2022年4月25日。放課後の文芸部の部室で、浦川辺あやと雛菊さやが、課題の読書感想文を書いていた。あやが選んだ本は『子どもの教育格差』であり、高校生でも興味があれば読むことのできる内容だ。貧困を理由に教育機会に乏しい子どもたちの実態に、あやは興味があった。
神楽りおは、あやが、難しい本を選んでしまっていないか気掛かりだった。しかし順調に読み進めて読了できたので、安心していた。
りおは、
「読書感想文では、気持ちをストレートに表現できるといいね」
とアドバイスをした。
静かな文芸部の部室で、部員達は黙々と自分の事をしている。小説を書く者もいれば、随筆を書く者もいる。文芸部は、執筆という精神活動をするために、長空北高校に設けられたサロンのようだ。
りおは、あやが綺麗な、可愛い女の子だと思って好きだった。好きと言っても、あやの内心に立ち入らない感覚の好意だ。こんなに美しい人が自分の間近にいて、曲がりなりにも自分と同じ文芸活動をしているのは、高揚感のあることだった。
あやは、りおを可愛らしい先輩と思って気になっていた。自分の方が遥かに容姿端麗であるものの、りおの容姿にも人を惹きつける魅力がある。言葉遣いが優しく、安心してその場に居られる。
「神楽先輩、私、クラスで未だに『可愛い』とか、言われてしまっています」
あやは、この半月で、りおを先輩として信頼していたから、悩んでいることを打ち明けてみた。
「『言われてしまっている』の?嫌なの?」
りおは、同様の好意を抱いていたから、少し戸惑いながらも、それを受け入れられないという事なのかどうかを尋ねてみた。可愛いと言われるのが嫌なのかどうか。
「私は、女の子が好きなんです。男の子は本当に子どもの頃しか好きではなかった」
りおは、ハッとして言葉に詰まった。男子生徒から直球で「可愛い」とか、そういう反応を示されるのが苦手だという事と、その前提として女性同性愛者の気質があることを打ち明けられてしまった。りおは、戸惑い、言葉をしばし失ってしまった。
「神楽先輩、すみません、突然こんな話をして」
りおは、どうして急にこんな話になったのか気になった。もしかして、
あやは、りおが戸惑っていると、
「神楽先輩は、『可愛い』って言われるとどう思いますか?」
と言って笑った。
りおは、
「私も、男子からは嫌だな」
と言った。
あやは、
「同じですね!」
と言って、嬉しそうにした。
りおは、倫理の授業で習った「美的共感」について説明してみた。
あやは、感心して聴いていた。
りおは、次に「一元論」の話をした。人間には根源があって、その根源が生み出す世界にその人はいる。花が綺麗なのは、綺麗に見える根源があるから。仕事で忙しかったり、体調が悪かったりして、とても花が綺麗だなどと思えないのは、根源が荒んでしまっているからだ。根源が浄化されれば、また花が綺麗に見えてくる。これが一元論的な考え方だ。
あやは、
「すごい。悩みが吹き飛びました」
と言って、嬉しそうにしていた。
文芸部の部室で、知的な雰囲気が充満していく。りおは、場の空気を知的に塗り潰すほどに聡明な高校生でもある。成績は上位で、得意科目は日本史だが、倫理も好きだった。あやの心は、見たこともないくらい優秀な人に奪われて、驚きと感動の灯りが同時にともっていた。
りおは、あやが真剣にレズビアンなのかどうかは分からなかったが、こんなに美しい人物が自分に心を開いてくれた事を見過ごすのは勿体ないと思った。
りおは、
「私も女の子が好きだよ」
と言って、携帯電話を取り出すと、
「同じ部活だし、連絡先交換しようよ」
と言った。
あやは、
「分かりました!」
と嬉しそうにした。りおの、冗談のような、自分に口裏を合わせたような「私も女の子が好きだよ」という言葉が、あやを勇気づけた。その後、あやは、やる気が爆発したのか、読書感想文を一気に書き上げた。唸るような文字に、溢れだす著書への共感と批判が込められた疾風怒濤の読書感想文を書くことができた。そして、りおに提出した。りおは、今日読んで、明日の部活でレビューを配ることを伝えた。
あやは、
「りお先輩が書いているものも、読みたいです!」
と言う。
りおは、突然の申し出と『りお先輩』という呼称に、驚いたものの、急接近の期待感に高揚感が合成されて、嬉しそうに自分の書いている小説を読ませたのだった。
「友達からは『あやちゃん』って呼ばれているの?」
二人の会話は、弾み、心を許し合う先輩と後輩という関係のまま、もしかしたらこのまま発展していくのではないかという予感が二人を包んでいた。あやは、知的で優しい人物に、心が惹かれて行くのだった。
2022年4月27日。文芸部1年生のあやと雛菊さやは、ゴールデンウイークの共同制作に向け、課題だった読書感想文を数日前に、2年生のりおに提出した。その時、あやは、りおが書いている小説を読ませて貰った。あやは、自分には魔法使いのような、りおの日本語の運び、文章力に感動してしまった。あやが、その気持ちを打ち明けると、りおは、「プロの小説家」を目指している事を打ち明けた。
あやは、りおの言う「プロ」の概念が、どういったものなのか気になった。あやは元芸能人で子役だった。プロの俳優だった。小説と芝居は別の分野だが、プロである以上、必要とされる精神面の強さは共通する部分もある。
放課後の文化部室棟は、教室棟とはまた違った空間だ。青春を絵に描いたような、自由に満ち溢れた世界だ。
りおが、
「今日は、ゴールデンウイークの共同制作について、何を制作するかを決めたいと思います」
と言うと、部員らはホワイトボードに注目した。りおの声は優しく、素朴な少女のような風貌も、学級委員のような凛々しさと合わさって、魅力がある。文芸部の部室の空気も、りおが一人いるだけで、色合いが違う。
進学校の長空北高校で、文芸部3年生は受験勉強が忙しく、あまり部室に来ない。部長は、それはそれとして、日頃は2年生が実質的なまとめ役をやる。りおは、1年生の三学期に、まとめ役に選ばれていた。
りおが、ホワイトボードに描かれた、猫の落書きをシュシュッと消していく。りおの白いカーディガンが揺れる。背の高いホワイトボードも、軽く、揺れる。
毎年ゴールデンウイークの共同制作は1年生部員が協力して行う。連休中に登校して、力を合わせて一つの作品を作る。1年生部員は、あやとさや以外に3人、照れくさそうに互いの顔を見合わせて微笑んでいる。入学から半月程経って、ようやく互いを意識し、打ち解け合うように顔を見る。
「浦川辺さんが、文芸部に入部したときは驚いたけれど」
「ね。仲良くしてね」
元芸能人・浦川辺あやの文芸部入部は学校でも話題になった。学校の男子生徒らは、あやをチアリーディング部に入部させたかったが、思惑は実らず。文芸部では、あやの長い金髪が、一際目立つ。少し褐色の肌も。
あやは、笑って、
「皆、大人しくて、すごく好き」
と言う。
りおは、
「皆、いつも黙々と自分の活動をしているけれど、こうやって顔を合わせると、仲良くて、良いなぁ」
と言う。りおも一年生部員らが好きだった。日頃は黙々と自分の活動をしているものの、顔を合わせると仲良く、打ち解け合っている。りおは、白色のカーディガンから覗かせる、教室棟では一番上まで止めている、シャツのボタンを外した。
あやの目に、りおの胸元が、飛び込んできた。入学式の日に初めて見た時「可愛い先輩がいる」と気に入ってから、あっという間に同じ部活になった。次第にあやは、りおの優しくて、知的なところが、他にはない魅力だと思い、惹かれて行った。あやが、数日前に提出した読書感想文は、合格だった。りおは「共感できたところと、共感できなかったところが段落分けされていて、読みやすいですね」というコメントを、あやに返していた。その赤ペンに滲む、優しさと知的さが、自分の15年余りの人生経験では、特殊な存在だった。
りおが、昨年と一昨年の共同制作の内容を説明した。昨年の共同制作は『白猫』というリレー小説、つまり順番を決めて一人800字ずつ、前の人の書いた内容を受けて自分の書きたいように後に続く展開を書くことをした。主人公が白猫で、恋をしたり、ライバルと戦ったりする物語だ。一昨年は『世界の環境保護団体』という随筆を書いた。
あやは、りおをジッと見ていた。自分より背丈の低い身体に、明晰な頭脳が宿っている。りおの頭頂部の動きを目で追う。人の動きを目で追うのは、子役でTV俳優を演じていた頃にはよくあったが、芸能活動から遠ざかって以来久しぶりのことだ。
りおは、スッと部室の入り口の扉を閉めて、外の音を遮断した。シンとした感覚の中で、りおが嬉しそうに、あやの方を向いた。あやは、ドキッとして、目が泳ぐ。
「実際に『白猫』と『世界の環境保護団体』を見て貰おうかな」
あやは、心臓の鼓動を感じた。日頃から委員長風のりおが、女の子だけの空間で動く姿が、可愛い。綺麗に製本された2作品が、棚から引っ張り出され、静寂に包まれた部室で、皆、黙って、真剣に読む。りおは気を遣って「お喋りしながらでいいよ」と言う。
すると、さやが真っ先に口を開いた。
「『白猫』がすごく面白い♡こんなの書けるなんて羨ましいな♡」
隣の1年生部員がクスっと笑い、さやを見て言う。
「私も『世界の環境保護団体』は闇が深すぎる気がする」
それを聞いて、りおは笑った。
「そうなんだよ。闇が深すぎるって皆で話し合って、昨年は『白猫』になったんだよ」
すると奥に座っていた1年生部員が、
「みんな意見があって、いいな。私は、やりたいテーマと言うよりは、みんなで一緒に一つの作品を作るのがすごく楽しみだから」
と言う。
「浦川辺さんはどう思いますか?」
間髪入れずに、あやが「主人公を何にするかだよね?」と答えると、皆がドッと笑った。
「浦川辺さん、難しくて、環境保護団体が無理すぎたんだと思う」
と1年生部員らが口々に言う。しばらくして「今年もリレー小説にしようか」という空気が出来上がって、今年の主人公は「ハリネズミ」になった。あやは『世界の環境保護団体』を頑張って読んではいたが、ニコニコと笑うりおの、首筋がキュッとなって、胸元にずっと意識が向かっていた。華奢な身体だなと、思った。
「りお先輩」
「どうしたの?」
「カーディガンの生地が良いなと思います」
りおは、白いカーディガンの胸元を広げて「これ?」と言う。
「可愛いです!」
りおは、少し驚きながら、「ありがとう」と言って笑った。
りおの誕生日は4月30日。あやの誕生日は4月17日だった。そのような話をして打ち解け合っていると、自然とファーストネームで呼び合うようになっていった。「あやちゃん」「りお先輩」と呼び合う。文芸部という環境で芽吹いていく、二人の感情と、お互いが引き寄せられる感覚は、春の匂いと相まって心と心の重なり合いに発展していく。
りおは、
「誕生日が近いのだから一緒にお祝いとかしたかったね」
と言った。
あやは、
「そうですね」
と照れながら言った。
思えば入学式で、ほんの数秒を見つめ合ってから、運命的な出会いを予感させていた。
そのようにして一日、一日が過ぎていくのだった。
さやが「帰ろう♡」と言うと、あやは「じゃあ先輩、今日もお先に失礼します」と挨拶をした。運動部の声が聴こえる校内を出て、家路につく、あやとさや。
今夜は月が見えるだろうか。薄暮れの帰り道に憩う、甘い感情。珍しく口数の少ないあやに、さやは言った。
「りお先輩は可愛いよね♡」
あやは、ギクッとして「あぁ・・・うん・・・」と声を詰まらせる。
あやは、モヤモヤした感覚に囚われていたが、
「仲良し♡」
と、さやが言うと、あやは、手に温かな感触を感じた。
「友達♡」
さやが、あやの手を握る。
あやはさやを見て、言った。
「皆と、もっと仲良くなりたい」
さやは嬉しそうに言う。
「私もだよ♡」
あやは、友情と愛情とを区別するタイプだった。さやは友達、りおは女性同性愛者として気になる先輩。この二つの区分は厳格にしたかった。しかし大切な友達を失ってはいけない。さやが、やはり自分に同性愛の感覚の好意を寄せていることは、直感でわかるが、かけがえのない友情は、それはそれとして大切にしたかった。