を言いに来た『偵察』に違いないと思った。しかし、冷静に考えれば、ここは一旦水に流して貰えたほうが好都合だなと思った。
じゅえりが言い終わる前に、きらりは、
「あの時は勢いで啖呵切ったけれど、反省したからさ」
と言う。もちろん大嘘だ。
じゅえりは、少し困った様子で「差し入れを持って来たんですけど」と言う。
きらりは、また無言でじゅえりを見た。
じゅえりが差し出したのは
『氷のエンブレム』
という漫画だった。
きらりは、内心「薄気味悪いことしやがる」と思ったが、受け取った。
「よかった」
「読めばいいのか?」
「はい!」
「どうしてだ?」
「さや助のこと許して欲しいんです」
きらりは、携帯電話を取り出すと「いちいち面会に来られても面倒だ」と言って、連絡先を交換した。
じゅえりは、嬉しそうだった。
「嬉しそうなのは、どうしてだ?」
「『氷のエンブレム』はお気に入りなので布教が出来て嬉しいです」
きらりは、パラパラとページをめくった。
「ボクシングか?」
「はい」
「この小さい男子が主役か?」
「はい」
「この後、選手になるのか?」
「はい」
「読むね」
「はい」
きらりは、「『はい』しか言わねぇ」と思いながら、自分の席に戻って行った。
『氷のエンブレム』は、学校で一番綺麗な女の子を巡って、四人の男子が喧嘩をしてしまうと、両想いの美少年が体格のよいライバルに殴打され、負けてしまい、「カッコ悪い」と自分から交際を諦めてしまう所から話が始まるボクシング漫画だった。
この日、りおは、あやに言って、昼食を前田よしとと一緒に食べていた。相談事があったからだ。長空北高校教室棟の屋上は、吹き抜ける風の音が心地よく、冬でも男女のペアが昼食に利用する空間だった。二人で話をするには、うってつけだった。
世間話をして、食べ終わった二人。見渡せば広い空間に数組の男女がいる。
りおが、本題に入ろうとすると、よしとは、
「友達っていいよな」
と言った。
「そうだね」
「俺は、草だな」
「どうしたの急に」
屋上のコンクリートの隙間に雑草が小さく生えている。
「好きな野球選手が言ってたんだ『自分は草です』って」
りおの高校生活は、確かによしとという草が茂っている。そこに、王子様とお姫様の双子がやってきて、花よ、星よ。
よしとは、
「何か御座いましたか?」
と言った。
りおは、
「前田君。私は『時間を巻き戻せる』の。この世界は私が最低一回時間を巻き戻したやり直しの世界なの。前回どうだったか知らないけれど、巻き戻したくなるような事がお起きたの」
と言った。
よしとは、
「『時間を巻き戻す』方法があるのか?」
と聞いた。
「ゴショガワラ交差点で大型車両に跳ねられると時間が巻き戻るの」
「そうなんだ」
よしとは、空を見上げた。
「神楽とこうして話している時間も巻き戻るんだな」
「そうだよ」
「『自分から』大型車両に跳ねられるのは辞めてくれ」
「うん。どれだけ嫌なことが起きたら、自分から大型車両に跳ねられたくなるのか、想像もつかなくなってしまって」
「じゃあ、とりあえず交通事故に気を付けてくれたら幸いです」
「前田君さ」
「なんだ?」
「彼女つくって」
「嫌だ」
「草ってこと?」
よしとは、
「俺の言う草は『雑草のようにたくましくありたい』って意味だ」
と言う。
「じゃあ私は何?」
「友達。神楽は何にも喩えられない」
「前田君。私、同性愛に自信が持てた。本当に決意できた。それも言いたかった」
本性の隠喩に到達できないのは男性だからだろうと、りおは思うのだ。りおに言わせれば、りおは魔法使いと赤い鳥。
「前田君はどう思う?あやは、浮気をした私を許すとき、本当に哀しそうだった。嫉妬ではなく、心と心が重なり合っていないことを悲しんでいるようだった」
「そうなんだ」
「前田君は『心の造詣の浅い、深いでやるものでもないだろう』って言ってくれたから、私が深くて、あやが浅いのだと思っていた」
「俺もその認識で言った」
「でもあやは深く考えてくれていたみたいなの」
「俺は『気楽にやってくれ』って意味で言った」
「気楽?」
「心の深浅まで一致させる必要は全くなく、そこは気楽にやって欲しいと俺は思うよ」
「『気楽』ってどういう意味?」
「そのまんまの意味。そのうえでルールがあるでしょって」
よしとは、さやから「神楽と泉岳を切り離せ」と言われていたことを思い出して、
「やはり
と言った。
「参考にするね」
「参考にしてください」
「帰ろ」
「おう」
二人は教室に戻って行った。よしとは、ここからフェードアウトすれば、さやに言った事の約束を守れるだろうと思った。
りおが教室に戻ると、中嶋ゆずが話しかけてきた。
「か、神楽さん、へへへ、せ、泉岳さんとべ、勉強会してるって、今も?」
「あやに『甘やかすな』って言われて」
「あ、あ、そうなんだ。最近見かけないなと、お、思って」
田原えみかが、
「神楽さ~ん、たまに皆でやりませんか~?英文法の勉強」
「泉岳さ~ん、泉岳さんもせっかくだから再開したら良いと思いま~す。こっちは受験勉強なんだから~」
と言う。
横山みずきも、
「後輩の『殴打魔』のせいで泉岳の勉強が滞るのは癪だな。泉岳は部活辞めて勉強してるのにな」
という論調だ。
きらりは、
「やりたい」
と言う。
りおは、
「いいよ」
と言った。
えみかは、正直に言えば、女の子同士なのだから、キスしようが、何しようが、とどのつまり「親友」であって、「交際」の概念から暴行に至った経緯は一切理解できていなかった。もっと言うと『殴打魔』のグループから『偵察』が来て、流石に先輩・後輩という考え方をした。上級生を見張るというのは良くないだろうと。
勉強会は陸上部と吹奏楽部が休みの月曜日の放課後になった。本日は月曜日のため、本日から毎週月曜日である。りおは、同級生達で勉強会をすることを、あやに伝えた。
放課後の勉強会で、きらりは嬉しそうにしていた。りおの表情も、仲が良かった頃に、すぐに戻ったのだった。
りおは、
「ごめんね、きらり。ちょっとの間」
と、きらりに言った。
よしとからは「ルール」とか「断ち切れ」とか言われたが、友人らに支えられて、自分の感覚を信じることにした。片方を選んで、もう片方を拒絶する事は必要かもしれないが自分のタイミングで行いたい。
きらりは、
「全然いいぜ」
と、口癖をりおに久しぶりに言えた。確かに、女性同性愛者というよりは、同性愛の理解者という区分が適当だ。きらりは、あや、りおとは違い女性のパートナーを切望するセクシャリティでは無い。ただ、ボーイフレンドの立場で女性同性愛者と交際する事が楽しいと思えるのだった。その悪戯染みた考え方も正当化されていた。例えば、母親から「今日の晩御飯はおでんだ」と言われて、鍋の蓋を開けたらハンペンだらけのおでんだったらどうだろうか。そのうえでハンペンが好きである事を善しとすべきだろうか。答えは否である。そんな考え方もあって、きらりは自分の行いを正当化していた。自分の行いとは、あやからりおを奪い取る事である。りおは数多くの出会いを経験すべきだ。きらりは、要は二人目になろうという魂胆でいる。