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第118話 それは、とてもあたたかな光

 眩い輝きが視界を焼いた時、エグリッドの国民の誰もが地の底から地面を擦り合わせるような凄まじい雄叫びを聞いたと言われている。

 その理由と正体を知っているのはピースリッジに居た者たちだけであり、彼らは音の直撃を受けた結果ほとんどの人間が意識を喪失、あるいは朦朧としていたためにその正体を見ることは叶わなかった。

 意識を失わなかったのは、聴力に問題を抱えていた老人や先天的に聴力が弱い者。あるいはアレンシールのように直前の戦いにおいて鼓膜を損傷していた者であったという。

 彼らは突然の衝撃波に脳を揺さぶられ、皆バタバタと倒れていった。幸いだったのは、身体が沈む程の水位の場所に居たものは船に乗っていたために溺死することがなかったということだろうか。

 浅瀬に居た者は顔面から水に突っ伏しても、まるで何かが海水を飲み込むように引いていった潮位のおかげでこれも水にやられることはなく、意識が戻った時には誰もがただずぶ濡れであったというそれだけで済んだのだ。

 彼らが目覚めた時、ピースリッジの港にはただただいつも通りの光景があった。

 真っ青な空に濡れた身体をあたためる太陽。海岸は白く乾いており、異質なのは円形に倒れている人々の姿だけ。最初に目覚めたのが誰だかはわからない。もしかしたら、意識を失わずにただ動けなくなっただけの誰かが身体の自由を取り戻しただけ、だったのかもしれない。

 ハッキリしているのは、誰かが濡れたせいで冷えた身体が震えくしゃみをして、それから段々と人々が動き始めたことだ。

 隣の者を揺すって起こし、ざわざわとざわめきながらその場で呆然と立ち尽くす。

 ピースリッジの街にはグールの死体も、街を飲み込もうとしていた海水の痕跡も、海を真っ黒に染めていた何かの影も、そのどれもがなくなっていた。

 松明はどれも濡れて使い物にならなくなってしまっていたが、松明に染み込んでいた油が海水を汚すこともなく、海は青く透明なままだ。

 いつも通りのピースリッジの光景。

 その場に居る者以外に昨夜の戦いを語ろうにも誰も信じないだろうと思える、そんな朝日であった。


「ナオ! リリ! フロイトッ!」


 誰もが呆然と状況を飲み込めずに居る中で、沈みかけていたユルグフェラーの船の船首で狼に守られていたジョンが海に飛び込んだ。

 魔女の名前を呼びながら彼の身長ギリギリの深さの所に浮かんでいるその身体を引き寄せようとしている姿に、船に居た者たちがハッとして海に飛び込み始める。

 三人の魔女と魔女の日記は、仰向けに浮いたまま眠っていた。目を閉じて、僅かに微笑んでいるように見えたのは見るものの幻覚だったのだろうか。

 一番近くに居た黒髪の魔女の身体をなんとか抱き寄せたジョンは、ピースリッジの漁師が双子の魔女を抱えたのを見て共に海岸まで戻る。魔女の日記はいつの間にか、波に押されて彼の近くまで漂ってきていた。

 海岸線まで魔女を引き上げると、海岸で倒れていたカイウスとアレンシールが真っ白な顔をして駆けつける。目覚めた街の人が家に戻って持ってきてくれた毛布は、急いで彼らの身体を包んだ。

「身体が冷たい……」

 ジョンが黒髪の魔女の頬に触れ、儚く細いその手を両の手で包み込む。彼自身もまだ寒さに震えているせいで、必死に手を擦り合わせても手は温まってはくれない。

「リリさん、フロイトくん……」

 双子の魔女を抱き寄せたアレンシールは、二人を毛布で包んでからぎゅうと強く腕に力を込めた。

 この国随一の剣士の手は震えていて、まだアカデミーを卒業するような年齢ですらない二人の額に愛おしげに口づけを落とした。


 この国は、ルルイェに勝利した。

 【魔女の力】でもって、地上に復活しようとするそれを未然に防ぎ、世界の滅亡を防ぎきったのだ。


 ややして、高台の向こうから野営地で休んでいた怪我人や騎士たちが様子を見に来る音がする。

 眩い光の後に上がった太陽に、ようやく身体を動かすことが出来たのだろう。彼らはきっとこの光景を見て勝利を確信するだろうが、そこで失われた沢山のものについては今は知らないままに違いない。

 ジョンは黒髪の魔女の身体を抱き寄せて無言で白い砂浜を見つめていた。彼の足元には、真っ暗な空に光を灯していた魔女の日記が流れ着いていて、彼はほんの少しだけ身体に触れたそれをようやく視界に収める。

 あぁこの本も魔女の力の一つだったのだっけと、エルディが空に投げたそれとは装丁の違うそれを震える手でそっと掴む。

 不思議なことに海面に浮いていたはずの魔女の日記は少しも濡れていなくって、けれど本の中身のほとんどはインクが滲んでしまったかのように読めなくなっていた。

 それはまるで、この世界から【魔女】というものが失われてしまったかのような喪失感で、ジョンは呆然と本のページをめくることしか出来ない。

 この本が一体何であったのかは、ジョンは知らないままだ。

 表紙に書かれている日記帳という意味を持つエグリッド語のおかげで日記であるということはわかるが、それだけだ。魔女が大事に持っていた、切り札。

 黒髪の魔女は、この本の中に何を見て、何を読んでいたのだろう。

 じわりと、ひとつしか残っていない目に水が張って行くいくのがわかる。体温よりも熱く感じるその液体はあっさりと涙腺から絞り出されて頬を伝い、顎からぽとりと落ちていった。

 大丈夫。この戦いの中で、ユルグフェラーの皇族として受け継いだ力で何度その言葉を人々に伝え続けたことだろうか。

 なにが"大丈夫"だ、と、思ってしまう。

 人をなだめるつもりで伝え続けてきたこの言葉は、結局のところジョン本人が誰かにそう言って欲しくて胸の中で唱え続けていただけの情けない祈りの言葉でしかなかった。

 見ていることしか出来ない辛さは、母国で何度も味わった。自分の毒見役が死んでも、護衛の騎士が死んでも、それが皇族というものなのだと言われ続けていたから慣れたつもりでもいた。

 でも決して辛くないわけではないのだと、思い知らされた。

 何も大丈夫なんかじゃない。見ているだけの辛さは、何も出来ない悔しさは、どの国でも、どの立場でも結局変わりはしないのだ。

「……キルシー?」

 ユルグフェラーの騎士たちが、ジョンに毛布を持ってきながら不意に空を見上げる。彼らは、自分の国の皇子が常に連れていた大きなカラスの事を知っていて、その名前もきちんと覚えていた。主の大事な存在なのだ。知らないわけがない。

 だが、彼らは今あの大ガラスが甲高い叫び声を上げながら空を飛び回っている理由まではわからなかった。

 ケェーケェーと、まるで甘える時のような声を上げながらぐるぐると同じ場所を飛んで回っているカラスを、カイウスが、アレンシールが、ジークレインが――誰もが、徐々に視線を上げて見守り始めた。

 大カラスの声は勝ち鬨のようでもあり、失ったものを惜しむようでもあり、眠っている者を目覚めさせようとするもののようでも、あって。


「ぶえっっっっっっっっくしっ!!!!」


 真っ黒く大きな翼を広げながら飛ぶカラスを誰もが見上げていた、そんな時だ。まるで貴族でもなんでもない一般家庭の少女の――いや、このエグリッドではくしゃみをする時にそんな盛大に声を出すことなんかはないから、まさか女の子の声でそんなやかましいくしゃみを聞いてしまったことに、逆に聞いたほうの人間が驚いて仰け反った。

 まさか、こんな状況で、この空間で、そんな元気な声が出るとは誰も、思っていなかったから。

「あーー……さっむ……」

「ナ、ナオ……!?」

「エリアスティール!!」

「い……っっっっっっくしゅん!!!」

「リリさん?!」

 ぼんやりと空を見上げていたジョンとアレンシールは、己が抱えていた毛布の塊がもそもそと動いて毛布の中に潜り込もうとするのに驚いて声をひっくり返していた。

 最初にくしゃみをした黒髪の魔女だけでなく、双子の魔女の少女の方も大きな声でくしゃみをする。それから鼻をこすりながらすすったもので、慌てて騎士が鼻紙を渡していた。

 魔女の中で唯一の男子だった少年が一番控えめで小さな「くしゅん」というくしゃみをした時には、逆に聞き逃しそうになったくらいだ。

「……生きてる?」

 自分も紙をもらって鼻を擦っている黒髪の魔女を呆然と抱えていたジョンは、いつの間にか掴んだままだった彼女の手があたたかくなっていることに気がついて、その肌がさっきまでのようなぬるっとした冷たいものではないことに驚いた。

 ジョンは過去何度も、死体を触ったことがある。

 己の毒見役、護衛の騎士、母親――みんなその身体に触れて、死体の肌の感触には慣れていると、知っているとばかり思っていた、のに。

「あー……あのさ、ジョン」

「あ、え?」

 止まらない涙はそのままに、呆然とさっきとはまるで違う肌触りになっている黒髪の魔女の手指や頬を触って確認していたジョンを見ながら、黒髪の魔女は海水でベタついている己の髪をひと撫ででさっぱりと綺麗に乾かして、握ったままだった手を今度は自分から握り返してやった。

 一本しか無い年下の少女の手だというのに、その手のなんと頼もしいことか。

 ぼろっと、また皇子の目から涙が落ちる。


「勝つために戦うなら、誰も死なない完全勝利のが、かっこよくね?」


 バチリと、ジョンの足元で元・魔女の日記が弾けて燃えた。

 それは、力を使い切った誰かが「そうだそうだ」と言っているかのようにも見えた。

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